第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(4)

***


 夢を見た。百合がひしめき合う庭に、私はひとり、立ち尽くしていた。

 ひどく寂しいけれど、それはとてもまっとうな寂しさに思えた。定められた場所に来た、そう思った。


「長らくお待たせいたしました、永久とこしえの乙女よ」


 驚いて振り向くと、白髪を月光に染めた素敵な紳士が立っていた。貴族のお屋敷の執事のような出で立ちをしている。


「改めまして、皆川まりあ様。ご予約をいただき、誠にありがとうございます。気高き計画に選ばれた、今のご気分はいかがですか?」 


 何を問われているかよくわからないが、今は夢の中だから。


「寂しい——すごく寂しくて、悲しくて、静かで、とても美しい気持ちです」


 老紳士はまろやかな笑みを浮かべて頷いた。


「結構なことです。覚えておいてください、皆川様。あなたのその寂しさと悲しみは、人生があなたに与えた贈り物であるということを。

 そして、その重みに押しつぶされそうなときにも、我々はあなたの味方でいるということを」


 やっぱり何を言われているのか理解できないが、なんだか照れてしまって、微笑まずにいられない。

 紳士は「では、決まりですので失礼をば」とひざまずくと、いつの間に手にしたのか、一輪の百合の花を差し出した。


「おめでとう、恵まれた方よ。新しき世の乙女が、あなたと共におられる」


 淡く光る花を受け取った瞬間、目が覚めた。寂しさの余韻が甘く胸に残っていた。


***


 子宮の影のことを夫に話してから、3日、4日と過ぎていったが、エッセイを読んでいる様子はなかった。


 平日、仕事をしたあとの読書が億劫なのはわかるから、私は何も言わなかった。土曜日は1週間の疲れを癒やすためにだらだらと過ごしたいだろうし、やはり口を出さなかった。


 日曜の夕方に「本は読んでくれた?」と聞いてみたら、「これから読もうとしていたところだよ。俺がまりあを支えなきゃな」と返ってきて、夏休みに子どもの宿題を急かすお母さんみたいなことをしてしまったな、と反省した。


 社会に通用しなかったうえに、子どもをもうけることもできなかった私を、夫はずっと支えてきてくれた。感謝している。信じよう、と思った。


 火曜日、検査結果を聞きに婦人科を再訪すると、医者は「まずは安心してください」と言った。それだけで、ほっとして涙が溢れそうになった。


「がんではありませんでした。その点では安心です。ただ」


 あとが続こうとも、がん以上に怖い病気はそうそうないだろう。闘病記を夫に読ませようとするなんて、先回りしすぎたかもしれない。

 しかし、医者の深刻そうな様子は変わらなかった。


「新種の、病変の可能性が非常に高いと言わざるを得ません。最近、婦人科学会でこのような症例が報告されたばかりなんです。大学病院に紹介状を書きますので、すぐに電話して予約を——」


***


 帰宅すると、テレビのローテーブルの下に、件のエッセイが落ちていることに気づいた。見ればしおりが挟まれている。

 それ自体は夫が読んでくれている印だが、その位置に猛烈な怒りが湧いた。なんと、もくじのページだったのだ。


 本を閉じて深呼吸をする。

 夫は私より15も年上の62歳、定年後も再雇用で働いてくれていて、毎日疲れている。晩酌をしながらテレビを見るのが趣味で、本を読んでいるところなんて見たことがない。

 それにこの1週間、別に私に重病の診断が下ったわけでもなかった。がんを含めて、病気の可能性がある、というだけだった。


 だから、エッセイを読んでいなくても仕方がない。夫は温厚で優しい人で、喧嘩をしたことがない。

 普段無口だけど、大切なことは言ってくれる人で、今回だって「サポートする、支える」という一番欲しい言葉をくれた。大丈夫、あの人は疲れているだけなんだから。


 夜、夫に診断結果を話した。


「この闘病記はがんのものだけど、患者がたどる心理や家族の対応なんかは、きっとあなたにも参考になると思うの。疲れているのに申し訳ないんだけど、文章も簡単だから……」


「わかったよ、心配しないで。必ず読むから」


 けれどその晩、やっぱり夫は本に手をつけなかった。

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