第13話 もうすぐ期末テストですね

それは陽奈との些細なLIMEのやり取りから始まった。


樹里『やっほー。陽奈、何してんの?』


陽奈『コーヒー飲みながら小説を執筆していました』


樹里『おお……何か大人な感じ(°▽°)』


陽奈『樹里さんは何してるんですか?』


樹里『んー、ゴロゴロしてた。あ、この前送った写真、お母様に見せた?』


陽奈『はい。何かウルウルしてました』


樹里『うんうん。カメラマンさんの後ろからこっそり盗撮した甲斐があったわー(笑)』


陽奈『いや、盗撮ってバレてますからね』


樹里『ウケる(//∇//) あー、早くCuteeeenキューティーンの新刊出ないかなー♪ めちゃ楽しみだよー』


陽奈『そうですね。たしか七月五日でしたか。まあ、それも楽しみですけど来月はもう一つ大切なイベントありますよね』


樹里『あ、夏休みが始まるね!』


陽奈『……違います』


樹里『え? ほかに何かある?』


陽奈『樹里さんの期末テストですよ。たしか七月の七日からですよね?』


樹里『…………』


陽奈『沈黙してもダメですよ。いい点数とれるように私もお手伝いしますから。苦手な英語と数学を中心にガッツリ勉強しましょう』


樹里『……はい_| ̄|○』



──ときを刻む時計の音と重なるように、カリカリとペンを走らせる音だけが樹里の耳に届く。


「ん〜……!」


パソコンデスクの上にペンを置いた樹里が、凝り固まった全身をほぐすように思い切り伸びをした。


「終わりましたか?」


ベッドの端に腰かけて読書をしていた陽奈が、本から顔をあげる。


「うん、何とか。見てもらっていいかな?」


「わかりました」


ベッドから降りた陽奈は樹里のそばへ立つと、デスクの上から一枚の紙を取りあげ素早く視線を這わせ始めた。


「……まあ、合格点ですかね」


「ほんと!? やったー!」


「でも、以前間違っていなかった問題を今回いくつか間違えています。そういう細かいところも詰めていきましょう」


「う……はい」


少し肩を落とした樹里を見やり、かすかに陽奈が目を細める。


「でも……まあ頑張ったと思います。だから、花丸あげます」


赤ペンを手にした陽奈が紙に花丸を描き込むと、樹里の顔がパァッと明るくなった。単純である。


陽奈が手にしているのは、彼女が手作りした英語の問題用紙だ。次回の期末テストに備え、樹里は目下陽奈の自宅で勉強中である。


ただ、いつもと違うのは──


「樹里ちゃん、陽奈ー。そろそろ晩ご飯作ろうと思うけど大丈夫?」


部屋へ入ってきたのは、陽奈の母親葉子。そう、今日は陽奈の自宅にお泊りしての勉強会なのである。


「あ、それなら私お手伝いしますよ、お母様」


「いやいや! お客さんにお手伝いなんてさせられないって!」


「いえ、お泊りさせていただくわけですし、ぜひお手伝いさせてください」


「ふぁ〜……ほんっと樹里ちゃんって凄いわね。うちの陽奈なんて家事いっさいやらないのに……」


ジト目を向けられた陽奈が素早く顔を背ける。葉子のなかでは樹里の評価が爆上がりだ。


「じゃあお手伝いしてもらおうかな。陽奈、あんたも少しは手伝いなさいよ?」


かすかに唇を尖らせた陽奈に苦笑いしつつ、三人はぞろぞろとキッチンへと向かうのであった。



神木邸のキッチンは広く、三人で立っても窮屈さは感じない。冷蔵庫から食材を出していた葉子の視界に、陽奈が着たエプロンの紐を背中側で結んであげている樹里の様子が目に入った。


