第39話 マズいことになりました

「はい、これ」


エスカレーター横に設置された木製のベンチへ腰かける陽奈に、沙羅が紙コップを手渡す。


「……どうも」


ココアの甘い香りがきいたかどうかはわからないが、陽奈の顔色は先ほどまでよりはよくなっていた。


「……で、何があったわけ? べ、別に興味はないけど聞いてあげないこともないわ」


自分で言っておきながら頭を抱える沙羅。ああ……! またやってしまった! 私のバカバカ!


「……家出したんです」


ぼそりと呟くように発した言葉に沙羅が驚愕する。家出した、という事実にではない。あの神木陽奈が会話に応じたことに驚愕していた。


「あ、え? 家出? どうして……?」


「……母親が、電話しているのを聞いたんです。また、一年以内にアメリカへ行くと……」


「え!? アメリカに……戻るってこと?」


「そんなふうに……聞こえました」


ココアをひと口飲み、ほぅと小さく息を吐いた陽奈が目を伏せる。


「……で、でも、確定してるわけじゃないんでしょ?」


「わかりません……」


陽奈の表情はいつもと何ら変わりない。が、弱々しい声で言葉を紡ぐその様子は、明らかにいつもの陽奈とは違うと沙羅は感じた。


「……ん? てゆーかさ、あんた小さいころから何年か前までアメリカで暮らしてたんでしょ? なら、アメリカはむしろ故郷? 的な感じなんじゃないの?」


「……アメリカに郷愁を感じることはありません。日本人ということで少なからず差別もありましたし……個人的な理由で好奇の目で見られることも多かったですから」


「そう、なんだ……」


「はい。それに……私は絶対に日本を離れたくないんです」


はっきりと断言した陽奈を、沙羅は少し意外に感じた。


「どうして……離れたくないの?」


「大事な……人ができたんです。とても……とても大切な友達が……」


絞り出すように紡いだ言葉に、沙羅は驚きを禁じ得なかった。クラスメイトとすらほとんど言葉を交わさず、いつも浮いている彼女にここまで言わせる存在がいるという事実に衝撃を受けた。


「へ、へえ……そんな子がいたんだ。学校の子……じゃあないよね?」


沙羅はどうしても知りたかった。教室では常に話しかけるなオーラを漂わせ、誰ともまともに口をきこうとしない彼女の友達とはいったい何者なのか。


「違います。そもそも小学生でもありません」


「そ、そうなんだ……ええと……どんな人なの? や、別に気になるとかじゃないんだけど、全然」


もちろん大嘘である。が、素直に聞けないのが沙羅である。


「……私とは……何もかも正反対な人です。勉強が苦手で、見た目も派手で、とてもキレイで、キラキラとした明るい世界にいて、大勢の人から慕われている……そんな人です……」


最後のほうは声が震え、瞳には再び涙が浮かび始めた。沙羅が慌ててショルダーポーチからハンカチを取り出し差し出す。いつもなら高い確率で拒否されるし、今回もそうなるだろうと思った沙羅だが、意外にも陽奈は素直にそれを受け取った。


「……その人は、私のことを大事な友達だって……体の一部のような存在だって言ってくれました……でも、それは私にとっても同じなんです……」


あふれる涙をハンカチで拭いつつ言葉を紡ぐ様子を、沙羅は黙って見つめる。悲しみに打ちひしがれるクラスメイトに何と声をかけるべきかわからない。


そして、彼女とそこまで強い絆でつながっている存在に、心の奥底でわずかに嫉妬した。こんなときに、少なからずそのような醜い感情を抱いたことに、沙羅は自己嫌悪した。と、そのとき──


沙羅の視界に、こちらをコソコソと窺う怪しい男の姿が映り込んだ。金髪の若い男が、こちらへスマホのカメラを向けている。


神木陽奈は天才児ともてはやされる有名人だ。それに、ファッション誌に掲載されたことで、さらに知名度は高まっている。


盗撮──


怒鳴りたい衝動に駆られた沙羅だが、何とか堪えて陽奈の手をとった。


「神木、盗撮されてる。行くわよ!」


一瞬キョトンとした陽奈の手を掴んだまま、沙羅は施設の奥へ向かい駆け出した。ちらと肩越しに背後を見やると、二人の若い男が追いかけてこようとしている様子が窺えた。


「しつこい変質者ね!」


と、進行方向に運よく施設内を巡回している二人の警備員を発見した。


「警備員さん! あの人たち盗撮魔、いや変質者です! 捕まえて!」


何かから逃げるようにこちらへ向かってくる小学生女子と、その背後から迫るイカつい男二人。警備員がどのような行動を起こすかは明らかだった。


「何!? おい、止まれ!」


警備員たちが二人組の若い男を一喝し、腰から特殊警棒を抜く。若い男たちが警備員に動きを止められている様子を確認した沙羅は、陽奈の手をひきながらそのままショッピングモールの北側出入口から外に出て、人混みのなかへと紛れ込んだ。



