第3話 信じられない

聞くに耐えない、とはこのような状況を指すのだろうか。授業前に配られた教材の英文小説に目を通しつつ、陽奈はそっと小さく息を吐いた。


教壇では、教師が無駄に激しく抑揚をつけながら英文を朗読している。不自然な発音にイントネーション。これを聞き続けなければいけない状況はただただ苦痛だ。


そんな陽奈の思いをよそに、英語教師の山里拓実は自信満々な顔で英文をつらつらと読んでゆく。今年から聖蘭学院小学校で教鞭を振るうことになった山里は、女子生徒からの人気が高い教師だ。


年は二十代前半、いわゆるイケメンに分類される整った顔立ちに、海外留学で培った英語力。指導もわかりやすいと評判、らしい。


が、幼少期からアメリカで育った帰国子女の陽奈に言わせれば、山里の英語は向こうの六歳児レベルだ。


『日本の未来を担うグローバル人材となれる基礎を養う』


こうした教育理念を掲げる私立聖蘭学院小学校では、早期英語教育にも力を入れている。実にご立派な教育理念だとは思うが、それならもう少しマシな教師を確保できなかったのか。


まあ、海外留学していたと言ってもわずか一年程度らしいので仕方がないことかもしれない。一般的な日本の小学生に指導するには十分な英語力と言えるだろう。


山里の不幸は、担当することになったクラスに神木陽奈がいたことだった。しかも、山里は事前に聞かされていた情報とは異なり、陽奈がとてもことに自信を深め気をよくしていた。


それゆえなのか、最近は授業中に陽奈へ挑発的な視線を向けることが増えていた。もちろん、陽奈がそれに気づかないはずはない。


生来、陽奈は感情をほとんど表に出さない。が、それは感情がないわけではなく、喜怒哀楽の表現に乏しいだけだ。


ここ最近頻繁に向けられる教師からの挑発的な視線、暗に帰国子女を貶すような態度。コンプレックスからくるものなのかもしれないが、そんなこと陽奈には知ったことではない。


自ら進んで誰かを攻撃するつもりも、トラブルを起こすつもりもないが、ケンカを売られているのなら話は別だ。


教材として配布された英文小説から顔を上げ山里へ視線を向ける。こちらを見た山里の顔には、ニヤニヤと陽奈を小馬鹿にするようないやらしい笑みが浮かんでいた。


よし、そのケンカ買ってやろう――


表情をいっさい変えることなく、陽奈は再び教材の英文小説へと視線を落とした。


何でも、著作権が切れた洋書を英語教材用にアレンジした英文小説とのこと。二人の青年貴族が一人の女性を奪いあうという、割とありがちなストーリーだ。


話がクライマックスに近づき、朗読する山里の声にいっそう熱がこもる。タイミング的にはドンピシャだ。


陽奈がスッと息を吸い込む。


「「Why fight when you can negotiate? (交渉できるのになぜ争う必要がある?)」」


山里が朗読するフレーズへかぶせるように、陽奈が英文を声に出して読む。


突然の出来事に、クラス中の生徒がギョッとした表情を浮かべ一斉に陽奈へ視線を向けた。山里の顔も驚愕の色に染まり、やがて頬が紅潮し始める。


「「It is our destiny to fight. (戦うのが我々の運命だ)」」


透き通るような声で流暢に朗読する陽奈の英語力は、明らかに山里を上回っていた。そう、小学生でもわかるほどに。


「「Your family will be sad. (お前の家族は悲しむことになるだろう)」」


それでも山里は朗読をやめない。英語教師としてのプライドからか、顔を歪めながらも口を動かし続けた。


「「It doesn't matter. Now, take out your sword. (どうでもいいことだ。さあ、剣を抜け)」」


おろおろとしながらも、この結末がどうなるのか気になり目が離せないクラスメイトたち。終幕は唐突に訪れた。


「You will definitely regret it……?? (必ず後悔するぞ)」


突然、陽奈が朗読をやめたため山里の声のみが虚しく教室に響く。やや戸惑った表情で教材から目を離し陽奈へ視線を向けると、彼女もまた山里をじっと見つめていた。そして──


「……You won't regret it, will you? Because you picked a fight with me. (あなたこそ後悔しないでね? この私にケンカを売ったのだから)」


