第21話 私はそれをどこで聞いたのか
日本の夏にエアコンは欠かせない。が、エアコンの冷気と風は苦手だ。同じような女子は多いのではないだろうか。
パソコンのキーボードを打つ手を止めた陽奈が、デスクの端に置いてあったエアコンのリモコンに手を伸ばす。
どうしよう、電源を切って窓を開けようか。夕方になり日は落ちかけているため、昼間よりはマシなはずだ。
陽奈はおもむろに立ち上がると窓際へ移動し、覚悟を決めて窓を開けた。途端にむわっとしたとんでもない熱気が壁となって押し寄せる。
ダメだ──
すぐさま窓を閉める。この時間帯でもまだ暑いのか。というか湿度が高すぎる。このジメジメとした暑さはどうしても慣れない。と、そこへ──
「陽奈〜! もうすぐご飯できるわよ〜!」
母、葉子の声が耳に届き、陽奈はベッドの上に投げ出していたスマホを手にとる。そう言えば、お母さんも「夏だけはやっぱりアメリカがいいわ〜」なんて言ってたな。
と、右手に握ったままのスマホがブルッと震え、陽奈は画面に目を落とした。樹里からのLIMEだ。
樹里『陽奈やっほー。明後日って暇?』
陽奈『特に予定はないですよ』
樹里『やった♪ ならお祭り行こうよ。うちの町内の神社で毎年やってる夏祭りあるからさ。咲良や葉月たちも一緒だけど』
陽奈『夏祭り、行ったことないです』
樹里『マ!? それならなおさら行こうよ! 楽しいよ夏祭り♪』
陽奈『じゃあ、行きます。でも、夏祭りって夕方から夜にかけてじゃないんですか? 樹里、夜に出歩くの苦手じゃ……』
樹里『うん、そうなんだけど、夏祭り会場みたいな賑やかなとこで、友達も一緒ならまあ何とか大丈夫!』
陽奈『なるほど』
樹里『じゃ、明後日の十七時くらいに迎え行くね。あ! 陽奈浴衣は持ってる?』
陽奈『持ってないです。夏祭りとか縁がなかったもので』
樹里『なら、私が小学生のとき着てたの貸すよ! お母様、着付けできるかな? 着付けできないなら私がしてあげるから、そのときはもう少し早めに迎え行くね!』
陽奈『わかりました』
やり取りを終えたのと同時に、母が呼ぶ声が飛んできた。スマホを握りしめ、軽やかなステップを踏むかのように部屋を出てゆく。
「もう〜、呼んだら早く降りてきなさいよね」
軽く小言を漏らしてから陽奈の顔を見た葉子は、「おや?」っと首を傾げた。いつも能面のように表情が変わらない娘の顔がやや綻んでいる。
「ねえ、お母さん。明後日、夏祭りに行っていい?」
「夏祭り? どこであるの?」
「相生町の神社」
「ってことは、樹里ちゃんと行くの?」
「うん」
サラッと答える娘の様子に、葉子が目を細める。アメリカにいたときも、日本へ戻ってきてからもこんなことは一度もなかった。
ほんと、樹里ちゃんには感謝しかない。それに樹里ちゃんなら母親としても安心だ。
「もちろんいいわよ。楽しんできてね」
「うん……あ。お母さん、浴衣の着付けできる?」
「あう……お母さんも子どものころ親に着せてもらってたからな〜……自信ないかも。ていうか、うち浴衣もないわよ?」
「樹里が子どものとき着てたの貸してくれるって。お母さんが着付けできないなら、樹里が早めに迎えきてやってくれるって」
「おお……! 樹里ちゃんどんだけパーフェクトヒューマンなの? 同性として憧れちゃうわ……」
相変わらず、葉子のなかでは樹里の評価が爆上がりである。
「なら樹里ちゃんにお任せしようかしら。いつも陽奈が遊んでもらってるし何かお礼もしなきゃだわ〜」
今どきのお嬢さんが喜ぶものって何だろう? やっぱり甘いものとか鉄板かしら。そんなことを考える葉子を尻目に、陽奈はパクパクとご飯を口へ運び続けていた。
──夏でもなるべく生足は出したくない。でも暑いからストッキングは履きたくない。パンツルックなんてもってのほかだ。
そんなわけで、だいたいこの時期はマキシ丈のスカートを履くことが多い。これなら夏でもそこそこ涼しく生足を晒すこともないのだ。が──
ちょっとこの店、エアコン効きすぎじゃないか?
