第6話 あっという間ですの

森を抜けてやってきたやわらかな風が優しく頰を撫でてゆく。普段ならただただ心地よさを感じるだけの風が、今だけは少々忌々いまいましい。


「はい、お終いですわ」


リズ邸の庭。椅子に腰かけまっすぐ前を向くメルに、リズが背後から手鏡をわたした。


「ん。リズ先生は髪切るのも上手」


感情が窺えない表情のまま「うんうん」と頷くメルの様子に、リズが苦笑いを浮かべる。


「わっ。また風で飛ばされちゃった! モア、そっち!」


「はい! あ、あわわ……!」


メルの足もとに落ちている黄金色の髪の毛が、風にさらわれ芝生の上を這ってゆく。それをユイとモアが慌てた様子で追った。


「天気もいいので外のほうが気持ちいいと思ったのですが、失敗でしたわね」


メルのふんわりとしたブランドヘアを手櫛で整えつつ、リズが独りごちた。


「リズせんせ〜! 風強くなってきたよ〜!」


散らばる髪の毛を拾い集めていたユイの泣き言が庭に響く。少し離れたところへ飛ばされた髪の毛を拾いに行っていたのか、モアも肩で息をしていた。


「そうですわね。続きは家のなかにしましょう」


リズの言葉にほっとしたユイとモアが、拾った髪を入れた紙袋片手に戻ってくる。


「おー、メルいいじゃん!」


メルの顔を覗き込んだユイが感嘆の声を漏らした。モアも頷きながら「メルちゃん、かわいいです」と言っている。


「ユイにモア、紙袋を」


弟子たちが差し出した紙袋を右手と左手で受け取ったリズが、その手にわずかな魔力を込める。途端に紙袋がボワっと発火し、たちまち消し炭となった。


「わっ! やっぱリズせんせー凄い!」


「え、ええ。さすがリズ先生です」


「先生しか勝たん」


愛弟子たちからの素直な反応にリズの口元が綻んだ。ふふ、こんなこと何てことありませんのに。相変わらずかわいらしい子たちですこと。


「あなたたちも修行を続ければ、いずれはこんなこともできるようになるかもしれませんわね」


「ほんと!?」


「ええ。簡単な道ではないかもしれませんが……あなた方の努力がきっと実を結ぶときがきますわ」


師匠からの言葉に「よーし頑張るぞー」とやる気を漲らせるユイたちを引き連れ、リズは玄関へと向かった。


最初にモアを、次にメルの髪をカットしたので残るはユイ一人。リビングへ移動し、弟子たち用に入手したソファを少し動かし木製の小さな椅子を置く。


「さ、ユイ。お座りなさいな」


「はーい!」


元気に返事したユイが、ぴょんと跳ねるようにして椅子に腰をおろした。背後に立ったリズが、ポニーテールにまとめられたユイの髪をおろし手櫛を入れる。


「あなたも……ずいぶん髪が伸びましたわね」


「うーん、そうかなあ?」


首を捻るユイに「動くんじゃありません」と注意しつつ、モアが手渡してきたブラシでていねいにブラッシングしていく。


普段ポニーテールにしているためあまり気にならなかったが、おろすとかなり長い。艶々とした栗色の髪が腰のあたりまで伸びている。


両手でそっと掬うようにして栗色の髪を手に取ると、日ごろの手入れがいいからか、絹のようにサラサラとしたやわらかな髪はスルリとリズの小さな手からこぼれ落ちた。


「初めて会ったときに比べると、ずいぶん伸びましたわよ。あのときはこの半分くらいだった気がしますわ」


「そう、言われれば……?」


うーん、と記憶を辿ろうとするユイの頭を見おろしながら、リズはクスッと笑みをこぼした。


「……あなた方と出会って、もう一年くらい経ちますものね。髪も伸びて当然ですわね」


髪を適度な束にして優しく掴み、そっとハサミを入れていく。栗色の髪がパサっと床に落ちて広がった。


慣れた手つきでてきぱきとカットしながら、リズは弟子たちの成長に思いを馳せた。伸びたのは髪の毛だけではない。初めて出会ったときより明らかに身長も伸びている。


子どもの成長は早い。あと数年もすればもっと背は高くなり、体も丸みを帯びて女性らしく成長するだろう。


あっという間に、私は置いてけぼりですわね──


かわいい愛弟子たちの成長が楽しみな反面、一抹の寂しさも覚える。吸血鬼、しかも真祖に限りなく近い血族である自分はほぼ不老だ。


身長百五十センチ前後の華奢きゃしゃな体、幼く美しい顔立ち、ウェーブがかかったグレーの髪。自分の見た目はここ数百年ほとんど変化がない。


一方、人間であるユイやモア、メルたちはどんどん成長し外見も内面も変化を続けてゆく。まだ想像はできないが、彼女たちが老婆になったときも、私はこのままなのだろう。


ともに年を重ねられない寂しさ。自分は弟子たちが成長し、年老い、そして死にゆくのをただただ見送るだけ。


