第36話 ラスト・スクール・ホワイトクリスマス2

 場所を変えて、大学の学食のテーブルに僕と堀田さんは腰を落ち着けた。周囲に人の数は少ない。クリスマスの日に大学でのんびりと時間を過ごす理由がないからだと思う。

 互いに探るような視線を交わし、口を開いたのは堀田さんの方だった。

「えーと、久しぶり?」

「一年ぶりかな。去年の成人式で少しだけ話したし」

 堀田真帆。中学一年と三年で同じクラスになった女子。そして特筆すべきは、夏木の友人であり、陸上部員だったことだろうか。

「ああ、そっか。そういえば成人式には雪村くんも来てたね」

「うん。意外と出席者が少なくて驚いたよ」

「あー、そういえばそうね。わたしも友人の何人かが来なくて残念だったわ。数少ない振袖を着る機会だったのにね」

 頬杖を突きながらぼやく堀田さんに、僕は苦笑をうかべながらうなずきを返した。

 去年、二十歳になる僕たちは母校の中学校で成人式を迎えた。近くの中学と三校まとめて開催だったこともあって参加者数自体は多かったものの、母校卒業生は意外と少なく、多分卒業生の三分の二ほどしか出席していなかったように思う。それが多いか少ないかは比較対象がないからわからないけれど、専門学校に通う二年生の友人はすでに就職先での準備に追われていたりして来られず、会えない人も多かった。

「堀田さんもすごく着飾ってたよね。きれいだったよ」

「はいはい。きれいな振袖だったでしょ。ってか雪村くんてこんなタイプだったっけ?もしかして口説いてるとか?」

「まさか。振袖がきれいだったって意味で受け取っておいて」

 どこか疑いの視線を向けられ、居心地の悪さに座り心地を確かめる。腰の落ち着く場所を探る僕をじっと見つめていた彼女は、呆れのような吐息を漏らして頬杖を突く。

「ふーん。まあいいや。雪村くんって由利一筋だったもんね」

 そこまで言って、堀田さんは途端に顔を暗くした。多分、夏木と板垣君が付き合い始めたことを思い出したのだろう。それももう、ずいぶん昔のこと。

「気にしないで。もう七年近く前のことだよ」

「そう言うわりに顔がこわばってるけど?」

 言われて、僕は慌てて口を押えた。こわばって、いたのだろうか。分からない。

 けれど久しく会っていなかった堀田さんにまでそう言われてしまうということは、かなりはっきりと顔に出ていたということなのだと思う。

「もしかして、まだ由利が好きだとか?」

「……どう、だろうなぁ」

「誤魔化したね?……まあ、わたしに話すのも違うか」

 別に誤魔化してはいなかった。ただ、わからなかっただけだった。僕は本当に、今でも夏木のことが好きなのだろうか。最近、夏木のことをあまり思い出さなくなってきた。それはたぶん、ようやく僕が初恋の傷を忘れつつあるということで。

 その、はずなのに。こうして夏木のことを思い出せば、やっぱり僕の心臓は痛んだ。

 その痛みを、気のせいだと言い聞かせる。

「それより、驚いたよ。まさか堀田さんが同じ大学に通ってるなんて知らなかった。よく今まで気づかなかったものだよね」

「まあそんなものじゃない?それなりに広いし、学生の数も多いでしょ。特に学部が違えば交流も少なくなるし、普通よ、普通」

 ひらひらと手を振る堀田さんは、中学時代のイメージとは少し違って見えた。

 まあ、それが当然なのだ。中学を卒業してからもう六年。それだけ経てば人は変わる。

 だから、いつまでも過去を引きずっている僕の方がおかしい。

「それに、驚いたっていうのはわたしのセリフよ。雪村ってもっと頭良くなかった?てっきり公立のいい大学行ってるものだと思ってたよ」

「別に。ここもいい大学だと思うよ。それに成績だってそこまでよかったわけじゃないし」

「嘘。中学時代に学年一位を取ったことくらい、わたしだって知ってるのよ」

「それは外部模試で偶然だし……って、どうして知ってるの?堀田さんに話したことなかったよね?」

「ああ、由利から聞いたの。『俊介が学年一位を取ったんだって!』って楽しそうに話してたからさ」

 楽しそうに、か。思わず漏れた苦笑を、手で覆い隠す。

 時々、僕には夏木がわからなくなる。夏木にとって、僕はただの友人だ。幼稚園からの知り合い、という気の置けない関係に思っているだけかもしれない。けれどその言動が、どうにも僕を誤解させようとするのだ。

