【番外編】セノイによる福音書外伝 菫のバレンタイン・カップチョコレート(2)
***
「ひと息入れませんか? セノイ」
はっとした様子で振り返った赤い瞳が、コーヒーカップを手にする老執事をとらえて緩む。
「お気遣いをどうも、デュボワ」
とセノイは猫脚のカフェテーブルの上を片付け、向かいの椅子を少し引いた。席を勧められたデュボワは、コーヒーを給仕して腰かける。
まだ2月だというのに、うららかな陽気が春を思わせる。すこんと抜けるように青い空の下、ティーサロン・フォスフォレッセンスの執事である彼らは裏庭にいた。
もちろん、店の半個室から見えるあの百合園だ。
「熱心に執筆していましたね。新世界の聖書、ですか」
セノイは肩をすくめ、右目の涙ぼくろを指先でひと撫でしながら言う。
「そんな大層なものでは。まあ、いずれ聖書外典のプロットにでもなれば御の字ですね。読みます?」
「光栄です、先生」
デュボワの軽口に、セノイはまんざらでもなさそうに頷いた。デュボワが革張りの表紙をめくると、ヘブライ語で綴られた世界再編の神話が立ち表れる。
おとぎ話風ではあるが、旧人類が読めば目を白黒させるに違いない。あるいは、馬鹿げていると笑うだろうか。
ちらりと目を上げると、口にはしないが明らかに感想を期待している面持ちのセノイと目が合う。白い頬はかすかに紅潮し、鼻の穴は心持ち膨らんでいる。
特に天界から用名があったわけでもないのに、自主的に物語を書きつけ、自信ありげに差し出してくる。しかも、「新たな聖書ですか」という冗談に、謙遜しているつもりで「聖書外典のプロットにでもなれば」と返してくる。
デュボワはセノイのこういう一面を、大変好ましく思っていた。
「とてもエキサイティングですね。歴史書であることを忘れてのめり込みましたよ」
ご満悦もいいところといった表情で、セノイが再び涙ぼくろをこする。
「天界のお
情け深いというよりこれでは、という言葉を飲み込み、デュボワが応える。
「そうですね、ええ。ただほんの少し、刺激的すぎるような気もしますが」
「神に背いたとか、イブを誘惑した魔女、とかがですか? 実際に人の世に伝わっている伝承ですが、確かに、私だってひどい言いがかりだと憤慨しております。
しかし、ここはあえてそれを逆手に取りまして、初めにヒール感を出しておくことで、後にリリス様という方の真実を知ったときに訪れる感動を何倍にも高める演出でして」
「ええ、ええ。わかっていますよ、セノイ。まあその、そこもですが——」
「いいですか? お聞きください」
本を奪い返したセノイは咳払いをし、立ち上がって朗々と読み上げはじめた。
「やがて滅びゆく旧人類を悼んで、慈しみ深いリリスは言いました。
『イブ、あなたの子らの傷を、美しい花に変えて後の世に伝えましょう。弔いの博物館を作りましょう。
あなたから産まれた女たちの、誰にも顧みられなかった苦しみと、日々の暮らしに埋もれてしまう密やかな傷が、白百合の花として遺されるように。
語られなかった痛みも、ないものとされた苦悶も、確かにあったのだと私たちが証人になれるように』」
セノイが静かに本を閉じた。神聖なものを優しく閉じ込めるような、儀式めいた所作だった。
デュボワは、ぱち、ぱち、ぱち、と緩やかな拍手で応える。
「ブラボー、セノイ。傑作です、心に染みました。何より、この仕事に就く誇りを再確認できた。あなたのおかげです」
満足気に鼻から息を吐くと、セノイは再び腰を下ろした。コーヒーを口に運び、デュボワに悟られぬようにと興奮を鎮める。
そのままふたりで、満開の百合の群れを眺めた。
フォスフォレッセンスに訪れた客たちの傷は、小さな白百合としてこの世に
夢とうつつのあわいに咲く、その淡い光を湛えた花を、いつか新世界に連れて行くために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます