第8話 何を笑っているのかね?
手ごわい相手だった――
鍋に浮いた野菜のアクをお玉でていねいに掬いつつ、神木葉子は昼間の商談相手との戦いに思いを馳せた。
外資系企業の営業部門で部長職を務める彼女が商談の現場に出ることは稀である。が、今回は取引の規模が大きいうえに、組織をあげてのプロジェクトでもあったため彼女に白羽の矢が立った。
商談は腹の探りあいだ。お互いが腹のなかを探りながら、自社にとって少しでも有利な状況へ商談を導こうとするのが基本である。
結論から言うと、駆け引きには勝った。相手はポーカーフェイスで感情の動きを悟られないよう必死だったかもしれないが、自分の目はごまかせない。
葉子は冷蔵庫から取り出したカレールーを割ってお玉にのせると、鍋の煮汁を少し掬って箸で溶き始めた。食欲を誘うスパイスのいい香りがあたりに漂い鼻腔を刺激する。
ま、多少手強い相手ではあったけど、感情の読みあいで私が負けるはずはない。だって、うちにはとんでもないポーカーフェイスがいるんだから。
「ただいま」
玄関から聞こえる帰宅を知らせる声。お。帰ってきたようだ。我が家のポーカーフェイスちゃん。
「おかえりー!」
とろみがついてきたカレーをかき混ぜながら、葉子は声を張った。ダイニングキッチンへと入ってきた娘の陽菜に、葉子はもう一度「おかえりなさい」と声をかける。
「ん、ただいま」
「土曜日に出かけるなんて珍しいね。どこ行ってたの?」
「……ちょっと」
おや? 何か楽しいことでもあったのかな? ある時期からほとんど感情を表に出さなくなった娘だが、母親である葉子はわずかな目の動きや声の抑揚、会話の間などから陽菜の感情をかなり正確に読み取れる。
「今日の晩ご飯、カレー?」
「うん、そうよ。まだご飯が炊けていないから、少し待っててくれる?」
「わかった」
踵を返してダイニングキッチンから出てゆく娘の後ろ姿を見て、葉子はクスリと笑みをこぼした。もしかして、仲のいい友達でもできたのかな? もしそうなら、いったいどんな子なんだろう。
葉子は再びカレーをかき混ぜながら、愛する娘の交友関係に思いを巡らせた。
――二階にある自室へ戻った陽菜は、デスクの前に座るとすぐパソコンを起動した。インターネットへ接続しアクセスしたのは、書籍から家電、ファッションアイテムまで何でもそろう大手通販サイト。
と、ポケットに入れたままのスマホから『ピロリン』と通知を知らせる音が鳴った。取りだしたスマホの画面に表示されていたのは、LIMEに新たなメッセージが届いたことを知らせる通知。ロックを解除してLIMEのトーク画面を開く。
樹里『陽菜っち、今日はありがとねー♪ ちゃんと帰り着いてる? 念のため、家着いたら連絡してね(*'v`d)』
陽菜『たった今帰宅しました。私が作成した模擬テスト、忘れず解いてくださいね。あと、単語の暗記も忘れずに。眠る前に暗記すると覚えやすいみたいですよ』
樹里『おかえり! 模擬テストまで作成してくれてありがと! 単語、気合い入れて暗記します( TДT)』
スマホをポケットに仕舞い再びパソコンの画面へと目を向ける。マウスを操作してアパレルカテゴリの商品からレディースアイテムを選択。
「む……多い……」
レディースアイテムだけでも、トップス、スカート、パンツ、アウター、インナーなどにカテゴライズされており、トップスのなかでさらにシャツ、ニット、スウェット、ビスチェ、パーカーと細分化されている。
そう、陽菜は生まれて初めて自分で服を買おうとしていた。基本的に、陽菜の服は母親が買ってきたもの、もしくは従姉妹のおさがりである。
それで何の不満もなかったし、これからもないと思っていた。が、樹里と出会い多少なりともファッションの世界に触れ、興味をもち始めていた。
樹里からは、小学生時代の服をあげようかとも言われたが、それは丁重に断った。悪い気がするし、そこまでしてもらう理由もない。
「ん……これ、よさそうな気がする。これも、あ、これも……」