地域で一番大きな書店の洋書コーナーで目当ての品を物色していた咲良は、無意識にスカートのなかで内太ももを擦りあわせた。
暑いよりはマシだが、もう少しエアコンの温度は高めにしてほしい。何で額から汗だらだら垂れ流してる暑苦しい男どもに女が合わせなきゃなんないんだ。
心のなかで男性社会を呪いつつ本棚の左から右へと視線を這わせてゆく。お、あった。日本でも人気を博した海外映画の原作。
手に取ろうと咲良がスッと手を伸ばす。が──
「「あっ」」
隣に立っていた男性も同じ本へ手を伸ばしたため、思わず二人の手が触れてしまった。少女マンガなら恋が始まるフラグだ。
「あ……すみません。これ、買われます?」
咲良が手を引っ込めて男に声をかける。年は二十代前半、だろうか。顔はそこそこいい。
「そのつもりでしたが……一冊しかないようですね。お譲りしましょうか?」
「いいの?」
「ええ。読んでみたかったのですが、よく考えたら私の英語力では難しそうですから」
男が自嘲気味に笑う。
「なら……お言葉に甘えて」
咲良が本を手に取り、ペラペラとページをめくる。うん、面白そうだ。
「あの、凄いですね。そんな難しい洋書読めるなんて」
「ん、ああ。英語だけは得意だからね。子どものころから洋書も読んでたし」
実際は全教科得意なのだがそれは言わない。
「私なんて英語教師で、海外への留学経験もあるのにまだまだです」
「へえ。英語の先生なんだ? どこの学校?」
「私立聖蘭学院小学校です。まあ今年からですけどね」
咲良が目をぱちくりとさせる。んん? 私立聖蘭ってたしか、陽奈ちゃんの通ってる学校だよな? ふーん……。
「私立聖蘭なんて凄いじゃん。あ、連絡先教えてよ」
「え!?」
唐突に連絡先を聞かれたことに、今度は男が目をぱちくりとさせた。
「この本譲ってもらったし、そのうちお礼したいからさ」
「い、いや、そんなの別に……というか、君高校生くらい……だよね?」
「ああ。高校二年生だよ。JK2。何? JKと連絡先交換するのはマズいん?」
「そんなことはないと思う……けど」
「下心ないならいいんじゃない? それとも、下心ある?」
樹里と並んで学校屈指の美女と言われる咲良にニコリと微笑まれ、男の心臓がバクバクと鳴った。
「い、いえ! じゃあ……これ」
男がスマホを取り出し、LIMEアカウントの二次元コードが表示された画面を見せる。咲良もスマホを取り出しカメラでコードを読み取った。
「ええと……山里君、ね。私は
高校生とは思えない色香に、山里は終始ドギマギしっぱなしだった。
「じゃあね。また今度連絡するよ」
「あ、はい」
ぼーっと咲良を見送る山里。一方、咲良はというと、新しいオモチャを手に入れたような黒い笑みを口元に浮かべていた。
陽奈ちゃんと同じ学校の教師だし、何かのときには使えそうだ。パパ活匂わせて金むしりとってやってもいいが、陽奈ちゃんの担任とかだとマズいしな。
そんなことを考えつつ、咲良は譲ってもらった本を片手に軽やかな足取りでレジへと足を向けた。
──夏祭り当日。
「「おお〜!」」
準備を終えた陽奈を見て、樹里と葉子が感嘆の声をあげた。
「ほんと陽奈って何でも似あうよね。めちゃかわいいよ!」
薄ピンク地に朱色、薄紫色の花をあしらった夏らしいデザインの浴衣。髪も浴衣にあわせてアップスタイルにまとめ、お祭りということで特別に薄くメイクもしている。
「んー、陽奈しか勝たん! って感じ。ほら、鏡見て見て!」