 夏木由利は、僕のことが好きなんじゃないか――って。

 ううん、わかっているんだ。夏木にとって、僕はただの昔馴染み。友人。夏木が好きなのは、板垣君。

「そっか。……まあ大学受験は公立に落ちたからね」

 本当は一浪した上で私立大学に入ることになったのだけれど、それをいう気にはならなかった。自分のみじめさを示すようで、嫌だから。

 堀田さんもまた、そこに何か隠されているものを見出しはせず、そんなものか、なんていう風に吐息を漏らす。

「そう。あ、とはいえ今はチャンスよ。由利、今彼氏いないみたいだし」

 どこかいたずらめいた笑みで告げられた言葉に、僕の思考は止まった。

 一体どれくらい呆然としていたのだろうか。

「おーい?」

 ひらひらと、堀田さんが僕の目の前で手をふっているのに気づいて、意識が現実に戻る。

「あ、うん。なんでもない。……夏木は、板垣君とは別れたんだ」

 心臓が激しく鼓動を刻んでいた。

 チャンス――言葉が、ぐるぐると頭の中で回る。

「そ。報告を聞いたのは高校三年の時だったかな。進路について話していた時に、ふと板垣くんの話になってね。別れたから板垣くんの進路は知らないって、そう言ってたわ」

 プラカップの紅茶を飲みながら、薄情者よね、なんて堀田さんは告げて見せる。

「そっか。そっかぁ……」

 果たして僕は何を言うべきだったのか。分からなかった。ただ、いたずらめいた光を帯びた堀田さんの視線から逃れるように、僕もコーヒーに口をつけた。

 考える。

 夏木は、好きな相手だというバイアスを抜きにしても、間違いなく美人といえる。高校時代に一瞬見た時にも思ったけれど、成人式の日に見た彼女はとてもじゃないけれど近づけない神聖さすら感じるような美人になっていた。

 楽しそうに微笑む彼女の笑みを思い出しながら、僕は首をひねった。

「あれ?でも成人式の日にも、夏木はずっと板垣君と一緒にいたよね?」

「……そうね。まあ別れても友人であることに変わりはないってことじゃない?あるいは、親友としてはいいけれど、結婚する未来を想像できなかった、とか?」

「結婚……」

 それは、遠くて、僕には全く関係ない言葉のように思えた。付き合った異性もいないような僕とは、縁遠い言葉。けれどその言葉は、やけに生々しく僕の心に響いた。

 夏木と板垣君の結婚式を、想像した。僕はそこで、夏木の友人の一人として二人を祝福する――心が、ひどく痛んだ。

 あわてて思考を振り払う。夏木は、板垣君とは別れた。その未来は、もう来ない。

 ……本当に?

「少し早いけど、女性として異性と付き合っていく上で考えないことはないわよ。高校生同士の付き合いと大学生同士の付き合いでは、見える先も違うもの。人生の道がはっきりしていく以上、由利も、見えて来た結婚や家庭を築くということを意識したんじゃない?それが、板垣くん相手ではないと思った、とか?」

 疑問符ばかりの言葉からは、答えを見出すことはできない。そもそも、夏木とほとんど関わっていない僕には、何が正解で何が間違っているのかも、評価のしようがない。

「……堀田さんも、結婚を意識してるの?」

「まさか。わたしはこれから研究者として学問と付き合っていくの。文学と結婚するようなものよ」

 中学時代はスプリンターとして活躍していた堀田さんが文学者になるというのは、違和感がすごかった。多分、人生を変えるような大きな出会い、経験があったのだろう。

 夢を語る堀田さんは、確かに僕の目の前にいる。けれど、途端に堀田さんが遠い人のように思えてきた。

 僕たちの間には底なしの谷があって、僕はそこを踏み越えることなく、背を向けて歩き去っていく堀田さんや夏木、板垣君を見送るのだ――

「雪村くんは将来どうするの?やっぱり就職?」

「うん。就職、かな?」

 正直、将来の自分が全く想像できなかった。未来の僕は、何をしているのか。けれど、一つだけ予感があった。

 多分僕は、誰とも付き合うことなく、孤独に生きていくのだ。もちろん、仕事上の付き合いはあるだろう。けれど、時折懐かしい友人と会うくらいで、新しい交友関係を切り開くこともせず、寂しい人生を送っていくと、そう思った。

「ふーん、そっか」

 自分から聞いてきたのに、堀田さんはひどくどうでもよさげに頷いて、呑み終えたカップを手に立ち上がった。それじゃあ、と手を振って歩き出して。

 ふと、彼女が足を止めて振り返る。

「あ、そうそう。彼女なしの寂しい板垣くんは、せっかくだから恋人たちが醸し出す甘い空気に当てられてくるといいよ。駅前のイルミネーションがすごくきれいなんだって」

 そう言って、今度こそ堀田さんは振り返ることなく歩き去っていった。

 僕はただ一人、迷子のように人生の先を見つけることができずに、そこに座り続けていた。

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