第38話 ガチのサイコパスやん

「っっぶないわねー! どこ見て走ってんのよ!!」


休日でそこそこ人通りが多い歩道にもかかわらず、すぐそばを猛スピードで走り抜いていった自転車の男に、沙羅が罵声を浴びせる。


何なのよもう! てゆーか、最近あーゆーの多すぎない!?


四角形の大きなバッグを背負った自転車の男はすでに視界から消え失せていた。沙羅の言う「あーゆーの」とは、近年急激に増えたフードデリバリーサービスのことである。


最近やたらと目にするようになったが、自転車を運転するときのマナーがとにかくなっていないと沙羅は感じていた。


なぜ小学生でも守れるようなことを大人が守れないのか。旧・新宿市街地の路上を一人歩きながら、沙羅は大きく息を吐いた。


だいたいママもママよ。今日は一緒にお出かけするって約束してたのに。どうしても外せない予定が入ったって何よ。


そっちの約束は外せないのに、娘とお出かけする約束は簡単に外せるのか? まあ、ママのドタキャンなんて今に始まったことじゃないけど。あー、ムカつく。


肩を怒らせる沙羅の上着のポケットで、スマホがブルっと振動した。取り出し画面を確認する。


『あなたの投稿にイイネがつきました』


にんまりとした沙羅が『glamorous』を開く。承認欲求の塊のような沙羅にとって、glamorousはなくてはならないツールだ。


「……ん?」


タイムラインに流れる投稿の一つに沙羅が目を止める。


『最近は少しずつ状況が好転してきた、気がする。が、それでもやはり己の不甲斐なさと無力さに日々打ちのめされている。毎夜、過去の過ちが悪夢となって襲いかかる。しんどい』


ルシフェル……、こいつ、いつもネガティブな投稿ばっかしてるのよねー。まあ、何となく気になったからフォローしてるけどさ。


はぁ、と息を吐いた沙羅が、スマホを両手で持ち軽快な指の動きでコメントを入力する。


『あのさあ、誰でも間違うことなんてあるの思うけど? クヨクヨしたところで仕方ないじゃん。それをここで言って何になるのよ。もっと前向きになれば?』


若干イラッとしているため、つい辛辣なコメントを残してしまう。炎上するかもしれないが、まあいいだろう。はぁ……何か余計に疲れてきたわ。


とりあえず早く帰って、今日買ったかわいい雑貨でも眺めて癒されよう。右手にぶら下げた小さな紙袋をちらりと見やると、不思議とイライラが緩和された気がした。


大型ショッピングモールの前に位置する地下鉄の出入口が視界に入る。あそこを降りて電車に乗って帰れば、また明日から学校か。そっとため息をついたそのとき。思いがけないものが沙羅の視界に飛び込んできた。


「え……? あれって……」



──最初に感じたのは戸惑い。それが、怒りと恐怖、絶望へと変わるのに時間はかからなかった。


初めてできた心を許せる友達。何よりかけがえのない存在。そばに寄り添いともにあり続けるのが当たり前となった日常。


それを奪われると知ったとき、陽奈はパニックになった。嫌だ。嫌だ。嫌だ。


気がついたら、靴を履いて自宅を飛び出していた。母と出かける予定だったため、幸い財布とスマホだけは持っていた。


正直、電車をどう乗り継いだのかもまったく覚えていない。とにかく遠くへ。自宅から遠くへ離れないといけない。それだけを考えていた気がする。


地下鉄の出口から地上へ出てしばらく歩いた。雑踏のなか、商業ビルに設置された大型屋外ビジョンが視界に映り込む。


屋外ビジョンのなかのニュースキャスターが、すました顔でどうでもいいニュースを垂れ流していた。


『……次の話題です。物価の高騰が止まりません。世界情勢の変化を受け、身近なものが次々と値上がりしています』


わざわざニュースで伝えるほどのものだろうか。ほんとに平和なものだ。胸の内でニュースキャスターへ悪態をつき、屋外ビジョンに背を向ける。


『……特に小麦粉の値上がりが顕著です。これにより、小麦粉を扱う飲食店などは大きな打撃を受けそうです』


画面が街頭でのインタビュー映像に切り替わる。


『いやー、ラーメン店も値上がりしちゃって、行きにくくなりましたよー』


『たこ焼きもね。大好きなのにたこ焼き。こんなに高くなっちゃうと考えちゃうよね』


陽奈の足が止まった。


「たこ焼き……」


ぼそりと呟く陽奈の脳裏に、楽しかった夏祭りのひとときが鮮明に蘇った。


樹里と咲良、葉月、晶で一緒に食べたたこ焼き。ぼったくりだと言われ顔をゆでだこのように真っ赤に染めた店主。下駄の音を派手に鳴らしながら、息を切らして参道を駆けた夏の夜。