陽奈の背中を押すようにして鏡の前へと立たせる。どんな反応するかな、と樹里は横からその顔を覗き込んだ。
「凄い……かわいい……」
鏡に映る自分の姿を凝視しながら、心の声をそのまま漏らしたような陽奈の反応に、樹里と葉子はつい噴き出してしまった。
「何なのよーその反応〜」
「や、でもほんとかわいいですからね」
口元を押さえて笑いを堪える葉子を、陽奈が鏡越しにじろりと見やる。
「でも樹里ちゃんてほんと、女子力の塊よね。料理に礼儀作法、ファッションセンスも完璧で浴衣の着付け、化粧、ヘアメイクまでできるなんて。同じ女性として自信なくしちゃうわ〜」
鏡越しにジト目を向ける娘を無視して、樹里の高すぎる女子力を賞賛する葉子。
「あはは、ありがとうございます。陽奈、ちょっとこっち向いて」
「はい」
陽奈の前で中腰になり、リップを塗り直した樹里が「うん、いいね」と満足げに頷く。
もともとの素材がいいためメイクも映える。ナチュラルメイクではあるものの、クラスメイトが見てもわからないんじゃないだろうか。
陽奈が再び鏡へと向き直る。
「……私じゃないみたいです。メイクでもこんなに変わるんですね」
ぼそりと呟いた陽奈の表情から感情は読み取れないものの、喜んでいるような印象は受けた。樹里が陽奈の背後からそっと両肩へ手を置く。
「うんうん。かわいく変身できるのは女の子の特権だからね」
陽奈の肩越しに鏡を見ながら発した樹里の言葉。その言葉が耳に届いた刹那、葉子の全身を雷が直撃したような衝撃が駆け巡った。
顔から表情が消え失せた葉子が、娘へ楽しげに話しかけている樹里の後ろ姿を呆然と見つめる。
かわいく変身できるのは女の子の特権──
樹里が発した言葉が耳の奥で何度もこだました。私はその言葉を知っている。
どこ? 私はどこでその言葉を聞いた? たしかにそれは、とても大切な言葉だった気がする。でも、それなら私はなぜ忘れてる?
「……あさん。お母さん!」
ハッと我に返った葉子の目の前では、陽奈が怪訝そうに顔を見上げていた。
「お母さん、どうしたの?」
「え?」
「お母様、ぼーっとされてましたよ? もしかしてお疲れなんじゃ……」
いまだきょとんとしている葉子へ、樹里が心配げな視線を向ける。
「あ、何か一瞬ぼーっとしちゃった! まさか陽奈がこんなに変身するとは思わなくて意識が遠のきそうになったのかな?」
あは、あははと取り繕う葉子に、樹里と陽奈が不思議そうに顔を見あわせる。と、樹里の視界に壁掛けの時計が映り込んだ。
「お……そこそこいい時間だね。陽奈、そろそろ出かけようか?」
「はい」
「ちゃんと下駄と巾着も用意してあるからね」
玄関へ向かった樹里と陽奈が、下駄を履いて巾着をもつ。準備は万端だ。
「それじゃお母様。陽奈をお借りしていきます。花火までいると思うので、二十一時くらいまでには連れて帰りますね」
「うん。わざわざごめんね、樹里ちゃん。陽奈、楽しんできなさいね。樹里ちゃんたちに迷惑かけちゃダメよ?」
「わかってる」
ややつっけんどんに言い放つ陽奈に、樹里と葉子がクスリと笑みをこぼした。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
「はーい。行ってらっしゃい!」
玄関の扉がバタンと閉まり、家のなかに静寂が訪れた。二人を見送ったあとも、葉子はしばらくのあいだそこへ立ち尽くしていた。
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