第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(2)

 運がよかった。

 女なのに東京の大学に行かせてもらい、ロスジェネ世代なのに正社員として就職した。


 頭がよくても、気立てがよくても、素敵な才能や個性があっても、「ブス」と言われたらなんの意味もなさない地元に帰らなくてよかった。


 中学の昼休みには、一軍の男子たちが大声で「◯◯さんかわいー」「●●さんヤらせてー」と叫んでは女子の反応をおもしろがっていた。

 反対に容姿の振るわない子の話をしているらしいときには、彼らは声を潜め、忍び笑いを繰り返した。


 その間、そんなことに気づいてもいない振りをしながら、うつむいて過ごした惨めさを昨日のことのように思い出す。

 あの土地には、学校の外にもそういう雰囲気がうっすらと蔓延していた。


 本当に運がよかったのか、そもそもこんな時代やら社会やらじゃなかったら、地方に生まれなかったら、女じゃなかったら、なんてことは考えないようにした。


 25歳のときに親友が結婚し、強制参加のブーケトスでもらった花束を抱えて電車に揺られながら、ふと思った。結婚しよう。


 母からの執拗な電話攻撃に疲れきっていたし、女子社員だけ30分早く出社して全員分の机を拭いて、休憩室の掃除と朝のお茶入れをしなければならない謎ルールに愛想が尽きたところだった。


 永遠に給与が上がらないことも悟ったし、何より、会社が肩叩きの目配せをしてくるようになっていた。職場の花にはなれない、そろそろ若くない、仕事の核心にはかかわらせてもらえないから使えない。


「女は股を開いて仕事しろってことよね」という、かつての先輩が言った台詞が頭の中でぐるぐるしていた。


***


 東京出身の人と結婚する。それだけを条件にお見合いをしたつもりだったけど、やっぱり私は運がよかった。


 出会った彼はずんぐりむっくりしていて、15も年上だったけど、優しい人だった。穏やかで無口で、つまり無害。

 中学のときの男子たちとは違う! 会社のセクハラ親父とも違う!

 そんなあたりまえのことが涙が出るほどうれしかった。寿退社の際には、皆心にもない祝辞で見送ってくれた。


 あんなにも悲壮な決意で「しがみついてやる」と思っていたものは、なんだったのだろう。

 地元を出たい一心で勉強し、理不尽な就職活動を勝ち抜き、セクハラに耐え、雑用ばかりこなした果てに、何を得たというのだろう。


 お小遣い程度の退職金と受給した失業保険を、新しく作った銀行口座に振り替えながら、「私が得たもの」のちっぽけさをまざまざと突きつけられた。


 結婚生活は順風満帆だった。公務員の彼は真面目で、相変わらず優しかった。

 私は思いのほか専業主婦が向いていて、炊事も家計の管理も苦じゃなかった。けれど、1年、2年、そして3年が経ったところで、待ち望んでいた知らせはなかった。

 夫には相談せず、意を決してひとりで婦人科に行き、不妊症と診断された。


 主婦業は嫌いじゃない。だけど、自分は孤独が苦手なタイプなのだということに、こうなってみて初めて気づいた。

 同時に、現実離れした癒やしを子どもに期待していたことも認めざるを得なかった。


 自分の孤独は自分で引き受けよう。観念したら、少し自分を好きになれた気がした。


 子持ちの友達が増え、彼女らとだんだんと距離ができてきた頃、喫茶店でひとり、コーヒーを飲む贅沢を覚えた。

 若い頃は、ひとりで飲食店に入ると他人の視線が気になって落ち着かなかったから、歳を取るのも悪くない。


 夫に不妊症を告白したのは、診断から1カ月後のことだった。

 彼は、僕は別にいいよ、と言ってくれた。何が原因なのかとか、治療可能なのかなんてことは、聞かれなかった。私に負担をかけまいとしてくれているのだろう。その淡白さが、ありがたいと思った。


 お姑さんには泣かれてしまった。私の母は絶句し、慎二さんに申し訳ない、と言った。


 慎二さんこと優しくてかわいそうな夫は、特段変わった様子もなく、ただ穏やかだった。


 光陰こういん矢のごとしとは言うけれど、代わり映えしない二十余年は、私にとっては遅効性の毒のようなものだった。

 カフェにひとりで行くのにも慣れたのに、夫はいい人なのに、内側を侵食していく虚しさにときどき嗚咽が漏れた。

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