永遠のパラレルライン

瀧川 蓮

第1話 めっちゃムカつく

暑い──


じっとりと汗ばむ肌にかすかな不快感を覚えつつ、佐々本樹里じゅりは自分へ向けられた硬質なレンズに視線を向けた。


「樹里ちゃん、少し斜めを向いてくれる? うん、そうそう。いいね〜」


カメラのレンズを覗き込む男の指示にあわせ、短い間隔で次々とポージングしてゆく。我ながら慣れたものだ。


それにしても暑い。春が一瞬で終わったとはいえまだ初夏なのに、なぜこれほど暑いのか。


おでこに浮かぶ汗を手で拭おうとした樹里の手がピタリと止まる。ああ、もう。メイク落ちちゃうから迂闊に汗も拭えない。


視界の端に、撮影スタッフの男性がタオルで気持ちよさそうに顔を拭いている様子が映り込んだ。こういうときだけは男子に生まれたかったと思ってしまう。


せめてハンカチがあれば、おでこの上から汗を押さえるように拭けるのに。なぜ私はハンカチをポケットに入れておかなかったのか。笑顔でポージングしながら、気づかれないように小さく息を吐く。


そのハンカチはスクールバッグのなかだ。そして、スクールバッグは少し離れた駐車場に停めた撮影スタッフの車内にある。


「はい、オッケー! ちょっと休憩にしましょう」


カメラマンの隣で撮影の様子を見ていた女性がパンパンと手を打ち鳴らす。


「樹里ちゃん、とてもよかったわよ。それに、そのコーデめちゃくちゃ似あってる!」


「あはは……ありがとうございます明日香さん。少しガーリーすぎて私には似あわないかなって思ったんですけど。てか暑すぎて汗やばいっす」


「樹里ちゃんは美人だしスタイルもいいから何でも似あうわよ~。ちょっと甘めだけど肩を出すデザインだし、いい感じに少女っぽさと大人っぽさが融合している感じ。あ。はい、これ」


明日香が差し出したのは新品のタオルとスポドリ。樹里が今一番欲しかったものだ。


「わ。ありがとうございます」


おでこに浮いた汗をタオルで軽く押さえた樹里は、ペットボトルのフタをあけてスポドリをゴクゴクと勢いよく喉へ流し込んだ。


「ああ~……! 生き返る~……」


大げさに感動する樹里の様子に、明日香が苦笑いを浮かべる。明日香は十代から二十代女子に人気のファッション誌「Girl & Girl」、通称ガルガルを出版している冬島出版の副編集長だ。


「ふふ。最近は樹里ちゃんが快く引き受けてくれるから嬉しいわ。どういう心境の変化なのかしら?」


「いや~……まあいろいろと。それに、読モのバイトそのものは私も好きなんで」


「うちとしては本当に嬉しい限りよ。樹里ちゃん読者さんからとても評判がいいから」


「あはは。ありがとうございます」


実際、樹里がガルガルの読者モデルとして誌面を飾り始めてからというもの、売上部数は確実に伸びていた。整った顔立ちに女性なら誰もが羨むスタイル、しかも現役のJK。同世代を中心に大勢の読者が樹里に魅了されている。


