第5話 自分で言っちゃうとか

「さあ、着いたよ!」


駅からほど近い場所に建つ約二十階建てのマンション。エントランスに背を向けた樹里が、両手を広げて歓迎の意を示した。が──


「……『さあ着いたよ』じゃないですよ。どれだけ強引なんですか。これって未成年者略取ですよ? 立派な犯罪です」


「んもー、大袈裟だなぁ。もう二回も会ってるし知らない仲じゃないじゃん。さ、行こ」


じろりと睨む陽奈から目を逸らし、広々としたエントランスへと入ってゆく樹里。はぁ、と大きくため息をついた陽奈が、仕方なくそのあとを追う。


大理石を敷き詰めた床にレンガ調の壁。意匠を凝らしたラグジュアリーなエントランスホールは高級ホテルを彷彿とさせた。


自動ドア近くに設置されたオートロック操作盤のセンサー部分に樹里がカードをかざす。両サイドへと開いた自動ドアを抜けて少し進み、エレベーターホールでも再度ICカードをかざした。


どうやら二重オートロックのようだ。周りを窺う陽奈の視界に、いくつもの防犯カメラが映り込む。しかも、エントランスホールからは警備員の詰所も見えた。どうやら、警備員が常駐しているマンションらしい。


「……ずいぶん、セキュリティが厳重なマンションのようですが」


「あー、うん。私、お父さんと二人暮らしなんだけど、お父さんは仕事でほとんど海外にいるからさ。安全のためにってセキュリティがいいとこ選んだんだよ」


「……そうですか」


半ば強引に連れてこられ、当初は戸惑いや呆れ、若干の怒りを感じていた陽奈だったが、すでにその感情は薄まっていた。


思い返すと、今まで学校帰りに誰かの家へ寄り道するといったことは一度もない。友達もいないため毎日学校と自宅の往復。それが当たり前の日常になっていた。


これまで感じたことがない、わずかな胸の高鳴り。初めての経験に、陽奈の心はわずかながらもたしかに踊っていた。



「ここだよー。さ、入って入って」


「……お邪魔します」


靴を脱いで邸内へあがり樹里のあとについて歩く。廊下とリビングを抜けて案内された部屋の扉には、ポップな丸い書体で「ジュリ」と書かれたドアプレートがかけられていた。


「はい、ここ私の部屋! 適当に座っててくれる? 何か飲みもの持ってくるから」


「いえ、お構いなく」


陽奈の言葉を無視した樹里がパタパタとスリッパの音を響かせながらダイニングへ向かう。陽奈はベッドの前に配置されている、ロータイプの丸いガラステーブルのそばに腰をおろした。


きれいな部屋……それに何かいい匂いがする。お母さんの部屋とはまた違う匂い。


白を基調としたインテリアでまとめられた部屋は整然と片づけられている。とても、あの騒々しく強引な人の部屋とは思えない。


自分がいないところで軽くディスられているとは思いもよらぬ樹里が、お盆に二つのグラスを載せて戻ってきた。陽奈の前にコースターを敷き、お茶が入ったグラスをコトンと置く。


「……どうも」


グラスへ手を伸ばそうとした陽奈だが、ハッとしたように手を止める。ちょっと待って。本当にこれ、飲んでも大丈夫なの?


もし、この人が本当に変質者だったとしたら……何か変な薬が入れられているかも……。


いや、たとえそうだとしても、すでにここへ連れ込まれている時点でどうしようもないのだが。


「陽奈ちゃん、もしかして私が何か変なものでも入れたと思ってる?」


「……!」


「あはは、その反応絶対思ってるよね。んもー、そんなことしないって。何なら私がそっち飲もうか?」


「い、いえ。大丈夫です」


ガシッとグラスを掴むと、陽奈はゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を喉へ流し込んだ。美味しい……そう言えば喉乾いてたんだった。


「麦茶が美味しい季節になったよねー」


陽奈の様子に苦笑いした樹里がグラスに口をつける。


「それで……私はいったいなぜ連れてこられたのでしょうか?」


「あ、そうそう。ちょっと待っててね」


樹里はせわしなく立ち上がると、ベッドの足元側にあるクローゼットの折戸を開いた。床から二メートルくらいの位置にスチール製のパイプが設置され、壁から壁までぎっしりと服がかけられている。


「じゃーん! どう? 凄いでしょ」


腰に手をあてて自慢げな表情を浮かべる樹里。が、陽奈の表情は変わらない。


「はあ……そんなに服あると着替えのたびに迷うし無駄な時間が発生しますね」


「ぐ……またそんなことを……」


望むリアクションを得られず唇を尖らせた樹里だが、そのまましゃがみ込んでゴソゴソと何かを探し始めた。


「えーと……たしかこのへんだと思うんだけどな……」


クローゼットの足元に置かれた衣装ケースの引き出しを次々と開けてゆく。


「お、あったあった。よい……しょっと」


黒い衣装ケースを一つ抱えてクローゼットから出てきた樹里が、ベッドの上へドスンとケースを置く。なかに入っていたのは──


「これは?」


「私が小学生のころ着てた服だよ」


「はあ」


「とゆーわけで、陽奈ちゃん。さっそく着てみよう」


「いや、何が『とゆーわけで』なんですか。意味がわからないのですが?」


「まあまあそう言わずに。私の小学五、六年生時代と今の陽奈ちゃん、体格もあまり変わらないと思うしサイズ的には問題ないはず。まあ、多少古いデザインの混じってるかもだけど」


