第11話 まさかのデビュー?

母はとても優しく厳しい人だった。独特な価値観と信念をもっている人だったけど、誰からも慕われる素晴らしい母親だった。


そんな母は、私が九つのとき交通事故で死んだ。道路に飛び出した子どもを庇って車に撥ねられ、病院に運ばれたがそのまま意識を取り戻すことなくこの世を去った。


『樹里はきっと美人になるよ。だって私の娘なんだから。それは樹里にとって大きな武器になる。でも、それだけじゃダメ。ただかわいいだけ、美人なだけの女は舐められる。私が樹里を厳しくしつけるのは、誰からも舐められず、つけいられないようにするため。わかるかい?』


自慢の母を失ったあと、私はしばらく茫然自失の日々を送った。厳しい母のもと真面目に勉強もしていたが、大好きな母を亡くしてからはそれもしなくなった。


立ち直れたのは、咲良をはじめとした当時の友達のお陰だと思う。


転機が訪れたのは中学二年のとき。ファッション誌『Girl & Girl』の編集スタッフに街なかで声をかけられ、そのとき撮影してもらったスナップが大きな反響を呼んだ。


編集の人は私が高校生だと思ったらしく、中学生と聞いて驚いていた。そんなこんなで読モとして活動を始めた私は、またたく間に多大な人気を得るようになった。


母は私のこのような活躍を予想してただろうか。


『樹里ならアイドルやモデルにもなれるかもね』


たしかそのようなことを言われた記憶もある。これは母に先見の明があったということだろうか。


……ん? 何か遠くで私を呼ぶ声が聞こえる気がする。何となく体も揺れているような……地震?



「……さん……樹里さん」


床で丸まったまま眠っていた樹里の体を陽菜が軽く揺さぶる。


「んん……お母さん……?」


うっすらと目を開けた樹里の第一声に、陽菜が思わず目をぱちくりとさせた。


「いえ、お母さんじゃありません。陽菜です」


「あ……そっか、眠っちゃってたのか……」


そうだ。陽菜の部屋で勉強中に小腹が空いて、ピザを頼んで食べたあと眠くなったから二人で少し昼寝してたんだった。と、樹里が弾けるように窓の外へ目を向ける。


「あ……!」


慌ててポケットからスマホを取り出し時刻を確認する。十八時三十五分。日没までもう少し。外はすでにだいぶ薄暗くなりかけていた。


「ああ……どうしよう……!」


慌て始める樹里に陽菜が怪訝そうに目を向けた。何をこんなに焦っているのだろう?


