第2話 役に立つとは思えません

嫌でも耳に飛び込んでくる耳障りなノイズに、神木陽奈の顔がかすかに歪む。読んでいた本から視線を外して顔をあげると、クラスメイトたちが奇声を発しながらボールをぶつけあう光景が目に映った。


今は体育の授業中。少し離れたグラウンドのコートで繰り広げられているのは、ドッジボールと呼ばれる野蛮な球技だ。


小さく息を吐いた陽奈が再び本へ視線を戻す。正直なところ、陽奈にはこのドッジボールという球技が小学校の授業に組み込まれている理由がわからなかった。


子どもの体力増進が目的なら、もっとほかに効率的な運動があるはずだ。なのになぜこんな野蛮な球技が体育の授業に組み込まれているのか。


二年前まで海外で暮らしていた帰国子女の陽奈にとって、日本の小学校で行われているドッジボールは衝撃的だった。


陽奈がアメリカで通っていた学校では、弱いものイジメにつながるとの理由でドッジボールは禁止されていた。


それに、もしボールが顔面に直撃して眼球にでもダメージを負ったら教師や学校はどう責任をとるつもりなのだろうか。


このような考えゆえに、陽奈はこれまでドッジボールに参加したことは一度もない。というより、体育の授業はほぼ見学している。体育の必要性をあまり感じないからだ。


そんなことに時間を割くくらいなら本でも読んでいた方がいい。グラウンドから少し離れた木陰の下で読書しつつ、そのようなことをぼんやりと考えていたところ──


「こら、神木。授業に参加せず何読書なんてしてんだ。参加できなくてもきちんと見学しなきゃダメじゃないか」


クラスメイトの誰かから「先生ー、神木さん体育さぼって本読んでるんですけどー」とでも言われたのだろうか。まあ、誰が言ったかは何となく想像がつく。


近づいてきた体育教師に頭上から声をかけられ、陽奈は読んでいた本から目を離し顔を上げた。


「お前以外の生徒はみんな頑張ってるんだぞ。それなのにこんなとこ──」


「なぜ読書はダメなんですか?」


「あ?」


無感情な瞳でじっと見つめる陽奈に対し、教師はあからさまに「面倒な」と言わんばかりの表情を浮かべる。


「体育の授業に参加しないのですから、その時間を有意義に使うのはむしろいいことだと思うのですが」


「はぁ……あのなあ、今はそんな屁理屈──」


「それに、あの野蛮なボールのぶつけあいをまじめに見学したところで何かの役に立つとは思えません」


教師の顔がみるみる赤くなり、こめかみには太い血管が浮かび上がった。陽奈を立たせるべくその細い腕を掴もうと手を伸ばすが──


「私に少しでも触れたら、親に報告したうえで教育委員会へ駆け込みます。暴力を受けたと」


「ぐ……!」


すんでのところで手を止めた教師だが、その顔は憤懣やるかたないと言わんばかりに歪んでいる。


「……ほんとかわいげがない奴だ。そんなんだからお前には友達もできないんだぞ」


苦々しげな表情を浮かべ、およそ教師らしくない捨て台詞を吐いた教師は、踵を返すと肩をいからせながら陽奈のもとを去っていった。


はぁ……ほんとくだらない。あんな体力自慢の筋肉ゴリラを教師として採用するなんて、日本の教育機関って大丈夫なのだろうか。


軽くため息をつき、本のページをめくる。そう言えば、学校で教師と会話したのも久しぶりな気がする。


陽奈が通う私立聖蘭学院小学校は、公立のように一人の担任が全教科を担当するシステムではなく、各教科に専任の教師がいる。


なかには陽奈と積極的にコミュニケーションをとろうとする者もいるが、から多くの教師はなるべく関わろうとはしない。陽奈の顔色を窺いながら教鞭を振るう者もいるくらいだ。


なお、体育教師が口にした通り、陽奈に友達がいないのは事実である。小学五年生のクラスメイトにも先ほどのような対応をしてしまうため、友達などできるはずがない。


そもそも、陽奈自身が友達の必要性を感じていないため交流が生まれるはずもなく、自然とクラスのなかで孤立していた。


グラウンドの隅に設置されたスピーカーからチャイムの音が鳴り響く。陽奈はゆっくりと腰をあげ、のろのろとクラスメイトたちに近づき整列に加わった。ふてぶてしいとも思えるその態度に、数人の女子がヒソヒソと陰口を始める。


