第29話 私は何ということを
授業終了を知らせるチャイムが鳴り、沙羅は「ん〜!」と大きく伸びをした。
「はい。それじゃ一番後ろの席の人はテストを回収してねー」
算数教師の指示を受け、列最後方の生徒が一人ずつテスト用紙を回収していく。教師がすべてを回収し教室を出て行くと、由美と桃香がそばへやってきた。
「沙羅ちゃんテストどうだった?」
「……まあまあね。由美は?」
「私もそこそこ自信あるかな。塾の先生からしっかり指導してもらってるし」
「ふーん……桃香は?」
「んー、まあ五十点以上はとれてると思う」
五十点以上ってギリギリじゃん、と口から出そうになった沙羅だが、そこは何とか堪えた。
私立聖蘭学院小学校では、一年を通して頻繁にテストが実施される。しかも、テストの点数が貼り出されるため、嫌でも力を入れざるを得ない。
「あ〜今回はできるだけ上位に入りたいな〜。一度でいいから一位にもなってみたい」
ため息混じりに漏らした由美に、沙羅がじろりと目を向ける。正直、それは現実的な話ではない。
なぜなら、この学校には神木陽奈がいるのだから。転入してきて以来、すべてのテストで百点以外とったことがない化け物。もちろん、全教科全テストをあわせた総合順位もぶっちぎりの一位だ。
いや、体育だけは例外だったか。そもそも、授業へろくに出ないうえにテストを受けることもほぼない。ただ、体育のテストがゼロ点だったとしても、その他教科がオール百点なので結局総合一位なのである。
「はぁ……」
沙羅が頬杖をついたままため息を吐く。
「どうしたの、沙羅ちゃん?」
「……何でもないわ。ちょっとトイレ行ってくる」
沙羅はランドセルのなかから花柄模様の小さなポーチを取り出すと、素早くスカートのポケットに仕舞い席を立った。
はぁ……体ダルいな。お腹もかなり痛いし……暑くてお股蒸れるし……気分も滅入る。
どうして神様は女子にだけ生理なんていうシステムを組み込んだのか。もっとほかにいい仕組みがあったんじゃないのかと、沙羅は心のなかで神様を呪った。
用をたしてナプキンも取り替えると、多少気分が晴れた。あくまで多少、だが。
「……ん?」
個室を出て手を洗っていた沙羅は、隣に誰か立った気配を感じちらりと目を向けた。刹那、沙羅の顔が分かりやすく引き攣る。隣で手を洗っていたのは陽奈だった。
げっ……! 神木じゃん……ただでさえ生理で気分が滅入ってるのに、トイレで遭遇するなんて。
沙羅は陽奈に気づかれないよう、そっと横目で顔を見やった。
相変わらず感情が読めない奴ね……無愛想というか……。ただ、悔しいけど頭だけじゃなくて顔もいいのよねこいつ。
まつ毛も長いし鼻もスッとしてるし……ん?
ちらちらと陽奈の横顔を見ていた沙羅が、眉根を寄せて首を傾げる。
あれ……? この横顔どこかで見た気が……あっ! 夏祭りのときジュリさんと一緒にいたあの子!
え? え? まさか、あのときのかわいい子が神木だっての? ジュリさんと仲良く手を繋いでたあの子が? いやいやいや。んなことあるはずない!
「……ちょっと神木。あなた、夏休みに相生町の夏祭り行ってた?」
「何ですか、いきなり?」
「いいから答えなさいよ」
「行ってましたよ。友達と」
目もあわせずに淡々と答える陽奈に若干イライラし始める沙羅。
ん? 友達……ってことは同年代の子よね? まさか小学生と高校生が友達ってことはないだろうし。いや、その前に神木に友達なんているの? そっちのほうが驚きなんだけど。
とりあえず疑惑が晴れて内心密かに胸を撫でおろす。と、今度は陽奈が自分のことをちらちら見ていることに気づいた。
「な、何よ。ちらちらと……」
「生理痛きついんですか?」
沙羅の顔がにわかに強張る。
「な、何で私が生理って……」
「スカートのポケットが不自然に膨らんでます。ナプキンを入れたポーチですよね? それに顔色がよくありません」
あっさりと見抜かれたことに、沙羅はただただ驚愕した。が、できるだけ顔に出さず平静を装う。
「あ、あなたには関係な──」
「これ鎮痛剤です。よければどうぞ。不要なら捨ててください」
手洗い台の上に鎮痛剤が二錠パッキングされたシートを置くと、陽奈はそのまま女子トイレから出て行ってしまった。
呆然とした表情のまま陽奈を見送った沙羅が、そっと鎮痛剤を手に取る。頭が混乱して、何が何だか分からなかった。
誰とも関わろうとしないばかりか、会話すら煩わしいと考えているような陽奈が、クラスメイトの生理痛を心配した挙句鎮痛剤までくれたのだ。