「そういうことじゃなくて、なぜ私があなたの服を?」


「うん、陽奈ちゃんはきっとオシャレの楽しさがわかってないと思うんだ。かわいい服を着たらそれだけで心が躍るし、もっと毎日が楽しくなるよ? ちょっと一回、私にコーディネートさせてくれないかな?」


「だから、私はそういうの──」


「ええと、とりあえずこれ着てみようか。そのあと髪もちょっといじってみよう」


陽奈の言葉を最後まで聞かず、樹里が衣装ケースから取り出した服を陽奈へ差し出す。華やかな花柄模様のチェニックだ。


「ち、ちょっと……だから私は──」


「はいはい。とりあえず今着てるの脱ごうか」


樹里に服へ手をかけられさすがに慌て始める陽奈。


「ちょ──!! わ、わかりました! じ、自分で脱ぎますから!」


渋々も着替え始める陽奈を見て、樹里が満足げな表情を浮かべる。人に脱がされるのは恥ずかしがるくせに、見られるのは平気のようだ。


「……うん、いいね! 思った通りサイズもぴったり」


「……自分ではよくわかりません」


「ふふー。できあがってからのお楽しみだね。じゃあ、次は髪いじろうか。おろしてちょっとコテで巻いてみよう」


着替えた陽奈を座らせると、樹里は壁際のキャビネットからヘアアイロンを取り出し延長コードのコンセントにプラグを挿した。


「ヤケドするから触らないようにね」


陽奈の背後に周り、髪を結んであるヘアゴムを外す。癖がついていたものの、ていねいにブラッシングすると目立たなくなった。


「よし……ここをこうして……こうしてと……」


コテを器用に使い手慣れた手つきで髪を巻いてゆく。一方の陽奈は、自分が何をされているのかまったくわからず、完全に固まっていた。


「……よし、完成!」


陽奈の正面にまわり込んだ樹里が、ニンマリとした笑みを浮かべる。


「うん、やっぱりめちゃかわいいよ!」


樹里は陽奈の手をとって立ち上がらせると「こっちおいで」と姿見の前へと連れていった。陽奈の背後に立ち、両肩へそっと手を置く。


「どう? 陽奈ちゃん」


「あ……」


姿見に写る自分の姿を見て再び固まる陽菜。そこには、これまで見たことがない、華やかな装いの女の子が写っていた。


「ど、どうしたの? 言語失っちゃった?」


「いえ……今までこういう格好したことがなかったので……」


アメリカでは治安の問題もあって、幼いころからほとんどスカートなど履いたことがなかった。自分自身も何となく肌を出すのが苦手で、なおかつ体を冷やすのが嫌だったため、見た目より機能性で服を選んでいた。


「……そっか。ね、服と髪型変えるだけでも印象めっちゃ変わるでしょ?」


「はい。かわいいです」


「あはは。自分で言っちゃうかなぁ」


「あ、いや……」


相変わらず表情はあまり変わらないが、明らかに陽菜は自身の変化に驚いているようだった。その様子に、樹里も満足げな笑みを浮かべる。


陽菜が自分の胸へ手をあてた。心臓の鼓動がいつもより速い。何だろう、この感じ。今までこんな感じになったこと一度もなかった。何か、何て言うか……。


「……ワクワク、するでしょ?」


中腰になり、陽菜と同じ目線になった樹里が鏡を見ながら声をかける。ワクワク? しているのだろうか? その経験がないからわからない。ただ、この心地よい感覚は決して嫌いではない。陽菜はたしかにそう思った。



――カーペットの上にペタンと座る陽菜が、ガラステーブル上に広げたファッション誌のページをめくる。彼女が読んでいるのは、十代女子から絶大な人気を得ているファッション誌『Girl & Girl』、通称ガルガルだ。


すでに彼女はもとの服に着替えており、その背後ではコテをもった樹里が陽菜の髪の毛をもとの状態へ戻そうとしていた。さすがに、このまま帰すと親に叱られてしまうおそれがあるためだ。


