第5話 ハーブコーディアルと百合根のあんを添えたお花畑のパンケーキ(1)

 鏡台の前で、頬を持ち上げてみる。口もとの影がなくなって、若かった頃の面影が鏡の中に現れる。

 結婚を考え始めたあの頃、私は25歳だった。


 今考えると、若いどころか小娘もいいところといった歳に思えるのに、田舎の母は電話をかけてきては


「そろそろ結婚は? お母さんの頃はね、女はクリスマスケーキ、25歳までに結婚しないと売れ残りって言われたものよ」

「同じ町内のあんたの同級生の、佐原さん。あの子ももう結婚したのよ。ブスだったのにねえ」


 とまくし立てた。


「東京に出したのも、女なのに大学に行かせたのも間違いだった。理屈ばっかり言ってかわいげがなくなって、そりゃ結婚できないわけだ」


 と言われたときにはさすがに堪えたけれど、女の子のことを気軽にブス呼ばわりするのも、学をつけることをまるで悪知恵や屁理屈を身につけるように言うのも、あの頃の私の地元では普通のことだった。


 だから、上京してから私と同じような容姿の女の子が、同級生の男の子たちとフランクに喋っているのを見たときには心底驚いた。


「ああいうの、いいんだ!?」


 思わずそう口にした私に、隣にいた友達が怪訝な顔で「何が?」と聞く。

「だって、ブスなのに」と言ったら軽蔑されるだろうとはっとして、「なんでもない」と首を横に振った。


 OIOIマルイが読めなかったときや、池袋の地下から出られなくて泣きそうになったときなんかが比べものにならないほど、自分は田舎者なんだ、と痛感した瞬間だった。

 同時に「ぱっとしない私も、異性やかわいい女の子に普通に話しかけていいんだ。東京では」と気がついた。

 笑ってしまうほど痛々しい、だけど切実な発見だった。


 ロスジェネと呼ばれる世代である私たちの就活には、よりどりみどりの可能性も輝く未来も最初からなかった。こと、女子学生に状況は厳しかった。


「女が正規職に就くには、大学を出たあとに親にお金を出してもらって専門学校に通って、資格を取るのが一番いい。私はそうするつもり」と言ったのは東京近郊の町医者の子で、普通のサラリーマン家庭の地方組は黙り込んでしまった。


 東京の冬は寒い。ビル風は身を切るように鋭く、リクルートスーツのスカートから覗く脚を守るには、ストッキングはあまりに無力だ。


 慣れないヒールでかかとから血を流し、「働くより地元に帰って結婚なさったら」「入社する気があるなら、絶対に妊娠しないと約束してください」と面接官に言われては、心からも流血する。


 私のほうがずっと成績がよかったはずなのに、男子生徒は次々内定をもらっていく。

「私は私なりに頑張ってきた」というなけなしの自尊心が、最後の薄皮まで剥がされていくようだった。


 それでも、私は運がいいほうだった。最終的に介護用品のレンタルサービス会社に、正社員で就職できた。

 会社の宴席で「ささ、女性は部長の隣に」と促されるのになんとも言えない気持ち悪さを感じても、断る権利はない。腰に回される手からやんわりと体をねじって逃げるが、結局いたちごっこ。

 タバコの副流煙に目を赤くしながら、談笑し続ける以外の選択肢もない。


 でも、私は運がよかったのだ。だから、なんとしてでもこの小舟にしがみつかねばならない。

 少なくない数の友達は、海の底に沈んでいってしまったのだから。


 ある日の昼休みのことだった。テレビのワイドショーが流れる休憩室で、先輩とふたりきりでお弁当を食べていたところ、彼女が言った。


「女は股を開いて仕事しろってことよね」


 怒りに満ちた声になんと返していいかわからず、はあ、と生返事で相槌を打つ。日々、純粋な業務以外のところで過剰に疲れていたせいか、共感力みたいなものが殺がれていたのかもしれない。


 私のリアクションに充分ないたわりを感じられなかったせいか、先輩はそれ以降もくもくと食べ続けてひと言も喋らなかった。

 彼女が会社を辞めたのは、その1カ月後のことだった。

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