これは夢なのだろうか。手に取った鎮痛剤へ目を落とした沙羅は、片方の手で頰をつねる。うん、夢ではない。
「いったい……なんだってのよ……」
ぼそりと呟いた沙羅は、シートから取り出した鎮痛剤を口に含むと、手で水を
──高揚する気持ちを抑えようとすればするほど、挙動に現れてしまうのはなぜだろう。普段通り歩いているはずなのに地面を蹴る足が弾み、スキップしているように見えてしまう。
学校帰り、樹里は駅チカの大型書店へ咲良たちと一緒に訪れていた。今日は九月二十日。待望のLady ann発売日だ。
「どうしよう……ドキドキしてきた……!」
すでに出版社から見本誌は見せてもらっているのだが、それでも自分が表紙のファッション誌が書店の店頭へ並ぶという事実に、樹里は緊張せざるをえなかった。
「な、何かあたしらも緊張してきた……!」
「あたしも……!」
なぜか葉月と晶も緊張した面持ちだ。そんな三人の様子に、咲良は「やれやれ」と首を振った。
「ほらほら、早く行くぞー」
勇ましく先頭を歩く咲良の後ろを三人がついていく。やがてたどり着いたファッション・美容コーナー。
そこには、『今日の新刊』と手書きされたポップと、見慣れた人物が表紙を飾るLady annがたしかに陳列されていた。
「おおお……! 樹里だ!」
「すげー! ほんとに樹里が表紙飾ってる!」
静かな店内に葉月と晶の賑やかな声が響き、慌てて咲良が二人の頭へゲンコツを落とす。
「静かにしろ。ほかの客に迷惑だろうが。それに樹里が気づかれちまうだろ」
ハッとした二人が慌てて手で口を押さえる。そんな葉月たちの様子を気にすることなく、樹里が山の一番上のLady annを手に取った。
「本屋さんで実際に手に取ると、実感湧く……!」
両手で大切そうに持った雑誌の表紙を眺めながら樹里が呟いた。と、そのとき──
LIMEの通知音が鳴り、樹里はスカートのポケットからスマホを取り出した。陽奈からのメッセージだ。
陽奈『買いました』
律儀に写真まで添付してきた陽奈に、樹里はクスリと笑みを漏らす。
樹里『ありがとう陽奈♪ 夜に電話してもいい?』
陽奈『はい。待ってます』
胸のなかにぽかぽかとした温もりを感じながらスマホを仕舞う樹里を、咲良たち三人がニヨニヨと見守る。
「な、何?」
「いや、陽奈ちゃんとやり取りしてるときすぐ分かるなーって」
「めっちゃ嬉しそうな顔してるもんね」
「はぁ……樹里を嫁に出した気分だわ」
三者三様に好き勝手言われた樹里だが、嫌な気持ちはしなかった。
──やや重い足取りで歩道橋の階段を登りきった綾辻桐絵は、小脇に抱えている薄いベージュ色の紙袋をちらりと見やった。
長方形の紙袋に入っているのは、先ほど書店で購入したばかりのLady annだ。
心情的には買いたくない、表紙を見たくないとの気持ちが強いものの、ほぼプロとして活動している身としては勉強のためにもそういうわけにはいかない。
歩道橋の上を歩きながら、桐絵は先日のことを思い出していた。書店でいきなりランドセルで殴りかかってきた小学生。あれはいったい誰だったのか。
あのときは、ただただ驚きと怒りで冷静じゃなかったが、今思うと小学生にしてはキレイな顔立ちをしていた気がする。
それに、あの子は「訂正しろ」と言った。つまり、あの子はジュリの関係者なのだろう。もしかすると彼女の妹なのだろうか。
ジュリのことは吐き気を催すほど嫌いだ。ジュリのせいでプライドはズタズタに斬り裂かれ、見込んでいた収入も泡と消えた。
それでも、あんな小さな小学生の女の子を自分の言葉で傷つけてしまったのだとしたら、それは私の罪にほかならない。
はぁ、とため息をつきながら、桐絵は歩道橋の階段を降り始める。補修工事が行き届いていないのか、足元のコンクリートはいたるところにひび割れが生じていた。
桐絵がモデルやタレントとして活動しているのは、すべてお金のため、ひいては家族のためである。
両親がおらず、祖母と妹の三人で暮らす一家にとって、桐絵の収入は生命線と言っても過言ではない。
もともと顔立ちがよく、女性が憧れるスレンダーな体型だった桐絵は、小学生のころからキッズモデルとして頭角を現し、やがて本格的にモデルやタレントの道を目指すようになった。
それだけでは家族を養うには不十分であるため、桐絵はほかにもいくつかバイトをかけもちしていた。今でもスーパーのレジ打ちなどバイトもしつつ、モデル・タレント活動もしている。