友達というより、お姉ちゃんみたい。クスリと笑みを漏らした葉子に、樹里と陽奈が怪訝そうな目を向ける。


「えーと、お母様。何を作る感じですか?」


「そうねぇ。新鮮で大きなアジを買ってきたから開いて塩焼きにして、あとはサラダとお吸い物でも作ろうかしら」


「なるほど」


調理台の上に出されたアジをまじまじと見た樹里が、顎に手をやり思案する。


「お母様。どのアジも新鮮そうなので、片面は刺身かなめろうにして、もう片面を塩焼きにしてはどうでしょう?」


「あ、それいいわね! まあ、私魚を捌くの苦手だけど……」


「なら、アジは私が捌いて調理しましょうか。お母様はほかを担当してもらえれば……」


「うう……樹里ちゃんが何か凄い……とても今どきの若いお嬢さんとは思えない……」


「あはは。小さいときから自炊してるので。陽奈、一緒に調理する?」


樹里が提案したものの、陽奈が即座に首を左右に振る。


「無理。魚、触れない」


「ありゃ。じゃあお母様のサポートだね」


こくこくと頷く陽奈に笑いそうになりつつ、樹里は手際よくまな板の上にアジを置き調理を始めた。


ゼイゴと呼ばれる硬い鱗を丁寧に包丁で削ぎ、腹と背の両方から包丁を入れてゆく。丸々としたアジはあっという間に三枚におろされてしまった。


「凄い……私よりずっと包丁の使い方上手……」


年齢にそぐわない見事な包丁さばきに、葉子の目が点になる。


「あはは。まあ、慣れです。あ、お母様。お吸い物にアジのアラ使いますか? いい出汁がとれますよ」


「あ、うん! そうしようかな」


「なら、頭は兜割りにしちゃいますね」


包丁の根本部分でアジの頭を真っ二つにし、中骨と尻尾をアラとしてまとめる。流れるような手際のよさに、葉子は終始嘆息しっぱなしだった。


「おっと、見惚れてる場合じゃなかった。陽奈、冷蔵庫からレタスとトマトを出してちょうだい。トマトは洗ってね」


「わかった」


緩慢な動きで冷蔵庫から指示された野菜を取り出す陽奈。ちらりと見やった樹里の手元に魚の血が付着しているのを目撃し、心のなかで「ひっ」と小さく叫ぶ。


葉子を挟む形で配置についた陽奈が慣れない手つきで野菜を洗い、レタスをサラダ用に細かくちぎってゆく。包丁は使ったことがないため、カットしなければいけない野菜は葉子の担当だ。


一方、樹里は三枚におろしたアジの半身を刺身にして皿へ盛りつけ、三つの半身をグリルで焼き始める。数分も経たずに、魚の身が焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。


「ねえ、樹里ちゃんってやっぱりいいとこのお嬢様なの?」


葉子からの唐突な質問に、樹里が目をぱちくりとさせた。


「い、いえ。全然そんなことないですよ?」


「本当に? 初めて会ったときから思ってたけど、樹里ちゃんて言葉遣いも礼儀作法も凄いし、調理までできちゃうし。絶対にいいとこのお嬢様だと思ってたよ」


「あはは。うちはごく普通の家庭ですよ。ただ、母がものすごく厳しい人だったんで。おかげで家事は一通りできるようになりましたけどね」


「そうだったのね。厳しい人だった、というのはもしかして……」


「……はい。私が小学生のころ──」


「お母さん! 手動かして」


樹里の言葉を遮るように陽奈が口を開いた。珍しく大きな声を出したことに、葉子と樹里がかすかに驚く。


「あ、ええ、ごめんなさい」


もしかして、気を遣ってくれたのだろうか。陽奈の表情からは感情がまったく窺えないが、樹里は何となくそんな気がした。


母が死んだのはもう何年も前だし、引きずってもないんだけどな。樹里の口元にかすかな笑みが浮かぶ。陽奈の優しさに触れた気がして、胸のなかにぽかぽかとした温もりが広がった。



