第36話 あの子はどこに?

世のなかには二種類の人間しかいない。もっているもの、そしてもたざる者だ。


自分は間違いなく後者だろう。努力はなかなか認められず、やっと認められたと思ったら、もっている者に根こそぎ奪われてしまう。


こうなってくると、周りの者すべてが敵に見えてくる。そう、身内さえも。父はずいぶんと自分を庇ってくれていたが、最近はあからさまに態度を変えた。


物理的にも精神的にも距離をおかれ、会話を求めても仕事が忙しいと拒否されてしまう。今の父にとって、自分はただの問題ばかり起こすろくでなしの息子なのかもしれない。


饐えた臭いが立ち込める薄暗い部屋でパソコンの前に座った男は、膨大な写真フォルダのなかから一つを選び、マウスをダブルクリックした。


適当に選んだファイルを開き、一覧で表示する。たちまち、モニターいっぱいに写真が展開された。


どれも、ローアングルから女性の下着を撮影したものばかりだ。時間をかけて増やしてきた自慢のコレクションを前に、男が恍惚の表情を浮かべる。


本当にいい時代になったものだ。今は靴のなかに仕込める盗撮向きの超小型カメラもある。これさえあれば、素人でも素晴らしい景色を撮れる。


男が再びマウスを操作し、別ファイルの上にポインタを移動させた。展開したファイルに格納されていたのは、栗色の髪が印象的な女子高生の写真。


話題の読者モデルも自分の手にかかればこの通りだ。柔らかそうな尻肉に食い込むテロテロとしたサテン生地のショーツと、その奥に確実に存在する花園を想像し、男の股間がむくむくと膨らむ。


