第8話 いつでもこうしてあげますわ
「ありがとうございました。またお待ちしています」
焼きたてパンならではの、食欲をそそる香ばしい匂いが充満する店内に、少女の澄んだ声が響く。カウンター越しにお客を見送ったモアは、汗でずり落ちそうなメガネを指でスッと上げ「ふぅ」と小さく息を吐いた。
「モアー! もうそろそろ先生のとこへ行く時間でしょ? ここはもういいから準備なさい」
店の奥でパンを焼いていたモアの母親、ミーナが声を張る。
「うん。じゃあお店の外掃除してから行くね」
「いいよいいよ! 私がやっとくから」
「すぐ終わるし大丈夫だよ」
何か言いたげな母親を無視してカウンターを出たモアは、ホウキ片手にパタパタと店の外へ向かった。その様子を見てミーナがため息をつく。
お店の手伝いなんてしなくていいって言ってるのに……。
休日の午前中だけとはいえ、娘の貴重な時間を浪費させてしまうのは親として気が引けてしまう。
頑張り屋で学業の成績は優秀、自宅では率先して家事をこなし、母親が経営するパン屋の手伝いも自発的に行うモア。
まじめでしっかり者なのは母親として喜ばしい反面、娘がどこか無理しているのではないかとミーナは危惧していた。
ずっとあんな調子だと、いつかあの子、身も心も疲れきってしまうんじゃ……。娘の行く末を案じつつ、ミーナは高温になったオーブンの扉を開き焼きたてのパンを取り出した。
──雲一つない澄んだ青空のもと、リズ邸の庭では三人の弟子が真剣な表情で魔法の修行に励んでいた。
ユイは魔法陣の複数展開、メルは放った魔法の命中精度、そしてモアは魔力のコントロール。それぞれの課題に取り組む弟子たちをそばで観察しつつ、適宜リズが指導を行う。
「モア。何でもいいのであの的へ魔法を放ってみなさいな」
「は、はい!」
リズがスッと指さしたほうへ向き直ったモアが、目を閉じて魔力を練り始める。そして──
「『
顕現した風の刃が澄んだ空気を斬り裂きながら一直線に的へと向かう。直撃を食らった木製の的がスパッと切断され、ゆっくりと地面に落ちた。
「お見事ですわ。以前に比べてずいぶん魔法の精度もあがりましたわね」
「ありがとうございます!」
敬愛する師匠に成長を褒められ、モアの顔がパァッと明るくなる。
「ただ、モアはやはり魔力の出力調整が課題ですわね。ユイやメルよりも魔力の総量が少ないので、常に最大出力で魔法を放っているとあっという間に魔力切れを起こしてしまいますわ」
「は、はい……」
かすかに目を伏せるモアに優しい目を向けたリズは、そっとその頭を撫でた。
「気に病む必要はありませんの。魔力の出力調整も前に比べれば遥かに上達していますわ。焦らず、少しずつ前進しなさいな」
「はい!」
「ふふ。ではお茶にしましょう。ユイ、メル! 休憩しますわよ」
はーい、と元気に返事した弟子二人がお喋りしながら玄関へと向かう。リズも玄関へ足を向けるが──
「リズ先生。私、もう少しだけ練習しててもいいですか?」
モアの申し出にリズが苦笑する。彼女のこうした申し出は初めてのことではない。おとなしそうに見えて、実は誰よりも努力家で負けず嫌いな一面があるのをリズはよく理解している。
「かまいませんが、十分だけですわよ? あなた、放っておくといつまでも練習しますから。美味しいお菓子も作ってあるので、なるべく早めに切りあげていらっしゃいな」
「はい。ありがとうございます」
ぺこっと腰を折ったモアは、すぐさまブツブツと呟きながら魔力調整の練習に取り組み始める。玄関へと向かっていたリズが一度足を止め振り返る。真剣な眼差しで課題に取り組むモアの横顔を、リズはわずかなあいだじっと見つめた。
──休日の弟子たちはリズ邸で夕食をとることが多い。この日も、魔法の実技と魔法学の指導を受けたユイたち三人娘は、リズの手作り料理に舌鼓を打った。