──旧・新宿エリア、中心市街地のコインパーキングに車を停めたマコトと樹里たちは、陽奈らしき少女を見かけたというショッピングモールへと足を向けていた。


「もしもし、俺だ。ああ……ああ……何? バカが……ヘタ打ちやがって」


舌打ちをするマコトに、樹里や咲良たちが訝しげな目を向ける。


「とりあえず、その周辺を張ってろ。ああ、今度はヘタに近づかずにまずこっちへ連絡しろ。わかったな」


眉間にシワを寄せたマコトは、通話を終えたスマホを尻ポケットに突っ込むと、大きく息を吐いた。


「すまねぇ、嬢ちゃん。ヘタ打っちまった」


「ど、どうしたんですか?」


「嬢ちゃんが捜してるダチによく似た子がショッピングモールのなかにいた。それで、こっちに確認してもらおうとこっそり写真を撮ろうとしたらしいんだが……」


「失敗したわけね」


サラッと咲良に言われ、マコトはバツが悪そうに頭をかいた。


「ああ。変質者と勘違いしたみたいだな。二人でいきなり走り出したからマズいと思って追いかけようとしたら、警備員に止められたようだ。結局そのまま見失ったらしい」


「二人……」


樹里はやはりそこが気になっていた。陽奈から同年代の友達がいるなどという話は一度も聞いたことがない。果たして、その二人のうち一人は本当に陽奈なのだろうか。


「ちなみに、その子は神木って呼ばれてたみたいだが」


「……! 陽奈です。間違いありません」


樹里の瞳に強い光が宿る。近くに、この近くに陽奈がいる。心臓の鼓動が少し速くなるのを感じた。


「そうか。まだそんなに遠くへは行ってないはずだ。兵隊集めてここら一帯を捜すぞ。もう日も落ちかけているしな」


そう口にするなり、マコトはスマホを取り出し何やら操作し始めた。どうやら、LIMEでメッセージを送っているらしい。


「……よし。行くぞ」


「はい!」



──ショッピングモールから少し離れた場所にある書店。店内に備えつけられた横長の椅子に、陽奈と沙羅は腰をおろしていた。


「そもそもだけどさ、あんたママから直接はっきり言われたわけじゃないんでしょ? アメリカ戻るって」


「はい」


「普通さ、そんな大事な話を娘に黙ったまま進めるかな……」


沙羅が眉根を寄せて首を捻る。


「それは……」


「ママが電話してるのを聞いたって言ってたけど、それじゃ話の流れとかまったくわからないわけじゃん? もしかすると、ただ一年以内にアメリカへ観光しに行く、遊びに行くって話してただけかもよ?」