思わずズボンのベルトに手をかけそうなったものの、何とか思いとどまった男はパソコンから『glamorous』を開いた。若い女性に人気のSNSだ。


新しく作り直したアカウントでログインし、ジュリのプロフィールへとアクセスした男は、そっとメッセージマークをクリックした。



──晴天の霹靂とはこのようなことを言うのだろうか。


「え……陽奈、今何て……?」


文化祭が終わった翌週の土曜日。陽奈は樹里の自宅で着せ替え人形になっていた。そのさなか、陽奈の口から語られた衝撃の事実。


「……恥ずかしいから何度も言わせないでください。だから、咲良さんに、その……キスされたんです」


樹里の手に抱えられていた服がドサドサと音を立てて床に落ちた。


「な、な、な……何で!? どうしてそんなことになってんの!?」


ベッドに腰かける陽奈のそばへ瞬時に移動した樹里が陽奈の両肩を掴み問いただす。


「う……文化祭の日に、樹里と別れたあと咲良さんの……その、相談にのってて……そのお礼にって……」


「はぁ〜!? はぁ〜!? はぁ〜!? ぜんっぜん意味分かんないんだが!」


「や、その。海外では割とそーゆーの普通なので、咲良さんもそのノリだったんだと……」


ぐぬぬ、と唸っていた樹里の表情がスッと素に戻り、すっくと立ち上がった。


「じ、樹里?」


「……私、ちょっと咲良のとこ行ってくる!」


「いや、落ち着いてください」


部屋を出て行こうとした樹里の脇腹を、陽奈が人差し指でツンッと突く。


「ひゃん!」


かわいらしい声を漏らして体を大きくくねらせる樹里。


「わざわざ話をややこしくしないでください。あとから誤解されたくないんでちゃんと言ったし、もういいでしょう?」


「……ズルい」


「は?」


ふるふると肩を震わせていた樹里が、キッと陽奈を見つめる。


「咲良だけ……ズルい! 私もする!」


「な、何を……きゃっ!」


樹里が陽奈の両肩を掴みベッドへと座らせる。


「私でさえ陽奈にキスなんてしたことないのに……咲良だけなんて……ズルいよ……」


「い、いや……そもそも同性でそういうことするの、おかしいじゃ──」


「小学生のころ咲良とはよくしてたよ?」


「……は?」


陽奈が固まる。それは初耳なんですけど。


「とにかく、咲良だけなんてズルい! 私も陽奈にチューしたい!」


「はぁ……もう、分かりましたよ。お好きにどうぞ」


「やった!」


このままだと埒があかないと諦めた陽奈がため息をつき、目を閉じる。まあ、頬へのキスくらいいいか。と待ち構えていたそのとき──


「……!? んんっ! んんんっ!?」


頰に両手を添えられ、唇がやわらかいもので塞がれた。思わず陽奈が声にならない声や漏らす。頬にキスされるものだとばかり思っていたら、何と口にされてしまった。


「ど、どうしたの陽奈?」


「どどど、どうしたの? じゃないですよ! 何で口にキスしてるんですか!?」


「え? キスって口にするもんでしょ……って、え? もしかして……」


「……咲良さんにされたの、頬になんですけど」


陽奈にギロリと睨まれ、樹里は「あわわ」と慌て始めた。一方の陽奈は、驚きに恥ずかしさ、かすかな怒りとさまざまな感情が複雑に絡みあい、どんな顔をすればいいのかわからない。


「……初めてのキスが同性……しかも樹里になるなんて……」


はぁ、と小さく息を吐いた陽奈だが、あることに気づきハッと顔をあげた。


「樹里、さっき咲良さんと小学生のころよくキスしてたって言ってましたよね……? それってまさか……」


「え? 普通に口でしてたけど」


あっけらかんと言い放たれ、陽奈の顔がみるみる赤くなった。


「い、いやいや。おかしいでしょ! 女子同士でそんな……!」


「そう、かな?」


「そうですよ! ふしだらです」


「いや、ふしだらて」


大袈裟だなあ、とでも言わんばかりにへらへらと笑う樹里を、今度は陽奈が「ぐぬぬ」と睨みつける。


「……まあ、もういいです。何かどっと疲れました」


「あはは。ごめんごめん。あ! そう言えばさ、葉月がバえるパンケーキ出すお店見つけたんだって。明日行ってみる?」


「バえる……樹里、SNSとかやってましたっけ?」


「うん。glamorousだけだけどね」


「そうなんですか。ちなみに明日はお母さんと出かける予定なので無理ですね」


「あ、そうなんだ」


「はい。ちなみに、glamorousにはどんな投稿を?」


glamorousは小学生にも人気のSNSなのだが、陽奈はアカウントさえもっていない。


「うーん、読モの活動に関する内容がほとんどかな? 撮影した写真とか」


「なるほど」


樹里は「ちょっと待ってね」と言うと、キャビネットの上に置きっぱなしになっているスマホを取りに移動した。


どんな投稿をしているのか見せてくれるのだろうか。こちらに背中を向けたままスマホを操作する様子を陽奈がじっと見つめる。


「……? 樹里?」


背中を向けたまま固まったように動かなくなった樹里に、陽奈が怪訝な目を向ける。声をかけたとき、樹里の肩が一瞬だけわずかに跳ねたのを陽奈は見逃さなかった。


「あ、ああ……! ごめんごめん。何かスマホの調子悪いんだよね〜」


振り向いた樹里の顔色が少し悪い。


「? 何かありました? 顔色悪いですよ?」


「んーん。ちょっと前にもスマホ壊れたからさ。またか! って焦っただけ」


あははー、と笑いながら陽奈の隣に座った樹里は、SNSを開いて「こんな感じー」と投稿している写真を陽奈へ披露した。


「へー……意外とフォロワーは少ないんですね」


「まあ、そこまでSNSに力入れてないしね」


過去に投稿した写真などを見せる樹里の調子はいつもと変わらないように見える。が、声のトーンや会話の間など、かすかな違和感を陽奈は抱いた。そして、その違和感は陽奈が樹里の自宅をあとにするときまで続いた。