「ごちそうさまでしたー!」
「美味しかったですリズ先生」
「控えめに言って最高」
満足げな表情の弟子たちを見てリズの頰が緩む。自分で作った料理を美味しそうに食べてもらえるのは嬉しいものですわね。この子たちがいなければ、このような気持ちになることもなかったのでしょうね。
「それはよかったですわ。片づけをしてから紅茶を淹れますので、あなた方はリビングでくつろいでいなさいな」
いつものようにユイとメルが「美味しかったー!」と言いあいながらパタパタとリビングへ向かう。一方モアは──
「リズ先生。私も片づけお手伝いします」
椅子から立ち上がったモアが、ユイたちの食器をカチャカチャと手際よく重ねてゆく。
「モア、あなたもリビングでくつろいでなさいな」
「いえ、お手伝いしたいので」
リズが小さく息を吐く。これもいつものことだ。お茶や食事のあと、ごくたまにユイやメルが手伝ってくれることもあるが、モアは毎回手伝いを申し出てくる。
「あなたは……本当にしっかり者なうえに働き者ですわね」
「え、えへへ……」
優しく頭を撫でられたモアが、照れたような笑みをこぼす。
「でも……少し気を張りすぎではありませんか?」
「え?」
「学業にも魔法の練習にも一生懸命。そのうえ自宅で家事、ミーナの店の手伝い、ここでも庭の掃除や食後のあと片づけ。何に対してもひたむきで頑張り屋さんなのは決して悪いことではありませんの。でも、それにしたってあなたの頑張りは少々度がすぎているように感じますわ」
「そ、それは……」
にわかに顔を曇らせたモアを、リズは紅い瞳でじっと見つめた。
「私には……ほかにとりえがないんです……」
「とりえがない?」
絞り出すように呟いたモアの顔は、痛みを堪えているかのように見えた。
「私は……ユイちゃんみたいに明るくないし度胸もなくて……メルちゃんみたいな魔法の才能もないんです……」
「……」
「だから……誰かに認めてもらうには、とにかく人一倍頑張らなきゃって……」
メガネの向こう側にある瞳に涙が浮かぶ。リズは優しくメガネをとると、ハンカチでそっと目元を拭った。
「モア……。とりえがない人などいませんの。あなたは誰よりも細かいところに気がつく観察力がありますし、友人を思いやれる優しい気持ちもあるじゃありませんか」
「先生……」
「それに、地道な努力を続ける根気もありますの。それは、成長するうえでもっとも大事な才能ですのよ」
声を押し殺してしゃくりあげるモアを抱きしめながら、リズは優しい声で言葉を紡ぐ。
「でも、頑張りすぎはよくありませんの。常に気を張り続けるあなたは体力も精神も相当疲弊しているはず。肉体的、精神的にギリギリの状態。いわば決壊寸前のダムですわ」
肩を震わせながら嗚咽するモアの背中を、リズは赤子をあやすようにトントンと手のひらで優しく叩く。
「せめて……私のそばにいるときくらいはもっと気楽にしなさいな。弟子はもっと師匠に甘えるものですわよ。そのほうが私としても嬉しいですわ」
張り詰めていた糸が切れたのか、ついにモアはワッと声をあげて泣き始めた。
しゃくりあげる声がリビングまで届いたらしく、驚いたユイとメルが慌ててやってきたが、リズが「しーっ」と人差し指を口の前に立てると、察したようにそっと戻っていった。
「好きなだけお泣きなさいな。そしていつでも甘えなさいな。私はあなたの師匠なのですから。いつでもこうして抱きしめてあげますわ」
頑張り屋な愛弟子を抱きしめたままリズが口を開く。敬愛する師匠の温もりと優しさを肌で感じながら、モアはしばらくのあいだ嗚咽し続けた。
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