──夕食後。


ダイニングと直結したリビングで陽奈と一緒にテレビを観ていた樹里は、葉子が再びキッチンに立ったことに気づいた。


どうやら洗いものを始めるようだ。


「あ、お母様。私もお手伝いします」


「いいよいいよ! ご飯作るの手伝ってもらったし、これくらいは一人でやらなきゃ」


リビングのソファから腰を浮かせかけた樹里を手で制しながら、葉子はお茶目にウインクした。そしてテレビから視線を外さない陽奈にジト目を向ける。


「陽奈ー? あんたはもう少し家事手伝おうとしなさいよね?」


「……」


無言でちらりと葉子を見やり、またすぐテレビに向き直る陽奈。どうやら、普段から家事にはいっさい手を出さないようだ。


「まったくもう。ほんっと陽奈は……」


呆れた様子で首を左右に振る葉子を尻目に、突然陽奈がすっくと立ち上がる。


「……樹里さん。勉強しましょう」


「あ、うん」


多分、これ以上小言を言われたくなかったんだろうな、と樹里は内心苦笑した。


「樹里ちゃん、お勉強頑張ってね! あとでコーヒー淹れてもっていくから。あ、紅茶がいい?」


「じゃあ紅茶でお願いします。ありがとうございます」


ぺこりと頭を下げ、陽奈と一緒にリビングを出て行く二人を見て、葉子はクスッと笑みを漏らした。



──パソコンデスクに頬杖をついた樹里が、数学の問題集と睨めっこしつつ「うーん」と唸り声をあげる。数学は樹里がもっとも苦手とする科目だ。


「んー……何か違うような……」


「どうしました?」


学習机で読書していた陽奈が樹里のもとへ近づき、問題集を覗き込んだ。


「ん……この問題なんだけどさ」


「……何が難しいんですか?」


「もう、またそんなことをー。陽奈を基準にしちゃダメだって」


樹里がぷうと頬を膨らませる。


「樹里さんは数学を難しく考えすぎなんですよ。数学なんて解答さえ導き出せればどのような解法を用いても問題ないんです」


「そうなの?」


「そうです。自由なやり方で問題を解くのが数学のおもしろさであり奥深さでもあるんです」


「な、なるほど……」


「だから、その問題を私が解くとしたら……これをこうして、こうして、さらにこうします」


ペンを手にした陽奈が、ノートにサラサラと数式を書き答えを導き出す。


「え……こんな解き方でもいいの?」


「はい。このタイプの問題なら、樹里さんにはこの解法が合ってるかもしれませんね」


「覚えとく!」


「そうしてください」



そこからさらに二時間。途中に休憩を挟みつつ勉強していた樹里だが、遂に限界が訪れた。


「疲れた……」


「たくさん勉強しましたしね。そろそろ樹里さんの布団敷きましょうか」


樹里が泊まるということで、陽奈の部屋には葉子が準備した予備の布団が用意されていた。


「うん……そうしよっかな」


「あ、先にお風呂入ります?」


「……じゃあお借りしようかな。てゆーか、陽奈も一緒に入ろうよ」


樹里の言葉に陽奈の体がにわかに固まる。


「……一緒に、ですか?」


「あれ、嫌だった?」


「嫌、ではないですけど……」


「ないけど?」


「お母さん以外の人と一緒にお風呂へ入ったことがないので……恥ずかしいです」


無表情のまま微妙にモジモジとし始める陽奈を見て、樹里がにんまりと笑みを浮かべた。


「もー、陽奈ってばきゃわたんすぎ。愛おしすぎて思わずぎゅってしたくなったよ」


「……バカにしてませんか?」


ジロリと横目で睨まれた樹里がたじろぎながらも両手を振って否定する。


「してないしてない! さ、お風呂行こ!」



──湯船に浸かりながら、陽奈は髪を洗う樹里をじっと眺めていた。


長くてきれいな栗色の髪。女子なら誰もが憧れる立派な胸の膨らみと腰のくびれ。


「……樹里さんって、改めて見るとスタイル凄いですね」


「んー、そうかな?」


「そうですよ」


陽奈が湯船のなかでそっと自身の両胸に触れる。うん、実にささやかな膨らみ。いやいや、まだ小学五年生。まだまだこれからだ。そうに決まってる。


「まあ、私の場合は遺伝かな? お母さんもめちゃスタイルいい人だったからさ」


樹里の口から「お母さん」のワードが出たことに、思わず陽奈の体に緊張が走る。


「そう……なんですか?」


「うん。ほんと、ボンキュッボンって感じで、プロのモデル顔負けだったよ」


あはは、と笑いあっけらかんとした様子で湯船に足から入る。肩まで浸かると、湯船から溢れたお湯がザブンと洗い場に流れ落ちた。


湯船のへりに両手を置き、ぼーっと壁を見つめる陽奈に樹里が怪訝な表情を浮かべる。


「……陽奈?」


「……あ、何ですか?」


「大丈夫だよ。胸の大きさは遺伝だけで決まるもんじゃないらしいし。陽奈はまだ小学生なんだから、これから成長する可能性は大いにあるよ」


「いや、別に心配してませんけど」


どうやら胸のサイズを気にしていると勘違いされたようだ。実に不本意である。まあ多少は気にしたが。


「もしかして、まだ恥ずかしい?」


「いえ……よく考えたら、樹里さんの前で何度も服脱いでいますし、今さらですよね」


「あはは。そうだね」


陽気に笑う樹里の声が浴室にこだまする。


「それにしても、いっぱい勉強したなー……多分人生で一番勉強してるよ」


「そうなんですか?」


「うん。中学生ぐらいからまじめに勉強しなくなったし。勉強しなくなって授業にもついていけなくなって、余計に勉強が苦痛になって、ってゆー悪循環。まあ自業自得だけどね」


「……じゃあ、今はかなり勉強していますね。相当無理してるんじゃないですか? 私がけしかけたものの、ストレスを溜めすぎるのは……」


「ううん。陽奈の教え方ってめちゃわかりやすいし、全然ストレスないよ。難しいと思ってた問題も何とか解けるようになってきたし、最近はちょっとずつ勉強が好きになってきた気がする。陽奈のおかげだね」


にこりと笑みを向けられ、陽奈は反射的に目を逸らす。


「……ならいいんですが」


樹里から「陽奈のおかげ」と言われたことで陽奈は思わず口元が緩みそうになる。が、それを悟られないようわざとそっけない態度をとった。


何となく陽奈のことを理解し始めた樹里は、そんな彼女の様子に再びにんまりとした笑みを浮かべるのであった。


なお、このチャンスにと風呂上がりに「一緒に寝よう」と持ちかけた樹里だったが、それはあっさりと却下されてしまった。

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