が、当の本人はどこ吹く風である。日直の号令にあわせ腰を折った陽奈は、再び陰口を叩く女子たちを尻目にスタスタと教室へと戻っていった。



──授業の合間に設けられた十分の休み時間。生徒たちが思い思いの時間をすごす教室のなかで「おお〜」っと感嘆の声があがる。


机の上に広げられた雑誌の誌面へ、複数の女生徒が羨望の眼差しを向けた。


「すごーい! 二ページに渡って特集なんて、樹里マジで芸能人みたいじゃん!」


「ほんとやべー。てかこのコーデ、マジで神すぎる」


感嘆の言葉を述べているのは、樹里の友人である吉成葉月と鷹村晶だ。二人とも樹里に輪をかけたゴリゴリのギャルである。


「ねー。このコーデは個人的にもかなりお気に入りかも。あ、でも何日か前に公園で撮影したときのコーデもかなりよかったよ」


「へー、そうなんだ。それは来月号に載るん?」


「うん。発売されたらよろしく」


「もち、買う買う」


読モとして活動する樹里は全学生にとって憧れの的だ。整った顔立ちにメリハリのきいたスタイル、そのうえ明るい性格で誰にでも気さくに接するため、誰もが彼女に好感を抱いている。


教師のなかには、成績の悪い樹里がそのような活動をしていることに眉を顰める者もいるが、多くは生徒と同じように好感を抱いていた。


「ちなみに、この前の撮影はどんなコーデだったん?」


「ん? えーとね、ちょい甘めでガーリーな肩出しワンピにチュール生地のミュール」


葉月からの質問に、顎へ指をあてながら記憶を辿っていると、授業開始のチャイムが鳴った。「やべ、次数学じゃん」とげんなりした表情を浮かべた葉月と晶が自分の席へと戻っていく。


その様子を見て苦笑いを浮かべた樹里は、雑誌を机のなかへ仕舞うと数学の教科書とノート、ペンケースを取り出した。


それにしても、この前の撮影で着たあのワンピ、かわいかったなー。明日香さんにも似あってるって言ってもらったし、買ってみようかな。



『そんなに肩出してだらしないですね』


突如、初対面の小学生に言われた言葉が脳裏に蘇り、樹里の眉間に深いシワが刻まれる。


うー……せっかく忘れかけてたのに、思い出したら腹立ってきた。なぜ初対面の小学生にあんなこと言われなきゃいけないのか。


肩を出すのがだらしないなら、夏場にキャミ一枚で徘徊しているギャルはみんなだらしないってことになるじゃん。くっそー……。


大きくため息をついた樹里に、数学教師の伊達晴美がジロリと視線を向ける。


「……佐々本さん。聞いていますか?」


「あ、はい」


いや、全然聞いてなかったけど。


「あなたはただでさえ成績が悪いのだから、まじめに授業を受けるように」


「はーい」


あーあ、数学もだけどこの先生も苦手だわー。何か私のこと目の敵みたいにしてるし、説明もわかりにくいし。


年は三十代前半、化粧っ気がなく地味な顔立ちの数学教師、伊達晴美に対する生徒たちの評判はあまりよくない。


特定の生徒に対する露骨な依怙贔屓や横柄な態度。昔は人気の先生だったらしいが、今その面影はない。


そう言えば、前に葉月が「伊達センセー、あんな地味な感じだけど車が趣味で昔は走り屋だったらしいよー」と言っていたのを思い出した。正直、樹里には走り屋と暴走族の違いがよくわからない。てゆーか、そんな情報いらんし。


ノートをとるフリをしつつ、樹里は先日の撮影で出会った失礼極まりない少女を思い返した。


あのときはただただムカついたけど……いや、何なら今もムカついてるけど、今思うと何か不思議な子だった気がする。小学生なのに年上に対して物怖じせず接する態度、あのふてぶてしさ。