そうか。小麦粉が値上がりしていたから、あのたこ焼きもあれほど高かったのかもしれない。店主のおじさんには申し訳なかったかな。


そんなことを考える陽奈の両目に涙があふれ、次々と頰を伝い落ちた。


雑踏のど真んなかで大粒の涙をこぼしながら佇む陽奈に、道ゆく人々が次々と心配げな視線を投げかける。


上着のポケットからスマホを取り出した。が、画面は真っ暗なままだ。迂闊にも充電をほとんどしておらず、家を出てすぐに切れてしまった。


スマホをそっと裏返す。パールホワイトの本体裏側に貼られた一枚のプリクラ。


そこには、仲良くVサインをしながら笑顔を向ける樹里と陽奈が写っていた。そして、タッチペンで書かれたミミズが這ったような文字。


『ずっと一緒』


それを見た途端、張り詰めていた糸が完全に切れた。嗚咽が止まらなくなり激しくしゃくりあげる様子に、何人かの通行人が声をかけるが、陽奈はそれを振り切り全力で駆け出した。


気がついたときには、大型ショッピングモールの入り口そばに建つ、大きな円柱形の柱に寄りかかっていた。泣きすぎと走りすぎで苦しい。とにかく涙を止めないと。


不審がられて変な目で見られてしまう。でも、止まれ止まれと念じるほどに、不思議と涙があふれてはこぼれ落ちた。と、そのとき──


「……神木?」


聞き覚えのある声で話しかけられ、陽奈は声の主へゆっくりと視線を向けた。



──これほど人がいるのにすぐ神木だとわかったのは、いつも自然と彼女を目で追いかけているからだろうか。


「……神木よね? 何して──」


声の主が沙羅だと気づいた陽奈はサッと顔を背けると、もたれていた円柱形の柱から離れ歩き始めた。


はぁ!? ガン無視!? ありえないんだけど!!


こめかみに青筋を浮かべながら、沙羅は逃げようとする陽奈の肩を右手で掴んだ。


「ちょっと! 何無視してんの……よ……」


沙羅は思わず息を呑んだ。こちらを向かせた陽奈の両目には涙があふれ、目の周りは赤く腫れていた。


「な、泣いてるの……?」


「……泣いていません」


沙羅の手を振り払った陽奈は、服の袖でゴシゴシと目元の涙を拭い始めた。


「い、いや……それは苦しすぎるでしょ。な……何かあったの?」


それには答えようとせず、再び陽奈は背を向けて立ち去ろうとする。のだが──


「あっ!」


足元をふらつかせた陽奈が転倒しそうになり、思わず沙羅はその手をとった。


「あぶな……ねえ、ほんとに大丈夫なの?」


「少し……体力を消耗しすぎただけです」


「? とりあえず、少し休んだほうがいいわよ。ここ入りましょ。入ったとこに座れるとこあるから」


ほんのかすかに陽奈が頷いたので、沙羅はその手をとったままショッピングモールの入り口へと向かった。



──幹線道路を走行中の黒いワンボックスカー。運転席でハンドルを握る風間マコトは、先ほどからひっきりなしにかかってくる電話にスピーカーモードで対応しつつアクセルを踏み込んだ。


「ああ、そうだ。引き続きその地域をまわってくれ。いいか、揉め事は起こすなよ」


『はい、わかってます』


プツッと電話が切れ、マコトが小さく息を吐く。助手席では咲良が腕組みをしたまま正面を睨み、後部座席では樹里を挟んで葉月、晶がちょこんと座っていた。


「いやー、マコトさん。協力してくれてマジ感謝っす!」


「感謝っす!」


葉月と晶の賑やかな声が車内に響き、マコトはククッと笑みを漏らした。


「気にすんな。それにしても葉月に晶、お前らずいぶんおっかねぇダチとつるむようになったじゃねぇか」


バックミラー越しにマコトと目があった樹里が、怪訝な表情を浮かべる。


「わ、私ですか?」


「嬢ちゃんもだが……」


マコトがちらりと助手席に座る咲良を見やる。


「何? 私のこと?」


地元のおっかない先輩に平然とタメ口をきく咲良に、葉月と晶が後部座席であたふたし始める。


「ああ。咲良……だっけか。お前かなりヤバいヤツだろ」


「いや、ただの真面目で才色兼備なJKだけど」


後部座席に座る全員が心のなかで「自分で言った」と総ツッコミを入れた。マコトも思わず快活な笑い声を漏らす。


「よく言うぜ。お前、ヤスが掴みかかったとき何しようとしやがった?」


「……」


葉月と晶が顔を見あわせる。何のことを言っているのかわからないようだ。そして、あのスキンヘッドの男がヤスという名前なのを全員が初めて知った。


「俺と嬢ちゃんは気づいてたぜ。お前がそのポケットから何か取り出そうとしてたのをな。何か凶器どうぐが入ってんだろ? 小型のナイフ……ってとこか。あのままだと、へたしたらヤスは刺されていただろうな。あのときの嬢ちゃんの「やめて」はヤスじゃなく咲良、お前に向けた言葉だ」