「もしかして、何か予定がありました?」


「……ううん、そうじゃないけど」


「門限とか……って、樹里さん実質一人暮らしですよね」


予定も門限もない。にもかかわらずこの慌てよう。しかもずいぶんと顔色が悪い。


「私……暗いとこが怖いというか……苦手なんだ……」


想像の斜め上を行く言葉にポカンとしてしまう陽菜。


「意外ですね。小さな子どもみたいです」


「うう……子どもに子どもって言われたぁ……」


よろよろと立ちあがった樹里が、急いで帰り支度を始めた。まだ完全に日が落ちるまでには多少の猶予がある。


「慌ただしくしてごめんね。これ以上暗くなる前に帰るわ」


「はあ」


パパっと帰り支度を整えた樹里を、陽菜は玄関まで見送った。やはり顔色はよくない。


「樹里さん、大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」


「……うん。大丈夫。それじゃ、今日はありがとうね。お母様にもよろしく伝えといて」


風のように立ち去る樹里を見て、陽菜が不思議そうに首を傾げる。高校生にもなって、暗いところが苦手って人いるんだな。


そんなことを考えながら自室に戻り、ベッドにボスっと腰をおろす。暗いところが苦手、怖いと口にした樹里の瞳は何かに怯えているように見えた。


ここから駅まではそれほど遠くない。徒歩で十分ちょいくらいの距離だ。でも……。


陽菜がそっと窓の外へ目を向ける。すでに日は落ちかけ、あたりを闇が支配しようとしている。このあたりは住宅街だから、真っ暗闇になることはないけど……。


陽菜はベッドの上に投げ出してあったスマホを手にとった。



――うう、もうこんなに暗くなってる。


陽菜の自宅を出た樹里は、足早に歩きながら駅を目指した。


迂闊だった。お腹いっぱいになって眠りこけるなんて。あんなに慌ただしく出てきちゃって、陽菜にも悪いことしたな。


「はぁ……」


ため息をついた刹那、突然ポケットのなかのスマホが鳴り始めた。LIMEで電話がかかってきたことを知らせるポップなメロディー。ビクッと肩を震わせた樹里がスマホを手にとる。


「……え? 陽菜?」


画面に表示されているのは、間違いなく先ほど別れたばかりの陽菜の名前。ただ、これまで陽菜がLIMEでメッセージを送ってきたことはあっても、電話をかけてくることは一度もなかった。


「もしもし、陽菜?」


『はい、陽菜です』


「ど、どうしたの? 電話なんて珍しい、というか初めてじゃん」


『……暗いの苦手なんですよね? 誰かと会話していれば、少しは怖さも紛れるのではないかと思いまして』


一瞬、ハッとした表情を浮かべた樹里だが、その頬がわずかに緩む。小学生に気を遣われて恥ずかしいと感じる反面、その優しさが無性に嬉しかった。


「……ごめんね。気を遣わせちゃって」


『大丈夫ですよ。ただ、通話していると注意力が散漫になるので、周りには気をつけてください』


「うん、ありがと」


『駅にはあとどれくらいで着きそうですか?』


「早歩きしてるから、あと五分くらいだと思う」


ここを出てまだそれほど経っていないにもかかわらず、もうかなり進んでいる。早歩きじゃなくて走ったの間違いじゃないのか、と内心陽菜は思った。


『そうですか。あ、樹里さん。今日教えたところ、帰ったら必ず復習してくださいね』


「うん、もちろん。今日もとてもわかりやすかったよ! ありがとう。陽菜は今から何するの?」


『お母さんが戻るまで、樹里さんにお土産でもらったガルガルを読みます』


「そっか。あ! 駅舎が見えてきた。このあたりに来ると人通りもそれなりに多いね」


『ならもう大丈夫ですね。店舗や街灯の光も多いし、もう怖くはないでしょう?』


「うん! ほんとお手数をかけました……」


『問題ありません。では、気をつけて帰ってください。あ、相生駅から自宅まではどうするんですか?』


「うちは駅チカだし、あの辺はどこも明るいから大丈夫!」


『そうですか。それではまた』


通話を終えたスマホをポケットに突っ込むと、樹里は再び足早に駅舎へ向かって進み始めた。



――無事電車へ乗り込むことができ、樹里はほっと胸をなでおろした。それにしても、陽菜には余計な気を遣わせてしまった。


それに、ちょっと変に思われたかもしれない。ガタンゴトンと心地よい電車の揺れに身を任せながら、樹里はそっと目を伏せた。


陽菜にお礼のLIME打っておこうかな。というより何かお礼をしたい。今度服でもプレゼントしようかな。


いや、あの子私よりお金持ちなんだった。その気になれば欲しい服なんていくらでも買えるしな。うーん。


あ、ちょっと待てよ……! 