一息ついた樹里が周りに視線を巡らせる。広々とした公園のなかは緑があふれ、時間もゆっくりと流れているように感じた。


相変わらず太陽は照りつけているものの、新緑の爽やかな香りが心地いい。大きく息を吸い込むと、澄んだ空気が全身を巡るような感覚に陥った。


「さて、じゃあ撮影の続きいきますか。樹里ちゃん、もう少しだけ頑張ってね」


「はい!」


元気よく返事をした樹里だったが、目を向けた先ではカメラマンの井ノ原陽介とアシスタントが何やら深刻そうな顔で機材に向きあっていた。何やらトラブルのようだ。


「井ノ原さん、どうしたんですか?」


「ああ、樹里ちゃん。いや、ちょっとカメラの調子がね……シャッターユニットの寿命かな……」


ブツブツ言いながらカメラのレンズを覗き込みシャッターを切ろうとするカメラマン。だが――


「んん……やっぱりダメか。申し訳ない、樹里ちゃん、明日香さん。車に予備のカメラがあるから取りに行ってきます」


「んもー井ノ原君、前回も機材トラブルで撮影押したんだかららね? もっとしっかりしてくれないと」


「いや、ほんと申し訳ないです」


井ノ原が頭をかきながら申し訳なさそうに腰を折る。年は二十代後半だが、井ノ原は実績豊かなカメラマンだ。


「そんなんだから彼女にも愛想尽かされちゃったんじゃないのー?」


「酷いなー明日香さん。それってセクハラ……いや、パワハラか」


二人のこういうやり取りは日常茶飯事だ。


「ごめんごめん。樹里ちゃん、まだ時間は大丈夫?」


「えーと……今何時ですか?」


スマホもスクールバッグのなかなので今が何時なのかわからない。


「十四時三十分すぎ」


「なら問題ないですね」


普段なら六時限目の授業が始まるところである。にもかかわらず樹里が公園で読モの撮影をできている理由は、今日が学校の創立記念日で授業が正午までだったからだ。


「すみません。じゃあすぐ予備のカメラとってきます。十分くらい待っていてもらえますか」


「はいはい。ごめんね、樹里ちゃん。井ノ原君が戻ってくるまでそのあたりでゆっくりしてて」


「はーい」


さて、スマホでも……ってそうだ。スマホないんじゃん。JKにとって必須アイテムであるスマホがない。これは重大な問題である。


うあー、マジかー。こんなとこでスマホもないまま何をしていろと? マジ詰んだのだが。はぁ、と大きくため息をついた樹里の視界に、涼しげに水を吐き続ける噴水の姿が目に入った。すぐそばにはベンチもある。


「……多分ここよりは涼しいよね」


立ちっぱなしで少し疲れたし、あの噴水のそばにあるベンチで一休みするか。テクテクと噴水のもとへ歩みを寄せると、ひんやりとした空気が優しく肌を撫でるのを感じた。


ベンチは噴水をぐるりと囲むように複数設置されている。井ノ原が戻ってきたときすぐわかるように、撮影していた場所を視界に捉えられる位置のベンチに腰をおろした。


ベンチに腰かけてすぐ、樹里は無意識に背後を振り返った。これはただの癖だ。ベンチと噴水とのあいだは一メートル近い間隔があいているが、わざわざそんなすき間を縫って歩く者はいまい。多分。


ああ~……やっぱりさっきの場所よりずいぶん涼しい。露出している腕と肩、足の汗がスーッと引いていくのを感じる。


少し離れた隣のベンチでは、高齢の男女が仲良く並んで読書をしていた。老夫婦だろうか。ときおり顔をあげてにこやかに会話を始める老夫婦は、とても仲睦まじく見えた。


なんか、ああいうのいいな。いくつになっても仲良しなのって、とても素敵だと思う。と、樹里がそんなことを考えていると――


「……ん?」


お尻に小さな振動を感じた。誰かが隣に腰かけたのに気づき、樹里の肩がびくんっとわずかに跳ねる。隣に座ったのは小学生の女の子だった。髪の毛を後ろで二つ結びにした女の子は樹里に目を向けもせず、おろしたランドセルのなかをまさぐっている。


小学……四年生か五年生くらいかな? 懐かしいな~。私にもこんなときあったわー。いや、誰でもそうか。


ランドセルから一冊の本をとり出した少女が、背筋を伸ばして読書を始める。そう言えば、この公園は読書スポットとしても人気なんだった。


まあ、読書しないから関係ないけど。そう、樹里は読書どころか勉強全般が大嫌いなのである。もちろん、学校の成績は最悪だ。ギャル友達や読モ仲間のあいだでも、樹里のおバカっぷりは群を抜いている。


それはそうと……この子、よく見るとかわいらしい顔してるなー。若いからお肌がぷるっぷるなのは当然として、顔立ちが整ってる。将来有望だ。学校でも男子からモテてそうだなー。


ただ……。


横目のまま、少女の首から下へ視線を落としてゆく樹里。そして、そっと目を伏せる。


うーん、正直その服のセンスは……。最近の小学生ってめっちゃオシャレな子が多いのになー。そういうのは無頓着なのかな? 