「あ……あう……!」


一瞬呆然とした表情を浮かべた山里の言葉が詰まる。クラスメイトたちも思わず息を呑んだ。


なぜなら、次のセリフは「I will not regret it. (後悔はしないさ)」なのだが、陽奈の口から放たれたのはまったく別のセリフ。そう、アドリブだ。


さっきのセリフは陽奈の本心から出た言葉である。アドリブに対応できず完膚なきまでに叩きのめされたうえに、明確な宣戦布告を受け山里は固まってしまった。


シンと水を打ったように静まり返る教室。生徒たちも顔を見あわせてことの成り行きを見守っていた。と、そのとき──


「……先生。お邪魔してすみませんでした。私もつい読みたくなってしまって」


「あ、ああ……」


どんな顔をすればいいのかわからず、山里は無意識に陽奈から目を背けた。


「さすが、海外留学していただけありますね。勉強になりました」


無表情のまま一ミリも思っていないことを口にする陽奈と、下唇を噛んだまま俯く山里。微妙な空気が流れるなか、授業終了を告げるチャイムが鳴り、クラスメイトたちは一様に胸を撫でおろした。



──散歩しているカップルに花の絵を描いているお年寄り、ベンチに腰かけ新聞を広げるサラリーマン。午後の白河自然公園は、相変わらず多くの人が思い思いの時間をすごしていた。


「う~ん……う~ん……」


眉間にシワを寄せた樹里が、数学の問題集に目を落としたまま低い唸り声をあげる。ベンチに腰かけ、難しい顔をして唸り声をあげる制服姿のJKに、そばを通りかかった大学生のカップルが怪訝そうな目を向けた。


先日、冬島出版の副編集長である明日香から急遽依頼を受けて臨んだ撮影が無事終わり、今は目下数学の小テストに向けて勉強中だ。


普段は、撮影後に冬島出版のオフィスへ戻り着替えさせてもらうのだが、今日は用事があったため、公園のトイレで着替えさせてもらった。


はぁ~……やっぱり難しいや。もともと数学苦手だしな~。てか、こーゆー数式とかって将来役立つん? 絶対に必要なさそうなのだが。


じっとりと額に滲む汗を拭おうと、樹里はスクールバッグのポケットからハンカチを取り出そうとした。のだが。


「あちゃー……洗濯したまま忘れちゃったか……」


深くため息をついた樹里は、ベンチの背もたれに体をあずけると空を見上げた。


「空……青いなぁ……」


相変わらず太陽の光が容赦なく降り注いでいるが、先日の撮影時よりは暑くない気がする。あ、鳥発見。


気持ちよさそうに飛んでるな~。と、そこへ――


「あ、あの……!」


突然声をかけられ驚いた樹里が弾けるように姿勢を戻す。目の前に立っていたのは、同い年くらいの女の子。制服を見るに、南朝陽高校の生徒のようだ。


「は、はい?」


「あの! もしかして読者モデルのジュリさんですか!?」


「あ、はい」


顔を紅潮させ、やや興奮した様子の女の子に対し、樹里は営業スマイルを浮かべて軽く会釈した。なお、ジュリとは樹里が読モとして活動するときの表記だ。


「やっぱり! いつもガルガル読んでます! 私ファンなんです! あ、あの、握手してもらってもいいですか?」


「えー! ありがとうございます! 嬉しいです!」


樹里が手を差し出すと、ファンを公言するJKは感動した面持ちでその手を握った。


「応援しているので、これからも頑張ってください!」


「うん、ありがとう!」


ペコペコと何度も頭を下げながら去ってゆく女の子に手を振りながら、樹里は胸のなかにあたたかいものが広がってゆくのを感じた。


う~……! 嬉しいなぁ……。ああいうの、珍しくなくなったけど、それでも同世代の女の子からファンですって言ってもらえるの、めっちゃ嬉しい!


再びベンチへ腰かけ、余韻に浸る樹里。実際のところ、先ほどのようなことは珍しくない。


ガルガルは十代女子から絶大な支持を得ているファッション誌であり、樹里はそこの人気読者モデルなのだ。


街を歩いていると、握手や写真の撮影を求められることも多い。ホストやスカウトなど、怪しい輩が近づいてくることも増えたが……。


気分をよくし、ふんふんと鼻歌まじりに再度数学の問題集を開こうとしたそのとき、また誰かがベンチのそばへやってきたのを感じ樹里は顔をあげた。


「……あ!」


そこにいたのは、間違いなくこの前の小学生。ランドセルをおろそうとしていた少女が、唐突に声をあげた樹里へと顔を向ける。


「ふふふ……ここで待っていればきっとまた会えると思っていたよ」


若干、気持ち悪い笑い方をする樹里に、陽菜は怪訝な表情を浮かべた。


「……? あの、どちら様ですか?」


「は!? もう忘れたの!? ほら、この前ここで会ったじゃん!」


陽菜は首を傾げて考えるような素振りを見せる。一方、樹里はというと、完全に忘れ去られていたことにややショックを受けていた。


は? マジで忘れてんの? これでもガルガルの人気読者モデルなんですけど!? 