何かに思いいたった樹里は、スマホを取り出すとカレンダーアプリを起動した。赤い印がついた予定ありの日にちをタップし展開する。


「うん……! これだ!」


にんまりとした笑みを浮かべた樹里は、車窓の外を流れるささやかな夜景を眺めつつ、陽菜がどのようなリアクションをするだろうかと想像力を働かせ始めた。



――青い空と海をバックに、海上デッキの上でポージングする樹里。祭日で学校が休みということもあり、今日はガルガルの撮影を入れていた。


夏本番が近いこともあり、今回の撮影場所はカップルにも人気の海浜公園。木の板を敷き詰めたオシャレな海上デッキの上で、海を背にしての撮影である。


カメラマンの井ノ原が何枚か写真を撮り終えたタイミングで、樹里が少し離れたところで椅子に腰かける少女に小さく手を振った。


撮影の様子を眺めているのは陽菜である。数日前、陽菜に何かしらお礼をしたいと考えた樹里は、読者モデルの撮影に招待しようと考えた。


自宅に戻ったあと陽菜にLIMEでそのことを伝えると、行ってみたいと好感触だったため、今回樹里が同伴させたのである。


なお、ロケーションがよいこともあり、今回は樹里だけでなく複数の読者モデルを同日に撮影するとのこと。そのため、樹里以外にも複数人の読者モデルが参加しており、現場はとても華やかな雰囲気だ。


