第10話 いいとこのお嬢さん
換気のために開け放ったリビングの窓から心地よい風が舞い込む。リビングに掃除機をかけ終えた神木葉子は、じんわりと滲む額の汗を首にかけたタオルで拭った。
日本の夏はとにかく暑い。まだ夏本番でもないのにこの暑さ。アメリカで暮らしていたころは、夏になってもそこまで暑いと感じたことはなかった。
このジメジメとした蒸し暑さは日本特有のものなんだろうな。葉子はそんなことを考えつつ廊下に出ると、階段の下から二階を見上げた。
「陽菜ー! 部屋に洗濯ものあるならもってきなさいよー!?」
返事がない。というか、今日は珍しく陽菜が自分の部屋を掃除している。掃除機の音がかすかに聞こえるので、おそらくこっちの声が聞こえないのだろう。
以前から、土日のどちらかは部屋の掃除をしなさいと口酸っぱく言ってきたものの、陽菜がそれを守ったためしはなかった。
が、どういう風の吹きまわしなのか、今日は朝起きてからというもの進んで掃除をしている。我が娘ながら行動が謎だ。とそこへ――
来客を知らせるチャイムが鳴り、葉子は玄関へと向かった。
「はーい」
玄関扉を開けた葉子の前に立っていたのは、まったく知らない若い女性。高校生……いや、大学生だろうか。やや派手な身なりだが、不思議と悪い印象は抱かなかった。
「ええと……何かご用でしょうか?」
「こんにちは。陽菜ちゃんはご在宅ですか?」
美しい顔立ちと栗色の長い髪が印象的な女の子が陽菜を訪ねてきたことに、内心驚きを隠せない葉子。
え、誰? ずいぶんきれいな女の子だけど……陽菜の知りあい? それに、見た目は今どきの若い女の子っぽいけど、立ち姿とかお辞儀の仕方もとてもきれいだ。
「あ、はい。ええと──」
葉子が何か口にしようとしたとき、バタバタと階段を降りてくる音が邸内に響きわたった。陽菜が降りてきたようだ。
「あ、陽菜。あなたにお客様なんだけど」
「うん」
玄関までやってきた陽菜に、栗色の髪の美少女が小さく手を振る。どうやら知りあいには間違いないようだ。
「陽菜、こちらの方は……?」
「……友達」
「えっ!?」
まさかの返事に驚いた葉子が、陽菜と樹里を交互に見やる。え、友達!? え、え。まさか、小学生……なわけないよね。
「お母様、はじめまして。南相生高等学校、二年生の佐々本樹里です。陽菜ちゃんとは仲良くさせていただいています」
ていねいな挨拶に見事なお辞儀。すべての指先まで神経が通っているような美しい姿勢。葉子は思わず嘆息した。
「樹里さん、早くあがってください」
「うん。でもいいの?」
「お母さん、いいよね」
「も、もちろん! あとでお茶もっていくね!」
「ありがとうございます。では、お邪魔します」
再度お辞儀をした樹里は玄関にあがると、脱いだ靴をきれいにそろえて土間の端に寄せた。その様子を見て慄く葉子。
凄い……! とても「ちゃんと」している。きっとご両親から厳しくしつけられてきたのだろう。いいとこのお嬢さんに違いない。
そして気づいた。珍しく陽菜が朝から部屋の掃除をしていた理由。そうか、友達が来るから掃除してたのか。
いや、というか友達来る予定あるのなら言っておいてよ。お菓子とか準備したのに! 何かあったかな……?
それにしても、あの陽菜に友達ができるなんて。今までなるべく他人とは関わろうとせず生きてきたあの陽菜に。
最近、帰りが遅かったり急に服装を気にしたりし始めたのも、あのお友達の影響なのかしら?
さっきの陽菜、顔には出さないけど嬉しそうだった。あんな様子の陽菜を見るのも初めてだ。
どうしよう、ちょっと嬉しい。大切な娘に友達ができたという事実に、思わず葉子の涙腺が崩壊しそうになった。
それに、何だろう。あの女の子を見たとき、なぜか懐かしい気持ちになった気がする。顔も見たことがあるような……。どこかで会ったことあるのだろうか?
首を傾げるも、そのような記憶はない。きっと気のせいね。葉子はいそいそとキッチンへ向かうと、娘とその大切な友達に出すためのお茶を用意し始めた。
「おおー!」
初めて入る陽奈の部屋に、思わずテンションが上がる樹里。これがいまどきJSの部屋か!
