第3話

「お姉ちゃんは、ピアノ、好き?」


 いつの間にか、私の右隣に、5歳か6歳くらいに見える少年が、ちょこんと腰掛けていた。あの時の私が“まとも”な状態だったなら、夜更けに、こんな小さな子どもがひとりでいることに対し、疑問を持ったに違いない。しかし、“夢”と“現”の区別すらつかなかった私は、そのことに対して、何の疑心も抱かなかった。


「昔は大好きだったけど、今は大嫌いになってしまったの……」


 少年の質問に素直に答えると、星明かりに照らされた少年の表情が、見る見る間に曇っていくのがわかった。


「どうして?」


 少年は、穢れを知らない澄んだ瞳を潤ませて、私に問うた。


「どうして……って……君にはわからないでしょう? 私の苦しみなんて!」


 私は、子ども相手にムキになって声を荒げた。少年の純真さが鬱陶しかったのだ。“神童”と持て囃された幼少期。私は、ピアノを弾くことが大好きだった。皆が、私のピアノを褒めてくれた。皆が、私のピアノを聴いて笑顔になった。


 年齢が上がるにつれて、私は“神童”と呼ばれなくなった。世の中には、私より上手い子がごまんといて、気付けば、私は、その子たちの引き立て役へと成り下がっていた。悔しくて、悔しくて、それこそ、気が狂うほどに必死に練習をした。でも、練習すればするほど、私のピアノの音色は濁り、心は澱んでいった。もう、どうしたら良いかわからなくなってしまった。


「うん……ぼくには、お姉ちゃんの苦しみはわからないよ。でも、お姉ちゃんも、ぼくの苦しみなんてわからないでしょう?」


「そうね。わからないわ」


 ガキが、何、いっちょまえの口を利いてるんだろうと思った。

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