先ほどの余韻は完全に吹き飛び、やや怒りにも似た感情が腹の底からふつふつと湧きあがる。一方、樹里をじっと見つめ少し考えるような素振りを見せた陽奈は、無感情に「ああ」と呟いた。


「この前の変質者さんですか」


「変質者じゃないし!」


「……まあ、どうでもいいです」


興味をなくしたようにベンチへ腰をおろした陽奈がランドセルのなかをまさぐり始める。その様子を「ぐぬぬ……!」と悔しそうに眺める樹里。


この前の件で何か一言もの申したいと待ち構えていた樹里だったが、いざ本当に会えると何を言えばいいのかわからなくなってしまった。


悶々とする樹里を尻目に、少女は取り出した本を膝の上に載せた。どうやら、ここへは読書目的で訪れているようだ。


樹里がじっと少女を見つめる。それにしても、この前も思ったがやっぱりきれいな顔してる。髪の毛おろしてもう少しふんわりさせて、薄くメイクすればもっとかわいくなるはず。


ただ……。


うん、やっぱり着ている服はダサい。てゆーか、その服ってこの前も着ていなかった?


「……あの。本当に変質者じゃないんですよね?」


じっとりとした視線を感じた陽菜が、横目でじろりと樹里を見やった。


「だ、だから違うって言ったじゃん! わ、私はね、この前あなたに言われたことに対して一言物申してやろうと思ってここで待ってたんだからね」


「……私があなたに言ったこと?」


「そ、それすら覚えてないとか……!」


ぐぬぬと下唇を噛み悔しそうな表情を浮かべる樹里に対し、陽菜の表情はいっさい変わらない。


「私、何か言いましたか?」


「言った! ほら、私のコーデ見て、『そんなに肩出してだらしない』とか『みっともない』とか言ったじゃん!」


「ああ……そう言えば、そのようなこと言ったような言わなかったような……」


「いや、間違いなく言ったし」


「そうですか。それは失礼しました。あ、今日の服はだらしなくないしとてもお似合いですよ」


「いや学校の制服だし!」


「でもスカートは短すぎですね。みっともないですよ?」


「ほら言った!」


きーっ! と思わず腰を浮かしかけたはずみで、膝の上に載せていた数学の問題集とペンが地面に落ちる。


「あ、ヤバ」


手を伸ばして拾おうとすると、それより早く陽菜が問題集をサッと拾いあげた。


「あ。ありがと……って、何?」


問題集を手にとった陽菜が、感情を窺えない瞳のままペラペラとページをめくってゆく。


「……ずいぶん退屈な問題ばかりですね。あ、すみません、どうぞ」


つまらなそうに問題集を差し出す少女に対し、樹里は若干の苛立ちを覚えた。何なん、この子!? めっちゃ生意気とゆーか口悪くない!?


「あ、五ページ目の問い三、回答間違えていますよ。答えは『Y´=2/3X-1/3』です」


読書を始めた少女がこちらを見もせずぼそりと呟く。何を言われたのか理解できず、樹里は目をぱちくりさせた。


はあ? 何言ってんだか。小学生が高二の数学問題がわかるわけ……。鼻で笑いながら、回答ページを開き答えを確認する。


「え……?」


樹里の目が驚きのあまり見開かれる。そこには、少女が口にした通りの回答が記載されていた。


「ど、どうしてわかったの?」


「どうしてって、簡単な問題ですから。間違うほうが難しいと思いますけど?」


ぐ……どうしてこの子はこんなに一言多いのか。黙っていればめちゃかわいいのに! 


「や、だってあなた小学生でしょ……?」


「はい。聖蘭学院小学校の五年生です」


聖蘭学院! 私立の名門じゃん! い、いや。それでも高校二年生の数学問題をあっさり解くって、どう考えてもおかしいでしょ!


「ね、ねえ。ちなみに、この問題も解けたりする……?」


樹里は先ほどまで解いていた問題集のページを開いて見せた。ちらりと見やった陽菜が「はぁ」と小さくため息をつく。


「……ペンありますか?」


「あ、うん」


受けとったペンでサラサラと問題集へ回答を書き込む陽菜。その時間、わずか五秒ほどである。


「はい。これでいいですか?」


おそるおそる問題集を受けとった樹里がすぐさま答え合わせを始めた。再び走る衝撃。


「うそ……合ってる……」


あれほど考えてもまったくわからなかった問題をわずか数秒で解いてしまうミステリアスな少女に、樹里は驚愕せずにいられなかった。

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