第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(5)

 大学病院の診察室には、なんと4人もの医者が控えていた。そのうちひとりは研修医だが、残りの3名は何やら偉い人だという。


 主治医らしい五十絡みの男性医師が、難しい顔で切り出した。


「先月頃からなのですが、婦人科検診を受けた女性の子宮に、謎の影が見つかるケースが報告されるようになったんです。普通なら筋腫と判断するところですが、形に特徴がありまして」


「形」と繰り返すと、医者が頷く。


「百合の球根のような形をしているんです。それだけならば、そう見える筋腫もあるさと言えるのですが、なんと根っこのようなものが生えていて、それが子宮と癒着しているんです。

 まるで、子宮に根を下ろしているかのような姿で、だんだんと大きくなっていく」


 思わず肌が粟立った。根っこがあるものが子宮に生えているだなんて、まるで、別の星の生き物が寄生しているようじゃないの。


「つまり、腫瘍のようなものなんですよね? すぐに手術してください」


 医者が首を横に振る。


「それが不思議なんです。開腹してみると、腫瘍なんてないんです。どこにもないんですよ。エコーには映るのに、確かにそこにあるはずなのに、我々の目には見えないし触れられないんです」


 気づけば世界が回転していた。皆川さん、皆川さん、とおそらくは何度目かの呼びかけに応えると、「ご家族はこちらにいらっしゃっていますか?」と聞かれた。


 要領を得ない顔をしていると、医師は「ご主人がいらっしゃっているようでしたら、私のほうから説明をしますが」と続けた。


「いえ、あの、夫は、忙しくて——」


 言い訳のようにつぶやき、そそくさと診察室を出た。夫に付き添ってもらうなんて、思いつきもしなかった。

 大学病院での病気の告知は、考えてみたらなかなかヘビーなことのように思える。付き添いくらい、頼んでもよかったのかもしれない。


 その夜、私の腹に宿った新種の奇病について、夫に話をした。

 自覚症状はないこと、腫瘍は徐々に大きくなっていくこと、しかし手術はできないこと、先行症例がないわけではないが、発見時期が私とさほど変わらないので今後どうなるのかは未知数だということ、なんかを淡々と説明した。

 夫は終始神妙な面持ちで聞いていた。


 リビングのマガジンラックの底には、相変わらずあの闘病エッセイが沈んでいる。もちろん、しおりはもくじをマークしたままだ。

 しんとした部屋に取り残された孤独な本を思い浮かべながら、夜は更けていった。


***


「また大きくなっていますね」


 そう言う医師の声には恐怖が滲んでいた。


 私の子宮に宿った謎の影は、医師の間では「百合状腫瘍」と呼ばれることになったらしい。

 ただ、それを聞いても「だから何」と思うほかない。


 腫瘍は育ち続け、見ることも触れることもできないというあまりに突飛な事実のからくりはわからず、対策の打ちようもない。

 国指定の難病に認定されているわけでもないから、今の時点でなんらかの補助が下りることもない。2週間に1度検査をすることになっているが、経膣エコーを頻繁に受けるのは苦痛だ。


 そして何より、夫は未だに闘病記を読んでくれていなかった。

「読んだ?」と聞くたびに、「読んでないよ(でも必ず読むよ、俺が支えるよ)」と悪気のなさそうな口調で返ってくる。

 私を20年以上も苦しめてきた遅効性の毒、その正体がそこにちらつく。


 沈黙が気詰まりだったのか、主治医が冗談ぽく言った。


「今3センチほどですから、これが妊娠だったら約10週あたりなんですけどねぇ」


 思わず息を呑んだ。奥底に押し留めていた感情が、ぐらっとした。

 けれど、口から出た言葉は「先生ったら」で、顔に浮かんだのは愛想笑いだった。セクハラをかわし続けた後遺症のようだった。


 薄水色の空に茜が差す帰り道、この3センチが本当に子どもだったら、と馬鹿な夢想をして頬に涙を伝わせていた。


 子どもがいたら、どんな人生を送っていただろう。20年なんてあっという間だっただろうな。

 睡眠不足で、今よりくたくただっただろうな。かわいい時期は忙殺のうちに過ぎ、憎たらしく思う瞬間が増え、だけど、ただ、今とは違う暮らしをしていた。


 しばらく駅のホームで休んで帰ったから、すでに夫は帰宅していた。ソファにごろんと横になり、テレビを観ている。

 ただいまを言おうとした瞬間、あの闘病記が床に転がっているのが目に入った。

 私がこれを買ったのはもう2カ月も前だ。しおりの位置は変わっていない。


 どっと疲れが襲った。そして、嫌というほど身に沁みた。

 自分を顧みてくれない人間と暮らすのが、どんなに心を削るかが。


 つかつかと進み出てテレビを消し、手にした本を夫に投げつけた。角が額に命中し、夫が「いて……」と情けない声を上げて顔を覆う。

 そのまま何も言わない。イモムシのように丸まってやり過ごそうとする姿勢に、猛烈な怒りが込み上げた。


「痛い? 何が? 勝手に容姿に期待されてブスと蔑まれたこともなければ、ダイエットをしたこともない、一生皺やたるみを気にする必要もない。痴漢に遭ったことも、セクハラに遭ったこともない。

 お金さえ許せば大学に行かせてもらえて、パンプスを履いたことも、真冬にストッキングとスカートで街を駆けずり回ったことも、就活で結婚や妊娠について聞かれたこともない! 

 子どもができなくて親に泣かれたこともない! それを運がよかったと思うこともない、あたりまえだと思っているくせに、何が痛いっていうのよ!!!」


 言い捨てるなり家を出た。

 怒りは血のにおいがするのだと、初めて知った。


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