幸い、アプリ開発でお小遣い稼ぎしているのでお金には不自由していない。母親からも、常識の範囲内であれば自由に使ってOKと了承を得ている。
「とりあえず……これとこれ、買ってみようかな」
昨今のネット通販サイトは短納期に力を入れている。今注文すれば、多分明日の夕方には届くだろう。届いたら、月曜の学校に着ていってみようかな。そんなことを考えていると――
「陽菜~! ご飯できたわよ~!」
「わかったー」
母親に返事をしながらカートに入れた商品を決済する。一仕事終えたかのように「ふぅ」と息を吐いた陽菜は、部屋を出てパタパタと音をたてながら階段を降りていった。そして翌日の夕方、陽菜の予想通り注文していた商品が自宅に届いた。
――翌週、月曜日。
「ねーねー、昨日のアワビさん見たー?」
「見た見たー」
「土日どこか行った?」
「そう言えば、二組の斎藤さん彼氏できたらしいよ」
聖蘭学院小学校、五年三組の教室では、生徒たちが朝のホームルームを待ちながら思い思いの時間をすごしていた。
「ゲームでガチャ引きまくったの母ちゃんにバレちゃってさー」
「いや、それめっちゃバカじゃ――!?」
騒がしかった教室がにわかに静まり返る。生徒たちが視線を向ける先にいたのは、普段とはまったく異なる装いで登校してきた神木陽奈だった。
ネット通販で購入し、昨日届いたばかりの服を着て登校してきた陽菜に、クラスメイトの視線が集中した。
が、注目を集めた理由は、決して陽菜がオシャレになったからではない。むしろその逆である。
明らかにサイズがあっていないショッキングピンクの膝丈ワンピースに網タイツ。薄手の豹柄カーディガン。まるでバブルの時代からタイムスリップしてきたような格好に、数人の女子が思わず失笑した。
しかも、服は派手なのに髪は後ろで二つ結びにしているだけなので、とにかくバランスが悪い。
「ちょ……アレ、ヤバくない?」
「ぷ……! 笑っちゃダメだって」
いつもと変わらぬ無表情な陽菜だが、さすがにクラスメイトの反応で自身のコーデが相当やばいことになっていることに気づく。
「ぷぷ……神木、何よその恰好。センスなさすぎでしょ」
クラスの女王様気取り、生まれつき能力を運動神経に極振りされたヤツ、とクラスメイトから揶揄される白鳥沙羅が嘲るように言葉を投げかける。
「ふふん。それに比べて私ったら、今度とあるファッション誌に写真を掲載してもらえることになったのよね〜」
教室のあちこちから「マジで!?」「すごーい」といった声があがった。
「神木〜、雑誌が発売されたら私のコーデでオシャレ勉強したら? 今より少しはマシになるだろうから」
高笑いする沙羅を無視し、陽奈は自分の席へと着くと、小さくため息をついた。異物を見るような目と嘲笑する声。普段ならまったく気にならないが、今の陽菜には少し堪えた。
とりあえず早く家に帰りたい。この日、陽菜はずっと心のなかでそう呟き続けた。
――全授業の終了後に行われるホームルームで戻ってきた答案用紙を見て、樹里は思わずガッツポーズした。樹里が手にしているのは、午前中に行われた英語の小テストの答案用紙である。
「樹里ー、テスト何点だったー?」
「ふふふー」
そばへやってきた葉月と昌、咲良へ自慢気に答案用紙を掲げる樹里。
「おおー! マ!? 六十五点もとってんじゃん!」
「樹里すげー! さては土日めっちゃ勉強したん?」
興奮気味に話しかける葉月と昌の後ろでは、咲良が「いや六十五点ってそこまで点高くないやろ」と一人心のなかでツッコミを入れていた。この四人のなかで、咲良は唯一成績優秀なのだ。
「まあね~。いやー、英語苦手だしいつも赤点だったから嬉しいわー」
笑顔で少しのあいだ答案用紙を眺め、ホクホク顔のままバッグのなかへ仕舞う。あー、マジで陽菜っちに感謝だわ。LIME送っとこうかな。
スマホを取り出そうとブレザーのポケットに手を入れたのと同時に、スマホがブルっと震えた。
「ん? LIMEかな。誰からだろう」
ロックを解除してLIMEを起動する。あれ? 陽菜っちからだ。なになに……?