「ふん……まあ、樹里があそこであんなこと言い出したのは誤算だったけどな」


まさか咲良がそんなことをしようとしていたとは露知らず、葉月と晶はただただ慄いた。


「私に掴みかからなくても、樹里にあんだけ下品な口叩いたんだ。マジでぶっ殺してやろうかなと思ったよ」


「ほんとこえー女だな。俺の人生で出会ってきた女のなかでぶっちぎりだ。つーか、そんな見た目でいつも凶器持ち歩いてるとかヤバすぎだろ。昭和のスケバンかよ」


「はあ? 何言ってんだ。私はこれでも成績優秀な真面目ちゃんだぞ? 凶器なんか持ち歩くかよ」


そう言って、咲良はポケットから何かを取り出した。それを目にした全員の目が点になる。咲良がポケットから取り出したのはナイフではなく、数学の授業で使うコンパス。ご丁寧に針の部分には透明のカバーがついている。


「コンパス……マジかよ……」


唖然とするマコトを尻目に、咲良がふんと鼻を鳴らす。


「学業に励む学生がコンパス持ってても何も不思議じゃないだろ? スキンヘッドのイカつい男に凄まれて、怖くなってポケットから適当に何か取り出して振り回したら、たまたま針がぶっ刺さった。ってことにすりゃ何の問題もねぇだろ」


中学生時代から散々無茶なことをしてきた咲良が、一度も警察の厄介になったことがない理由がこれだ。頭がいいため、常に逃げ道を確保しているのである。


「こえー、なんてもんじゃねぇな……完全にサイコパスじゃねぇか……」


さすがのマコトも驚きを隠せない。もし、あのとき自分がヤスを制裁していなければ、いつかあいつはこのお嬢ちゃんに殺されていただろう。しかも、誰にもバレない方法でひっそりと。


一方、後部座席では葉月と晶がひたすらドン引きしていた。ヤバいヤツだとはずっと思っていたが、まさかそこまでとは思っていなかったのだ。


そして、そんな咲良と小学生のころからずっと一緒にいるという樹里は、もっとヤバいのではないかと思わず心配になってしまった。


「……葉月、晶。今、心のなかで私の悪口言ったか?」


バックミラー越しに、切長の涼しげな目で睨まれた二人が背筋を伸ばす。


「い、言ってないし! ガチのサイコパスじゃんとか思ってねーし!」


「ねーし!」


「いや、それ絶対に思ってたじゃん」


まるでコントのようなやり取りに再びマコトが声を出して笑う。と、そのとき。


「お、また連絡だ。菊地原か」


エアコン送風口に設置したホルダーの内側でスマホが着信メロディを奏でる。マコトは左手の指で通話とスピーカーのアイコンをタップした。


「おう、俺だ」


『マコトさん、お疲れっす。例の小学生ですが、旧・新宿エリアで見かけたヤツがいます』


後部座席の樹里が思わず身を乗り出す。


「どのあたりだ?」


『地下鉄の旧・東新宿駅近くです。そばに『EAST』ってショッピングモールありますよね。その入り口周辺で、同じくらいの年の子と二人で何か話していたみたいです』


電話口から聞こえた報告を聞き、樹里が怪訝な表情を浮かべた。


「ちょっと待て。おい、嬢ちゃん。その子はほかのダチと一緒に家出したのか?」


「いえ……そんなはずはないかと……。そもそも、陽奈に同年代の友達がいるなんて聞いたことがありません……」


「……そうか。おい、菊地原。とりあえずそのあたりに何人かうちの兵隊向かわせとけ。ただ、へたに接触はするな。お前らの風貌じゃ人さらいだと間違えられて防犯ブザー鳴らされちまうぞ」


『酷い言われようっすね。了解です』


通話を終えたマコトがバックミラーを見やる。後部座席では、樹里が顎に手をやったまま目を伏せ何事か考え込んでいた。


「……嬢ちゃん、心配するな。この調子で目撃情報が増えれば居場所もかなり絞れる。必ず見つけられるさ」


「……はい」


「とりあえず、俺らも旧・新宿エリアを探してみるか。駐車場に車停めて足で情報収集だ」


全員が力強く頷き、マコトは再びアクセルを踏み込んだ。

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