「そういう雑誌も普段見ないの?」


「はい。初めて読みました」


相変わらずの抑揚がない話し方に、樹里が苦笑いを浮かべる。でも、先ほどまでの彼女を見ていてわかったことがある。


無表情で感情の起伏がほとんどないと思っていたが、どうやらそうではない。ただ、感情があまり表に出ないだけのようだ。


「あの」


「ん、どうしたの?」


「この、ジュリってもしかして、あなたですか?」


陽菜の後ろから膝立ちのまま、開いているページへ目を向ける。彼女が指さす先にいたのは、カメラ目線でポーズを決める樹里だった。


「あー、うん。私、その雑誌の読者モデルやってるからさ」


「読者モデル?」


「うん。一般読者としてのモデル、って言えばいいのかな? 読者代表として誌面を飾るモデル、みたいな。一応バイト代も出るんだよ」


「そうなんですね」


少しのあいだ樹里が写ったページを眺めていた陽菜だったが、雑誌を手に突然立ち上がり本棚へと足を向けた。


「ああ~、もう。まだ髪の毛途中なのに~」


樹里の言葉など聞こえないような素振りで、陽菜は本棚へと雑誌を戻す。多少なりともファッションに興味を抱いたのか、別のファッション誌を手に取ろうとしたところ――


「ん?」


視線を右側へ向けた陽菜の視界に、キャビネットの上に置きっぱなしになっている数学の問題集が映りこんだ。公園で取り組んでいたのとはまた別の問題集のようだ。


手に取りページをパラパラとめくるが、手をつけた形跡がいっさいない。


「この問題集は?」


「ん? ああ、前に買ったんだけど、ちょっと解説が難しすぎるとゆーか、情報量が多すぎるとゆーか……あはは」


「……そうですか」


と、そのとき。『荷物が届いています』と機械的な声が邸内に響いた。どうやら、宅配ボックスに荷物が格納されたことを知らせる音声のようだ。


「あ、ネット通販で買ったやつかな。ちょっと荷物受けとりに行ってくるね」


樹里が慌ただしく部屋を出てゆく。少し何かを考えていた陽菜がランドセルからペンケースを取り出し、手にしたシャーペンで問題集へ何かを書き込み始めた。



「ごめんごめん。やっぱり通販で買った荷物だった」


樹里が部屋に戻ると、陽菜はランドセルを背負い帰り支度をしていた。時刻は午後十七時半すぎ。


「あ、もうそろそろ帰らなきゃだよね。送っていくよ」


「いえ、電車で三区間なのでお構いなく」


「そうはいかないよ。強引に連れてきちゃってるし、何かあったら親御さんに申し訳ないし」


「強引に連れてきた自覚はあったんですね」


「あはは……まあとにかく、自宅の近くまで送っていくね」



電車でわずか三区間の距離なので、陽菜の自宅の最寄り駅まで十分もかからなかった。改札を抜けて駅前の喧騒を少し離れると、住宅街が見えてきた。どうやら、陽菜が暮らしているのは戸建て住宅のようだ。


「あの、ここでいいですよ。私の家すぐそこなので」


「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」


「はい」


ほとんど表情を変えずに踵を返そうとする陽菜。


「あ、陽菜ちゃん!」


「? 何ですか?」


「その、よかったらLIME交換しない? てか、LIMEやってる?」


「……まあ、やってますけど」


「なら、交換しようよ」


わずかな間があったあと、陽菜がパンツのポケットからスマホを取り出した。指で何やら操作したあと、画面を樹里へ向ける。


「二次元コード、読み取ってください」


「あ、うん!」


ピロリンと軽快な音が鳴り、スマホの画面に「神木陽菜」の名前が表示された。そのまま「友達追加」をタップする。目の前で陽菜もスマホを操作して友達追加を行い、無事にLIMEの交換は完了した。


「それでは、私はこれで」


スマホをポケットへ仕舞った陽菜が踵を返して歩き始める。


「うん。陽菜ちゃん、またね!」


その言葉には答えず、陽菜はテクテクと静かな住宅街の歩道を進んでゆき、樹里は苦笑いしつつもと来た道を戻り始めた。


少し歩いたところで、陽菜がそっと背後を振り返る。樹里が背を向けているのを確認すると、ポケットからスマホを取り出しLIMEを起動した。


展開した友達リストに表示されている名前は母親である神木葉子、そして佐々本樹里の二つ。見慣れない新たな名前が追加されているのを見て、陽菜の頬がわずかに緩んだ。



――自宅に戻った樹里は制服から着替えると、ガラステーブルの上を片づけ始めた。空になったグラスをお盆へ載せていたとき、テーブルの上に数学の問題集が置かれているのに気づく。


「あれ? 陽菜ちゃんが読んでたのかな?」


パラパラとページをめくる樹里の手が止まった。再び冒頭へ戻り、一ページずつページをめくってゆく。


目に飛び込んできたのは、問題の解き方をわかりやすく解説した記述。冒頭から十数ページにわたりシャーペンで記述されていた。


「え……いつの間に……? まさか、荷物を受け取りに行ってたあのわずかな時間で……!?」


小学生らしくかわいらしい字で書かれた、陽菜からのささやかなお礼の意思表示。胸のなかに、じんわりとあたたかいものが広がるのを樹里は感じた。

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