Lady annの表紙に抜擢される話さえ流れていなければ……! もうすぎたことではあるものの、そう簡単には割り切れない。
本当は、桐絵自身がよく分かっていた。いくらジュリが人気の読者モデルとはいえ、いち高校生が汚い手段を用いてファッション誌の表紙に抜擢されることなどまずないということを。
それでも。誰かを恨まないことには、憎まないことには自身のメンタルを保てなかった。
歩道を歩きながら道路へと目を向ける。どこから転がっていったのか、ジュースの空き缶が車に轢かれ無惨に潰れた。さらに、次々と後続車が潰れた空き缶を踏みつけてゆく。
ぺしゃんこに潰れた空き缶が、猛スピードで踏まれるたびに灼熱のアスファルト上で小さく跳ねる。それはまるで、痛みに耐えながらのたうちまわっているように見えた。
何度も何度も、誰にも気に留められることなく踏み躙られてゆく空き缶が自分自身と重なり、桐絵は大声で泣き叫びたくなる衝動に駆られた。
「ただいま」
古びた木造一戸建ての玄関引き戸を開け声をかける。居間のほうから「おかえり〜」と祖母の声が聞こえた。
居間では、祖母が座椅子に座り座卓に広げた新聞を読んでいた。
「おばあちゃん、ただいま」
「おかえりなさい、キリちゃん」
「体調はどう?」
「大丈夫よ、このとおり」
右腕を曲げて力こぶを作ろうとする祖母の様子に、桐絵がクスリと笑みを漏らした。
座卓を挟んで祖母の向かいに腰をおろし、紙袋から雑誌を取り出す。
「キリちゃん、お茶淹れようか?」
「んーん、自分でやるからいいよ。おばあちゃんも飲む?」
「あら。じゃあお願いしようかしら」
雑誌を座卓の上に置いた桐絵が、台所へと向かう。五分もしないうちに、桐絵がお盆に湯呑みを二つのせて戻ってきた。
「はい、おばあちゃん」
「ありがとうね、キリちゃん」
祖母が嬉しそうに湯呑みを受け取る。と、祖母が桐絵の手元へ視線を落とした。次第にその目が大きく見開かれていく。
「キ、キリちゃん……その雑誌ちょっと貸してちょうだい……!」
「? どうしたの?」
祖母のただならぬ様子に、桐絵は首を傾げつつもLady annを手渡した。ファッション誌に興味なんてあったかな? と桐絵が不思議に思っていると──
「ああ……! やっぱり……! やっぱりそうよ!」
両手で雑誌を持ち、表紙をまじまじと見やった祖母が感極まったような声をあげる。
「な、何? いったいどうしたのおばあちゃん?」
「ほら、前に言ったじゃない! 私が心筋梗塞で倒れたとき、キレイな顔したお嬢さんが助けてくれたって! この子よ!」
座卓の上に置いた雑誌の表紙を指さしながら、祖母が興奮気味に叫ぶ。
「は……? や、え……? 嘘でしょ……?」
とんでもない話を聞かされ、桐絵は呆然とするしかなかった。
「ほんとよー! あのとき、このお嬢さんがうずくまっていた私に声をかけてくれてね、大丈夫って言ったのに救急車を呼んでくれたの。しかも、救急車が来るまで私の背中を優しくさすりながら、大丈夫ですよって励まし続けてくれたのよ」
嘘……そんな……だって私……。桐絵の体が小刻みに震え始める。
「あとでお医者様に言われたわ。救急車を呼ぶのがもう少し遅かったら、命を失ってたかもしれないって。このお嬢さんのおかげで、私はまたキリちゃんたちに会えたのよ」
「…………!」
「そう……こんな立派な雑誌の表紙を飾るってことは、凄いお嬢さんだったのねー……この写真のお嬢さん、とてもキレイでいい笑顔だもの。きっと心もキレイなのね」
「そう……だね。あ、私ちょっとトイレ」
いまだ嬉しそうに雑誌の表紙を眺める祖母と目を合わせぬように、桐絵は素早く立ち上がりトイレへと駆け込んだ。
そんな……そんな……! ジュリが、おばあちゃんの命の恩人……?
そんな人に対して……私はあんな酷いことを言っていたの……!?
私の大切な家族を大事に扱ってくれて、助けてくれた人に対して理不尽な怒りと敵意を向けていたの……!?
私は……私は……! 私は何てことを……! 何てとんでもないことを……!!
恥ずかしい──
桐絵の瞳から大粒の涙がとめどなく流れ落ちた。
ごめんなさい……ごめんなさい……!!
私は何て酷いことを……!
両手で顔を覆った桐絵は声を押し殺して嗚咽した。祖母が心配になり声をかけにくるまで、必死に声を押し殺して後悔の涙を流し続けた。
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