陽菜『満身創痍』
……????
「ど、どゆこと……??」
わずか四文字のメッセージに樹里が困惑する。何これ、四文字熟語? どういう意味? とりあえずググるか。
えーと、満身創痍。意味は……『全身傷だらけであること』?
「……はぁ!?」
スマホの画面を凝視したまま勢いよく席を立った樹里の様子に、咲良や葉月たちが「うわっ!」と声に出して驚く。
「ど、どしたん樹里?」
「何かあった?」
ただごとではない友人の様子に、咲良たちが心配そうな目を向ける。
「ちょ、ちょっと待って……」
樹里は両手でスマホを持つと、凄まじい速さでメッセージを入力し始めた。
樹里『陽菜っち、どうしたの!? もしかして怪我した!? 何があったん!?』
そのままスマホの画面を凝視し続けること約三分。陽菜からメッセージが返ってきた。
陽菜『爆死しました』
樹里『ど、どゆこと?? 意味わかんないのだが』
陽菜『ネット通販で購入した服を着て学校行ったら、全クラスメイトに失笑されました』
樹里『ええー!? 何で? どんな服買ったの? 写真撮って送ってよ』
陽菜『恥の上塗りしたくないので嫌です』
樹里『ええ~……てゆーか、服買うのなら相談してくれたらよかったのに~!(>_<)』
陽菜『なぜそこに思いいたらなかったのか自分でも謎です』
樹里『うーん……陽菜っち、今どこにいるの?』
陽菜『葛城駅に着いたところです』
樹里『お。じゃあさ、今から一緒に服買いに行こうよ! 買わなくても見るだけでもいいしさ。駅前に大きなショッピングモールあるでしょ? 今から私も向かうから』
陽菜『……いいんですか?』
樹里『もちろんだよ! そんなにかからないと思うから、ショッピングモール側の駅出口から出たとこのロータリーあたりで待ってて!』
陽菜『わかりました』
ふぅ……。ああ、びっくりした。本当に怪我でもしたのかと思ったわ。安心して胸をなでおろした樹里は、急いで帰り支度を始めた。
――ちらちらと見てはバカにするような笑みを浮かべる通行人に、さすがの陽菜もイライラが募り始める。
学校ではクラスメイトから嘲笑され教師には驚かれ、電車のなかでも散々好奇の目に晒された。自業自得ではあるものの、それでもやっぱり腹は立つ。
と、そこへ――
「陽菜っち~!」
底抜けに明るい声で呼ぶ声が聞こえ、陽菜は壁にもたれかかったまま顔をあげた。手を振りながらこちらへ近づいてくる樹里。と……。
「ごめん、遅くなって」
両手をあわせて謝る樹里の後ろには、同じ制服を着た黒髪の女性と、いかにもギャルといった風貌のJKが二人いた。
「いえ、そんなに待っていません。それより……」
陽菜がちらりと樹里の背後へ目を向ける。
「ああ。何かさ、私に彼氏でもできたと勘違いして着いてきたんだよ。違うって言ってんのにさ」
「はあ、そうですか」
陽菜の表情は変わらない。と――
「小学生の女の子と会うっての本当だったんだー……絶対に彼氏だと思ったのになー……てゆーか」
葉月が陽菜のつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように視線を巡らせる。
「樹里から何となく聞いたけど……ぷぷ……何なん、その服……ぶふっ……! あ、ごめ……ぷぷ」
「い、いかん……ウケ狙いとしか思えん……いったいいつの時代よ……あはははは!」
茶髪と金髪のギャルが、もう無理といった様子で腹を抱えて爆笑し始める。道行く人まで何事かとこちらへ視線を集中させた。