窓際にベッドが置かれ、並ぶようにパソコンデスクが設置されている。作業に疲れたときすぐベッドへダイブできるようにだろうか。
背の高い本棚にはさまざまなジャンルの本が数多く収納されている。そのほとんどが樹里には縁のないものばかりだ。
「へ〜きれいにしてるね!」
「これでも一応女子ですから」
つい先ほどまで必死に掃除していたことはもちろん言わない。
「あ、はいこれ。お土産」
「? 何ですか?」
「ガルガルのバックナンバー。私が勉強してるとき陽奈が退屈になるかもと思って」
そう。今日樹里が陽奈の自宅へやってきたのは、勉強するためだ。陽奈による指導の甲斐もあり、数学の小テストではそこそこの点数をとれたものの、案の定陽奈が納得しなかった。
そこで、夏休み前に行われる期末テストでもっとよい点数をとれるようにと、陽奈が自宅での勉強を提案したのである。これなら、陽奈が門限を気にする必要がないため、いつもより長く勉強できる。
「……ありがとうございます」
無表情のまま雑誌を受け取る陽奈。顔にこそ出さないが、心は踊っていた。
「あ、私ちょっとトイレに行ってきます。少しくつろいでいてください」
「はーい」
樹里はパソコンデスクに収まっているキャスター付きの椅子を引き出すと、腰をおろしてスマホを取り出した。
ブラウザを立ち上げてアクセスした先は、国立天文台が運営している「暦サイト」。その日の日の出や日没、月齢などをチェックできるサイトだ。
「日没は……十八時五十七分……よし」
スマホをポケットに戻したタイミングで、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
「陽菜、入るわよーって、あら? あの子どこ行っちゃったのかしら?」
部屋に入ってきたのは、陽菜の母親葉子。グラスと深めの皿をのせたお盆を片手にもっている。
「あ、さっきトイレに行くと」
「あらまあ。どうして先に行っておかないのかしらね」
呆れたような表情を浮かべた葉子が、パソコンデスクの上にコースターを敷きグラスを置いた。
「気を遣わせてしまいすみません」
「んーん、いいのよ。それに、あの子がお友達を家に連れてくるなんて初めてなんだから」
「そうなんですか?」
ふふ、と笑みをこぼした葉子は、陽菜のベッドにストンと腰をおろした。
「いつからか、あの子は他人と関わろうとするのはやめたから」
一瞬、寂しそうな表情を浮かべた葉子。樹里にもその理由はよくわかっている。
「ええと、何とお呼びしたらいいかしら?」
「あ、樹里で結構です」
「ふふ、じゃあ樹里ちゃん。樹里ちゃんは……その、陽菜からどんなことを聞いてる?」
「ギフテッド、のことですか?」
驚きなのか、葉子が目を見開き「あら」と声を漏らした。
「あの子、自分で話したのね。あれだけ自分の才能を嫌がってたのに」
ふふ、と笑みを漏らした葉子が目を伏せる。
「そう……なんですか?」
「ええ。類まれなる才能をもって生まれたことで、あの子はずっとツラい思いをしてきたから……」
「……出会ったばかりのとき、陽菜は友達なんて必要ない、必要性を感じないと言っていました」
「……そうでしょうね。というより、そう思わなきゃやってられなかったのだと思うわ」
「でも、今は私にとってとても大切な友達です。陽菜も、私のこと友達だと言ってくれるようになりましたし。まあ、名前で呼んでくれるようになったのつい最近なんですけど……」
「あはは。樹里ちゃん、本当にありがとう。まさか、陽菜のことをそんなふうに言ってくれる友達ができるなんて、思ってもいなかった。これからも、陽菜と仲良くしてくれると嬉しいわ」
「もちろんです。こちらこそ、よろしくお願いします」
膝の上に両手を重ねたまま背筋を伸ばし、ていねいにお辞儀する樹里を見て葉子が微笑む。こんなにキレイで垢ぬけたお嬢さんなのに嫌味なところがまったくなくて優しくて。我が娘ながら素晴らしいお友達を見つけたものだと感心してしまう。と、そこへ――
「樹里さん、お待たせしました……ってお母さん、何してるの?」
「うふふ。樹里ちゃんとちょっとお話してたの。あ、お茶とお菓子もってきたから食べてね」
かすかに唇を尖らせ、母親にジト目を向ける陽菜の様子は樹里にとってちょっと新鮮だった。思わず頬が緩んでしまう。
「あ、陽菜。私十八時から町内会の寄りあいがあるから。じゃあ樹里ちゃん、ゆっくりしていってね!」
「はい。ありがとうございます」
――都内でもっとも若者が集まる街のなかを、咲良はイライラしながら歩いていた。
「咲良〜歩くの速いって〜」
スタスタと足早に歩く咲良のうしろを、右手にドリンクの紙カップを手にした葉月と晶が必死に追う。
「うるせー。とりあえずこのエリア抜けねぇとナンパやろーどもがクソうぜーんだよ!」
咲良は口さえ開かなければ清楚な和風美少女に見えるため、先ほどから何人もの男が下心丸出しで接触を図ってきた。
ちなみに、葉月と晶がナンパされた回数は二人で足しても咲良に遠く及ばない。
「う〜疲れたー。とりあえず人混み抜けたらカラオケ入らん〜?」
「ああ……そのほうがいいか」
と言ってもまだ先は長い。距離にすると大したことはないが、何せ休日ということもあり激混みだ。
しかも油断するとすぐにナンパ男が寄ってくる始末。
「あー、ほんとうぜー。葉月、晶。おめーらがそんなチャラチャラした恰好してっからナンパやろーがうじゃうじゃ寄ってくんじゃねぇのか?」
眉間にシワを寄せた咲良が「チッ」と舌打ちしながら二人へ振り返る。もちろん、葉月と晶は「心外な!」と言わんばかりの表情を浮かべていた。
「いやいや、そもそもあたしらより咲良のほうが遥かにナンパされてんじゃん」
「そうだよ。きっと男たちには清楚系ビッチだってバレてんだよ」
「はぁ!? 誰が清楚系ビッチだこのヤリマンどもが!」
三人でぎゃいぎゃいと姦しくしながらも歩を進め、やっとのことで混雑エリアを抜けることに成功した。
「お、あそこ入ろうよ!」
葉月が指さしたのは、バリ風のインテリアとフードメニューのパンケーキが人気のカラオケ店。
「そうだな。あー、あちぃ……やっと涼め──」
咲良が突然歩みを止め、弾かれたように後ろを振り返った。
「ど、どしたん、咲良?」
知り合いとでもすれ違ったのだろうかと、葉月と晶が不思議そうに顔を見あわせる。
「ねえ、咲良! どしたんだってば!?」
「……いや、何でもねぇ。見間違いだ」
そう、見間違いに決まっている。
無理やり自分を納得させると、咲良は「行こう」と口にし後ろ髪を引かれつつも前へ向き直った。
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