第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(6)
無茶苦茶に歩いた。知らないほうを選んで角を曲がり続け、やがて見覚えのない場所に出て膝に手をついた。
「お迎えに上がりました、皆川まりあ様」
正面に向き直ると、どこかで見たことのある老執事が立っていた。撫でつけられた白髪がきれいだなとぼんやりしていると、その下の青い瞳が優しく笑う。
「私を迎えに来てくれる人なんて、いないはずですよ。少なくともこの22年間はそうでした」
「おや、それでは今日は節目の日ですね。さあ、お手をどうぞ。おいしいお菓子の館まで、エスコートさせていただきます」
軽く曲げられた彼の腕に、内側から控えめに手を回す。
霧がかかったような頭で、なんでこんなことをしているんだっけと考えているうちに、かわいらしい洋館が現れた。
白雪のようなハゴロモジャスミンが咲き乱れるガーデンアーチをくぐると、日常が艶めかしい芳香に洗い流されていく。
道すがらデュボワと名乗った執事さんは、扉を開けたところで丁寧にお辞儀をした。
「改めましてようこそいらっしゃいました、皆川まりあ様。今宵、『ティーサロン・フォスフォレッセンス』にお越しいただき、誠にありがとうございます。
皆川様のためだけに心を込めてお作りしたスイーツとドリンクで、心ゆくまでおくつろぎください」
狐につままれた気分で室内に進み、まあ、と感嘆の声を上げる。
木の床はしっとりとキャンドルの光を照り返し、落ち着いたグリーンの壁紙には花や蝶が舞っている。カウンターは焼き菓子やケーキの飾り棚になっているらしく、目にもおいしい景色が広がっていた。
「こんなに素敵なティーサロンがあっただなんて、全然知らなかった。もっと早く来られたらよかった」
デュボワさんがにこやかに口ひげを揺らす。
「何ごとにもふさわしい時がありますから。しかし、22年はあまりに長い月日でしたね。お疲れ様でした。
さあ、喜びの未来のために過去を労いましょう。祝宴の始まりです」
大きな手のひらが向けられた先には、半個室のような空間があった。そちらに向かって3段だけの階段を上がり、立ち尽くす。
テーブルの奥の大窓から、爛漫の百合の庭が見渡せたのだ。降ってくる藍色の空と去りゆく陽が、百合の白肌を物憂げに染めている。
椅子を引かれ、真っ白なクロスのかかったテーブルに着きながら言う。
「最高の贅沢ですね。私、お花が好きなんです」
「それはよかった。ならば、今日のメニューもお喜びくださるはず」
銀の盆からサーブされたのは、しゅわしゅわと炭酸がはじける涼し気な飲み物だった。
テーブルの上のキャンドルの灯りを受けて、金色のソーダ水がきらきらと輝いている。縁に飾られたレモンの輪切りがかわいい。
「こちらは、エルダーフラワーのハーブコーディアルです」
聞いたことのない言葉が続いて、えっ? と口をつく。
「西洋ニワトコをお砂糖と一緒に煮詰めて作った花汁のシロップを、本日はソーダで割ってみました。たくさん歩かれて、喉が乾いていらっしゃるのでは?」
西洋ニワトコ! あじさいのような形に群れて咲く、あの小さくて愛らしい白い花々がこんなおしゃれな飲み物になるなんて。
驚いたし、グラスから透ける美しい金色をもっと見つめていたい気持ちはあるが、確かに喉がからからだ。
そぞろにいただきますを言い、ストローに口をつけた。
グラスからふんわりとレモンが香ったあとに、冷たいソーダ水が口内に染みわたる。
ぱちぱちとはじける楽しさとともに、マスカットのような爽やかな風味が鼻の奥に抜けていった。
「おいしい!」
夏休みにカルピスを飲んだ小学生みたいな勢いで言ってしまって、デュボワさんがこらえるように笑う。
「それ以上に我々の喜びとなる言葉はございません。ありがとうございます。きっと、当店のパティシエも裏で小躍りしていることでしょう」
デュボワさんいわく、ハーブコーディアルはイギリスで「庶民の薬箱」として重宝されてきた伝統的な飲み物なのだそうだ。
優しい香りにはリラックス効果があるし、風邪の予防やアレルギーにもいいという。
「おいしくて心も体も健康になれるだなんて、一挙両得ですね。今の私には……どちらも必要でした」
2カ月も放っておかれた本と子宮に宿る3センチの影を思って、胸がぎゅっとした。
「心の健康も体の健康も、必ず叶います。皆川様はそのために当店にいらっしゃったのですから」
凪いだ海のような瞳でデュボワさんがそう言ってくれて、急に息がしやすくなった。
必ず叶う。本当にそうだったらいい。
私だけじゃなく、すべての寂しくて虚しくて何も叶わなかったと思っている女性たちの幸せが、叶えられたら。
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