ああ、ここでもか。陽菜がそっと息を吐いて目を伏せる。まあ、他人に笑われたところで別に痛くも痒くもないけど。
と思いつつも、何となく胸にチクりとした痛みを感じた。もしかすると、樹里も笑っているかもしれない。恥ずかしいと思っているかもしれない。
そう考えると余計に胸がしめつけられ息苦しさを覚えた。と、そのとき――
「……何、笑ってんの?」
樹里の口から、これまで一度も聞いたことがない低く冷たい声が発せられた。肩を怒らせながら笑い転げていた二人のもとへつかつかと近寄り、怒気がこもった目で睨みつける。
「……何を笑ってんのかって聞いてんだけど?」
今にも殴りかかりそうな雰囲気の樹里に、葉月と昌がたじろぐ。彼女たちでさえ、このような樹里は見たことがなかった。それは陽菜も同じである。
「や、だって……」
「あ……う……」
あまりもの迫力に二人は完全に口ごもってしまった。そうなってもなお、樹里は二人に鋭い視線を刺し続けた。と、そこへ――
「いや、ごめんね樹里。大切な友達のことバカにされたら、誰だって頭にくるよね。ほらお前ら。謝りなよ」
一触即発となった三人のあいだへ割って入ったのは、ギャル二人の後ろにいた黒髪のJK、咲良。その言葉に、葉月と昌がすかさず頭を下げた。
「ご、ごめん樹里!」
「うん、本当にごめん!」
いまだ怒りは収まっていないかに見えた樹里が、大きく息を吐く。
「……謝る相手、間違えてない?」
その言葉にハッとした葉月と昌は、陽菜の前へ進むと深々と腰を折った。
「笑ってごめん!」
「私も笑ってごめん!」
頭を下げたまま微動だにしない二人。思ったほど、悪い人たちではないのかも……しれない。と陽菜は感じた。
「あ、はい。大丈夫です」
陽菜の言葉を聞いてパッと顔をあげた二人が、顔を見あわせて「よかった~……」と胸をなでおろした。その様子を見ていた樹里が「はぁ」とため息をつく。
「……行こ、陽菜」
「あ、はい」
まだご機嫌斜めなのか、樹里は陽菜の手を握ると、ついてきた咲良や葉月たちに背を向けて歩きだした。陽菜、と初めて呼び捨てにしたのにも気づいていないようだ。
「あ、樹里待ってよ~!」
「私らも一緒に行く~」
肩越しに後ろを見やると、三人が慌てた様子で追いかけてくる様子が目に映った。陽菜の手を握ったまま無言で歩を進める樹里。
「あの、何かすみません」
「ん? 何が?」
「私のこと、友達だと勘違いされたみたいで……」
「んん? 何言ってんの。友達じゃん」
きょとんとした顔を向けられ、陽菜もぽかんとしてしまった。
「え、でも年齢……」
「年齢? 友達になるのに年齢なんて関係なくない?」
そう……なんだろうか。陽菜にはよくわからなかった。
ただ、先ほど樹里が自分のことで真剣に怒ってくれているとわかったとき、胸のなかで何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「……そう言えば、さっき『陽菜』って」
「……あ、ほんとだね。嫌だった?」
「……いえ、別にかまいません。樹里……さん」
「あ! 初めて名前呼んでくれた!」
パッと陽菜に顔を向けた樹里の表情が少しずつにやけてゆく。
「……聞き間違いじゃないですか?」
「え~!」
ふいっと顔を背けながらも、陽菜はつながれたままの手をぎゅっと握り返した。
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