撮影スタッフが用意してくれた布張りのアウトドアチェアに、ちょこんと腰かけて撮影の様子を眺める陽奈の表情はいつもと変わらない。が──


「凄い……」


カメラの前で次々とポージングをきめてゆく樹里を目のあたりにし、陽奈の口から思わず言葉が漏れる。


初めて目にする撮影の様子、華やかな現場。非日常な経験に陽奈の胸は高鳴り、樹里からも目が離せなかった。


何だろう、樹里さんの印象が普段とまったく違う。あそこに立っているのは本当にあの樹里さんなんだろうか。何ていうか、周りを圧倒するオーラがある。


と、ひとしきり撮影を終えたのか、樹里が陽奈のもとへ駆け寄ってきた。


「陽奈、退屈してない?」


「はい。楽しませてもらっています。樹里さん、凄い人だったんですね」


「いやいや、全然だよ?」


そんなはずはない、と陽奈は思った。実際、ほかのどの読者モデルよりも樹里は輝いていた。現に、今も何人かの読者モデルが樹里をちらちらと見ている。


「ただ、そのお腹をぱっくりと露出した服はどうなのかと。個人的にはだらしないと思います」


「あー、はは。陽奈はきっとそう言うだろうと思ったわ。ま、夏が近いからねー」


「そういうもんなんですか?」


「多分……ん?」


ちらと周りに目を向けた樹里の視界に、冬島出版副編集長の明日香が見知らぬ女性と話しているのが映り込んだ。


誰だろう? ガルガルの関係者? きれーな人だなー。と、そんなことを考えていたところ、明日香とその女性が樹里と陽奈のもとへ歩み寄ってきた。


「樹里ちゃん、お疲れ様!」


「お疲れ様です、明日香さん」


樹里が明日香の隣に立つ女性にちらりと目を向ける。


「あ、こちら沢村美弥さん。『Cuteeeenキューティーン』の編集者さんよ」


Cuteeeenは、小中学生の女子向けファッション誌だ。樹里も中学生になりたてのころはよく読んでいた。


「そうなんですね。こんにちは、ジュリです」


「はじめまして、沢村です。ジュリさんのご活躍、いつも拝見しています」


「ありがとうございます! えと、それで……」


「沢村さんと私、以前からの知り合いなのよ。で、今日ここで撮影するって言ったら見に行きたいって。彼女のオフィスこの近くなのよ」


沢村を紹介した明日香が、スッと樹里の耳元へ顔を寄せ「実は井ノ原君の元カノ」といたずらっぽく囁く。


一瞬驚いた樹里が井ノ原へちらりと目を向ける。井ノ原はいつもと変わらぬ様子で、別の読モへカメラのレンズを向けシャッターを切り続けていた。


が、よくよく見ると、ちらちらとこちらへ視線を向けている。やはり仕事場に元カノがいるというのは気になるらしい。


明日香が何を耳打ちしたのか何となく察知したのか、沢村が苦笑いを浮かべる。それから、椅子に腰かけたままの陽奈へ体を向けた。


「はじめまして。沢村です。あの、神木陽奈さんですよね?」


「はい」


表情をいっさい変えることなく陽奈が口を開く。


「やっぱり……まさかこんなところでお会いできるなんて。あの……初対面で大変不躾なんですが、神木さんのスナップを撮らせていただけませんか?」


ぺこりと頭を下げる沢村。一方、陽奈と樹里は顔を見あわせ、目をぱちくりとさせた。


「え、それって陽奈の写真をCuteeeenに載せてくれるってことですか?」


「はい。以前からテレビや雑誌で神木さんを拝見したことはあるんですが、まさかこれほどの逸材とは思いませんでした」


その言葉に樹里の顔が思わずにやける。陽奈を褒められるのはとても嬉しい。


「陽奈、凄いじゃん! Cuteeeenって小中学生にめちゃ人気のファッション誌だよ!?」


「いやいや、私、ファッションセンスのかけらもないただの小学生ですよ。無理ですよ」


「大丈夫だって! 服は全部用意してもらえるし、言われた通りにポーズすればいいだけだから!」


顔を近づけて熱弁する樹里の背後では、沢村がうんうんと頷いている。


「いや、でも……」


「あ、もしかしてお母様が許可してくれないとか?」


「いえ……そこは大丈夫だと思いますが……多分」


「何なら、私からお母様にちゃんとお話しするよ。私も陽奈の読モ姿見てみたいなー」


沢村と樹里から縋るような目を向けられた陽菜がしばし考え込む。樹里の影響もあり最近はファッションに興味をもち始めた陽菜だが、読モの活動にはこれといって関心はない。


一方で、樹里の期待に応えてあげたい、樹里が活動している世界を経験してみたいという欲求は少なからずあった。



「……わかりました。では、お願いします」


椅子に座ったまま沢村を見上げた陽菜の口から出た言葉に、樹里が思わず「やった!」と声を漏らす。沢村もほっとしているように見えた。


「ありがとうございます、神木さん。では、私は今からオフィスに戻って用意してきますね! 十五分、遅くても二十分以内には戻ってきますから!」


沢村は陽菜と樹里にペコペコと何度か頭を下げると、踵を返して一目散に駐車場へと走っていった。物静かな大人の女性、といった印象だったが、少々認識を改める必要がありそうだと陽菜は感じた。


「おお……! まさかまさかの展開だね、陽菜! まさか陽菜が読モデビューする日が来るなんて」


「いや、そういうんじゃ……」


「あはは。でも、陽菜はかわいいから何を着ても似あうし、きっと写真映えもするよ。あ、沢村さんからもお母様に雑誌掲載の許可をとるために連絡がいくと思うけど、その前に私からお母様にお伝えしたほうがいいよね?」


「そう……ですね。大丈夫とは思いますが、どのような雑誌なのかわからないと母も心配すると思うので」


「だよね。お母様は今日お休み?」


「はい。自宅にいると思います」


「よし、じゃあ今から電話しよう。陽菜、かけてみて。途中から私が変わるから」


「わかりました」


陽菜はスマホで母親に電話をかけ、少し話したあと樹里に代わった。軽く挨拶をしたあと、樹里はCuteeeenがどのような媒体なのかを葉子へ丁寧に説明してゆく。


その様子を眺めていた陽菜は、今さらながら樹里の言葉遣いの丁寧さに気づいた。そう言えば、お母さんは樹里さんのこと「絶対にいいとこのお嬢さんに違いない」って言ってたな。


そうなんだろうか。たしかに住んでいるマンションは立派だった。自分とは違い部屋はきれいに整理整頓されていたし、塵ひとつ落ちていなかった。


それに、樹里さんって私のお母さんのこと「お母様」って呼ぶよね。もしかして、自分のお母さんのこともそう呼んでいたのだろうか。いや、前寝ぼけてお母さんって言ってたような。


「はい……はい……もちろんです。いえ、許可をいただけてありがとうございます。陽菜ちゃんに代わりますか? はい、わかりました。では、失礼します」


通話を終えた樹里が、陽菜に向かってブイサインを突き出す。


「陽菜、お母様オッケーだって! 楽しみ~って言ってたよ!」


「そうですか。代わりに説明してくれてありがとうございました」


差し出されたスマホを仕舞いながら、陽奈はこれから始まる未知の経験に、胸の鼓動がわずかながらも高まってゆくのを感じた。

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