明らかにサイズがあっていないデニムのパンツに、よくわからないキャラクターがプリントされたシャツ。ゴムの生地に意味不明な模様がデザインされた靴。


はっきり言って……ダサい。顔がかわいらしいだけに、ひじょ~~にもったいない! いや、クラスメイトとか友達とか指摘してくれる子はいないのか?


一人で悶々とした感情を抱く樹里。すると、少女もこちらをチラチラと見ていることに気づいた。


お。私のコーデが気になるのかな? うんうん、たっぷり見て勉強するのだお嬢ちゃん。これがトレンドを押さえた読モのトータルコーデだ。


ふふん、とわずかに口の片端を吊りあげる樹里。だったが──


「あの……」


隣に座る小学生が突然口を開いた。まさか話しかけられるとは思わず、樹里の心臓がドクンと跳ねる。オシャレについて質問でもしたいのだろうか。


「ど、どうしたの?」


「あの、さっきから私のこと見てますよね? しかも上から下まで舐めるように。もしかして変質者さんですか?」


思いがけない言葉を投げつけられた樹里が固まる。たしかに、横目でとはいえ、小学生女児の体を舐めまわすように見るのは変質者以外の何ものでもない。


「ち、違うし! 私はただ……」


「ただ、何ですか?」


樹里の頬を冷たいものが伝う。さっきまであれほど暑かったのに! 見ると、少女の右手には防犯ブザーが握られていた。これは非常にマズい。


「あ、あ、あのね、違うの。うん、私はあなたの服を見ていただけであって、決して変質者などでは……そ、それにあなたも私のこと見てなかった?」


「……ええ。見ていました」


「そ、それはどうして? 私のコーデが素敵だからじゃ――」


「違います」


樹里の言葉を遮るようにぴしゃりと言い放つ少女。いや、この子ちょっと圧強くない? 怖いんだが。


「じゃ、じゃあ何で見てたの?」


「そんなに肩出して、だらしないなって思って見ていたんです」


やや強くなった風が木々の葉をざざっ、と揺らし、樹里の長い栗色の髪が風に泳いだ。


「……は?」


予想だにしない辛辣な言葉をぶつけられ、樹里の顔から表情が消える。が、すぐにその顔が紅潮し始めた。


「だ、だらしない!? 何言ってんの、これは――」


「女の子がそんなに肩をぱっくりと露出させて、だらしない以外の表現が見つかりません。それに、肩を冷やすのは健康面からも問題があります」


自分より遥かに年下の女子に好き放題言われた樹里が、ワナワナと体を震わせる。


い、いや、相手は子どもだ。うん、そう子どもじゃん。オシャレのオの字も知らないお嬢ちゃんに何を言われたところで、腹なんて立つわけ……わけ……! いや、やっぱ腹立つ!!


「あ、あのねぇお嬢ちゃん。このコーデは最新トレンドを――」


「そういうの興味ないのでいらないです。みっともない恰好をしていると笑われちゃいますよ? それに風邪を引く確率も高まります」


無表情のまま極端に抑揚のない声で言葉を紡ぐ少女に対し、樹里のなかでふつふつとした怒りが湧きあがる。


うっせーわ! いや、うっせーわ!! 許されるなら今すぐこの小生意気なガキんちょのおでこに、強烈なデコピンを喰らわせてやりたい!


「いや、だからね――」


「お~い、樹里ちゃ~ん! 撮影再開するよ~!」


反論を試みようとした樹里の耳に、明日香の声が飛び込んできた。どうやら井ノ原が戻ってきたようだ。


「あ、はーい! 今行きまーす!」


好き放題言われたままでは悔しいので、最後に何か言ってやろうと少女に向き直る。が。


「あ、あれ?」


すでに少女はベンチを立ち、樹里に背中を向けて歩き始めていた。


「ち、ちょっと……!」


「樹里ちゃ~ん! 早く早く~!」


ベンチから腰をあげ、どんどん遠ざかる少女の小さな背中を見つたまま思わず歯噛みする。く、く、く……悔しい! 


気分は最悪。もう撮影する気分でもなくなっていたが、そうもいかない。後ろ髪を引かれつつ、樹里は頬を引き攣らせたまま足早に明日香のもとへ歩き始めた。


これが、のちに自分の人生に大きな影響を与えることになる小学生、神木かみき陽奈ひなとの最低最悪なファーストコンタクトだった。

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