考えれば考えるほど言いようのない虚しさと寂しさが襲いかかってくる。


「ふぅ……」


リズの口から思わず漏れるため息。


「リズ先生、もしかしてお疲れなのでは……?」


少し目を伏せてため息をついたリズに、モアが心配そうな目を向ける。


「あ、いえ。違いますの」


「せんせー、どうしたのー?」


手が止まったことに気づいたユイも口を開く。


「……何でもありませんわ。ただ……あっという間ですわね、と思っただけですの」


「髪がのびたことー?」


リズの口元が綻び、くすりと笑みが漏れた。


「そう……ですわね」


胸のなかのジクッとした痛みを打ち消すかのように、リズは再びてきぱきと手を動かし始めた。



──二十分後。


「できましたわよ」


「ありがとうリズせんせー!」


鏡に映る自分を見たユイが元気に感謝の言葉を述べる。


「さて、片づけをして……って、何ですの??」


椅子を片づけ、床に落ちたユイの髪を掃除しようとするリズの両手に、モアとメルがしがみつく。


「先生も座ってください!」


「リズ先生にお礼したい」


リズが目をぱちくりとさせた。え、まさか私の髪を切ろうと? さすがにそれは……。いくらかわいい弟子とはいえ、目も当てられない見た目にされてはしばらく立ち直れそうにないですわ。


「髪を切ることはできないので、せめて先生の髪をブラッシングさせてください」


リズを椅子へ座らせながらモアが言う。その言葉にリズは密かに胸を撫でおろした。


「あたしら三人で順番にやりますね!」


「リズ先生はリラックスしててください」


「無問題」


愛弟子たちの優しい申し出に、胸の真ん中あたりがぽかぽかし始める。


「ふふ……。では、お願いしますわ」


リズは目を閉じ、弟子たちにされるがまま身を任せた。モアがツインテールのリボンを片側ずつ外すと、淡いグレーの髪がぱらりとほどけ広がる。


「やっぱり、リズ先生の髪とてもきれいです」


「そうでしょうか? あなたの艶やかな黒い髪に私は憧れますが」


「ええー、そうなんですか?」


「ええ……そもそも吸血鬼は黒髪が多いですしね」


「あ、そう言えばアンジェリカ様もそうですものね!」


アンジェリカとは、リズの従姉妹であり姉と慕う吸血鬼である。真祖の姫にして、世界中のあらゆる種族が恐怖の対象とする最強の吸血鬼。かつて単独でいくつもの国を滅ぼしたことから『国陥としの吸血姫』としておとぎ話で語り継がれている。


ときどきここへも遊びに来るため、ユイやモア、メルたちとも顔見知りだ。


「モア、変わって。次あったしー」


モアからブラシを受け取ったユイが、せっせと髪をといてゆく。粗野でやや暴力的なところがあるユイだが、ブラッシングする手つきはとてもていねいだとリズは感じた。


「じゃあ最後、メルね」


コクンと頷いたメルがブラシを受け取り、ややぎこちない手つきでブラッシングしていく。三人のなかでは一番髪が短いため、長い髪のブラッシングに慣れていないのだろう。


目を閉じたまま弟子たちの優しさに触れ、うっかり眠りそうになったリズがハッと顔をあげる。


「先生、寝てた?」


「え、ええ……。何だか、とても気持ちいいというか、落ち着いてしまって」


「ふふ。それは私の手腕。ユイやモアとは違う」


かすかに口角を吊り上げたメルに、ユイとモアがぶーぶー言い始める。かしましい三人娘だが、それすらもリズは愛おしいと感じていた。


「三人とも上手ですわよ。弟子たちにこんなことしてもらえるなんて、私は果報者ですわ」


ふふ、とリズの頰が緩む。


「じゃあ、私たちでずっと先生の髪、ブラッシングする」


「……そうですわね。でも、これからあなたたちは大人へと成長していく。ずっと、というのは──」


「ずっとやる」


リズの言葉を遮るようにメルが口を挟む。


「そうだよ、先生! あたしら、大人になっても、お婆ちゃんになっても、ずっと先生の弟子だもん! だから、メルの言う通りずっとあたしらがブラッシングするの!」


「私も同意見です。ずっと、リズ先生のそばにいます」


リズの肩がかすかに震える。涙腺が崩壊しそうなのを、リズは何とか気合いで我慢した。今すぐに全員まとめてぎゅーっと力強く抱きしめたい。そんな衝動に駆られた。


「……嬉しいですわ。やっぱり、あなた方は私にとって最高の弟子たちですの……」


胸に込みあげるものを堪えつつ、リズはやっとの思いで言葉を紡いだ。

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