陽奈の目が大きく見開かれる。その考えにはまったくいたらなかったようだ。


「そう……かもしれないですね……」


「うん。とりあえずさ、一度ママとちゃんと話してみたらいいじゃん。それに、いきなりいなくなって、きっとママも心配してると思うけど?」


「……」


「連絡だけでもしとけば?」


「……スマホの充電切れてるんです」


「コンビニ行けば乾電池で充電できるやつ売ってるし。モバイルバッテリーのレンタルもあるよ」


「……初めて知りました」


「はぁ……あんたって頭いいくせに世間知らずよね」


「大きなお世話です」


ジロリと横目で睨まれ思わず怯んだ沙羅だが、陽奈がいつもの調子に戻ってきたことを少し嬉しく感じた。


「もう外もかなり暗いしさ。時間はまだ早いけど。とりあえずコンビニ行ってスマホ何とかして、ママに連絡してから帰ればいいんじゃない?」


「そう、ですね。そうします」


「私もそろそろ帰るわ。あまり遅くなるとママに怒られるから。コンビニ、一人で行ける?」


「バカにしないでください」


「してないわよ別に。あ、それと。あんた一応有名人なんだから、さっきみたいな変質者には気をつけなさいよね」


「わかってます」


ほんとかよ、と思わずツッコミそうになった沙羅だが、何とか堪え椅子から立ち上がる。


「じゃあ、私行くわ。明日、ちゃんと学校来なさいよね」


「はい」


沙羅が陽奈に背中を向けて離れてゆく。


「あの、白鳥さん」


「! な、何?」


まさか呼び止められるとは思わず、沙羅は弾けるように振り返った。


「……ありがとうございます」


「……別に、大したことはしてないわ。クラスメイトなんだし……」


わずかに頬を紅潮させた沙羅は、もう一度「じゃあね」と口にしてその場をあとにした。



──時間はすでに十八時近くになっていた。まだまだ夜というには早く、時間帯的には夕方なのだが、空は暗く染まりネオンの灯が目立ち始めていた。


「そうか、わかった」


電話を切ったマコトが樹里へ目を向ける。


「うちの兵隊が直接見たわけじゃないが、一丁目の路上でよく似た子を見たヤツがいるそうだ。ただ、その子は一人でいたらしいんだが……」


「一緒にいた子とは別れたんじゃない? もう暗いし子どもは帰る時間だ」


咲良の言葉にマコトと樹里が頷く。


「一丁目ならそれほど遠くない。行ってみよう」


一丁目は大きな道路を挟んだ先だ。昼間は殺風景なコンクリートジャングルだが、夜になると歓楽街としての顔を見せる。


横断歩道を渡ると、街の空気が一変した気がした。夜の街が放つ独特の匂い。きつい香水の香りを撒き散らしながら闊歩するスーツ姿の若い男性や、極端に短いスカートを履き胸元を強調する女性。


夜の世界の住人たちが支配するエリアへ足を踏み入れたことを実感し、樹里はにわかに体を固くさせた。と、そこへ──


「ねぇねぇ君! かわいいね! キャバとか興味ない!? もっと稼ぎたいならヘルスとかイメクラも紹介でき──」


「邪魔だ。失せろ」


樹里と咲良に声をかけてきた若いスカウトの男をマコトが睨みつける。鋭い眼光で睨まれた男は「ひっ!」と短く悲鳴を漏らして逃げ去った。


樹里の心臓が鼓動を速める。こんなところに陽奈がいるかもしれない。そう考えただけで息が苦しくなりそうだった。


陽奈は小学生ではあるものの、文句なしの美少女だ。世のなかには幼い少女に性的な興奮を覚える変態もいる。そんな輩がもし陽奈に近づいたら。


「お、電話か……おう、俺だ……何!? どこだ!? ああ……ああ……わかった、すぐ行く!」


全員の目がマコトに集中する。


「いたぞ。『破廉恥ヌキヌキ学園』と『暗闇薬局』のあいだあたりらしい!」


と言われたところで、夜の街に詳しくない樹里たちにはさっぱりである。ただ、どちらもいかがわしいお店であることだけは何となく理解できた。


足速になったマコトのあとを追うように樹里たちがついていく。ピンクのネオンといかがわしい店名の看板が次々と視界に映り込み、樹里は思わず顔を顰めた。と、そのとき──


「あ! 樹里、あそこ!!」


声をあげたのは葉月。指さす先に樹里が視線を向ける。視界に飛び込んできたのは、陽奈とその腕を掴むサラリーマン風の男の姿。


頭のなかで何かが弾け、樹里は陽奈のもとへ全力で駆け出した。ポケットのなかでスマホが鳴っていたが、そんなこと気に留めず全力疾走する。


「陽奈ああああっ!!」


大声で叫びながら突進した樹里は、その勢いのままこちらを振り向いたサラリーマン風の男へ全力の飛び蹴りを食らわせた。


「あがぁっっ!!?」


男が堪らず地面をゴロゴロと転がる。


「陽奈!!」


「じ、樹里……」


樹里が陽奈を抱きしめる。その温もりをたしかめるように、強く、強く抱きしめる。かすかに震えるその体を、陽奈もまた抱きしめた。


「陽奈ぁ……無事で……ほんと、無事でよかった……」


嗚咽しながら陽奈を抱きしめ続ける樹里。その様子を、マコトや咲良、葉月、晶は少し離れたところから見守った。


「樹里……私を、捜しに来てくれたんですか……?」


「当たり前じゃん……! どんだけ心配したと思ってるんだよぉ〜……!」


涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら言葉を紡ぐ樹里の様子に、陽奈の瞳にも涙が浮かんだ。が、陽奈には一つ、樹里にどうしても伝えなくてはならないことがあった。


「樹里……」


「ん……?」


「……マズいですよ」


陽奈の体を離した樹里が怪訝な表情を浮かべる。


「な、何が?」


「……さっき樹里が蹴飛ばしたの、警察の人です」


地面に転がったまま唸るスーツ姿の男を陽奈がちらりと見やる。


「……は?」


「だから、私を保護しようとした警察官です」


樹里の顔がまたたく間に青ざめる。慌てた樹里は、蹴り飛ばした私服警察官のもとへ駆け寄ると、懸命に介抱をし始めるのであった。

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