──それにしてもまさか、こんな日がやってくるとは夢にも思っていなかった。


リビングのソファに体をあずけたまま、神木葉子は愛娘が被写体として掲載された『Cuteeeenキューティーン』の誌面を眺めた。


すでに発売から数ヶ月経っているものの、葉子は時間を見つけては陽奈の晴れ姿をこっそりと何度も楽しんでいた。


こんな経験ができたのも、樹里ちゃんが仲良くしてくれているからね、きっと。先日は文化祭にも誘ってもらい遊びに行ったと聞いた。


あの、引きこもりで休日もほとんど家から出なかったような陽奈が。変れば変わるものだ。


と。ローテーブルの上でスマホが着信を知らせるメロディを奏で始めた。画面には『キャシー』と表示されている。


葉子の勤める外資系企業が取引している会社の担当者だ。そして、アメリカで暮らしていたころの友人でもある。


「ハーイ、キャシー」


『ハイ、葉子。よい日曜日を楽しんでるー?』


「ええ。もう少ししたら娘とお出かけするところよ」


『それは素敵ね。そっちは今何時くらいなの?』


「午前十一時くらいね……って、ずいぶん周りが騒がしいわね?」


『ああ、会社のチームでパーティーしてるのよ。楽しいお酒を飲んでるわ』


楽しげに笑う様子に思わず葉子の口元も綻んだ。


「なるほど。それで酔っ払って私に電話してきたわけね」


『まあそんなとこ。あ、葉子ちょっとごめんね………………」


誰か男性がキャシーへ話しかけたようだ。一分足らずで再び葉子が電話口に現れた。


『ごめんごめん、繋がってるよね?』


「大丈夫よ。何かあったの?」


『んーん。チームの一人が仕事の電話をかけるから少し抜けるって報告に来てたのよ。ほんと、日本人って律儀というか働き者というか……』


「日本人? ああ、この前オフィスにいた……ええと、影浦さんだっけ?」


どこか悲壮感漂う男性出向社員の姿が葉子の脳裏に蘇る。


『そうそう』


「たしか息子さんが問題を起こしたとか何とかって人よね」


『うん。それが原因かどうかは知らないけど、息子さんとは一緒に暮らしていないみたいよ』


「そうなの?」


『日本で息子さんが問題起こして、何年か前に家族でこっちに来て一緒に暮らしてたらしいんだけどね。でも、少し前に息子さんは日本に帰しているんだって。問題起こしたからって、そんな邪険にしなくてもいいと思うんだけど』


「うーん……まあいろいろ事情があるんじゃない?」


二階で鳴っていた掃除機の稼働音が止み、葉子は壁の時計に目をやった。お出かけ前に部屋を掃除するようにとの言いつけを陽奈はきちんと守ったようだ。


おそらく、あと十分もしないうちに降りてくるだろう。


『どんな事情があっても家族は一緒に暮らしたほうがいいと思うけどね。子どもに問題があるならなおさら、日本よりアメリカに呼んで一緒に暮らすべきだと思うわ』


「アメリカで?」


『ええ。こっちなら問題のある若者を更生させられるプログラムなんかも豊富だし』


「ああ……まあたしかに、それを考えるとアメリカがいいかもしれないわね」


『でしょ? 日本ほど夏はジメジメしないし最高よ』


「それは今関係ないでしょ。でもまあ、それに関しては間違いなく日本よりアメリカがいいと思う。何だかんだ暮らしやすかったしね」


『うんうん。葉子もまたこっちで暮らせばいいのに』


「あはは。そうねー」


『まあ冗談はさておき。たまにはプライベートで会いましょうよ。娘ちゃんも連れて。うちの新居も見てほしいし』


「そうだね。じゃあ……一年以内にはアメリカ行くわ。新居も見たいし……ん?」


廊下のほうからゴトンッ、と何かが落ちるような音が聞こえ、葉子はリビングのドアへ目を向けた。陽奈だろうか?


「あ、もうこんな時間か。キャシー、そろそろ。またこっちからも電話するわ」


『わかった。じゃあまたね。バーイ』



電話を切った葉子はソファから立ち上がると、リビングのドアを開いた。さっきの物音は何だったんだろうか。


「陽奈ー! そろそろ出かけるわよー!? 降りてらっしゃーい!」


階段の下から二階へ声をかける。が、陽奈からの返事はない。葉子は首を傾げつつ二階への階段をのぼった。


「陽奈ー?」


部屋の扉を開ける。言いつけどおり掃除はしたようだ。きれいに片づいている。が、肝心の部屋の主人がいない。


葉子は階段を降りると玄関へと向かった。朝、玄関を掃除したとき、たしかに土間には陽奈お気に入りの黒いローファーがあった。はずだった。


にわかに慌てた葉子はスリッパのまま玄関の外へ出た。しかし、玄関ポーチの先にも、右にも左にも陽奈の姿は見えない。


バクバクと激しくなる心臓の鼓動を何とか抑えつつ、葉子はそばの道路まで駆けていく。しかし、やはり周辺に陽奈の姿はいっさい見えなかった。

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