私、小学生のときあんなふうだっけ? いや、絶対違うよな。あんな大人びた話し方をしていた記憶はまったくない。


樹里は小学生時代を振り返りながら、生意気でファッションセンスのない、だが顔だけはかわいい不思議な少女のことに考えを巡らせ続けた。


できればもう一度会いたい。なぜって? もちろんあのときのお返しをするためだ。


自身のアイデンティティであるオシャレを全否定した小生意気なJS。ギャフンと言わせなきゃ気が済まない。この前は反論する前に逃げられたし。


大人げないのはよくわかっている。でも悔しいものは悔しいのだ。ギャル舐めんなよ。


……ん? てゆーかいったいどこ行けばあの子に会えるんだ? せめて制服でも着てたのなら通ってる学校とかわかるんだが。と、そのとき──


かすかな振動を感じた樹里は、ブレザーのポケットからスマホを取り出すと、教師にバレないよう画面に目を落とし通知を確認した。


『新しいメッセージがあります』


画面に表示されているのは、人気のメッセージアプリ『LIME』に新たなメッセージが届いていることを伝える通知。


教師がこちらへ背を向けている隙にそっとLIMEを開く。メッセージは冬島出版の副編集長、明日香からだった。



明日香『樹里ちゃん、この前は撮影お疲れ様! あのね、ちょっと相談があるんだけど、時間が空いたときに連絡くれるかな?』


明日香さんからの相談……いったい何だろう? この前撮影した写真に何か問題でもあったのかな? 


樹里はスマホを両手で持ち直すと、素早くメッセージを打ち込み始めた。



樹里『明日香さんお疲れ様です! 相談って何ですか??』


明日香『ごめんね、授業中に。実は、押さえていた読モの子が飛んじゃって……。撮影が迫ってるから何人か声かけたんだけどつかまらなくて(涙) 平日だから難しいかもしれないけど、樹里ちゃんお願いできないかな……?』


樹里『マジですか。ちな、撮影予定の日っていつですか?』


明日香『それが明後日なの……時間はこの前と同じくらい……』


樹里『おお……学校だけど何とか早退して行きますよ! 明日香さんにはお世話になってますし!』


明日香『ありがとおおお樹里ちゃん! ほんっと助かる! ちなみに、まだ撮影場所決めてないんだけど、どこか希望はある?』


うーん、撮影場所かぁ……あ、そうだ!


樹里『じゃあ、この前の撮影で使った公園でいいですか?』


明日香『白河自然公園ね。わかった! じゃあこの前の駅まで迎えに行くね! 細かい時間はまた夜にでも連絡するから。本当にありがとう!』



メッセージを既読にした樹里は、スマホをポケットのなかへ戻し「ふぅ」と小さく息を吐いた。


よし、これでいい。あの公園を撮影場所に指定したのは、別に気に入ったからではない。単純に、あの天使な顔をした小生意気な小学生との接点があの公園しかないためだ。


同じ時間帯にあの公園へ行けば、また会えるかもしれない。ふふふ……待ってろよ小娘。邪悪な笑みを浮かべながら器の小さいことを考えていたそのとき――


「はい、注目。近々、皆さんの理解度を確認するために小テストを実施します。いつ行うかは明言しません。いつ実施されてもいいように、日ごろから勉強に励むこと。ちなみに、小テストの結果はもちろん成績に直結するので、決して手を抜かないように。いいですね」


数学教師の口から発せられた無慈悲な言葉に、クラス中からブーイングがあがる。が、タイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴り、教師は何食わぬ顔で出て行ってしまった。


「マジか……」


読モのバイトを引き受けた矢先に……。なんてこった。明日香さんには申し訳ないけど、断ったほうがいいかな……? いや、一日くらいバイトしたところで何も変わらないか。


再びポケットからスマホを取り出し画面に目を落とす。若者に人気のSNS『glamorousグラマラス』アプリのアイコン右上に数字の一が表示されているのに気づき、にわかに表情が曇った。


おそるおそるSNSを開くと、見知らぬアカウントからメッセージが一件届いていた。たちまち樹里の顔が強張る。


かすかに震える指でメッセージを読みもせず削除すると、ブレザーのポケットへ乱暴にスマホをねじ込んだ。

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