第34話 フィフス・スクール・ホワイトクリスマス3
ビュオオ、と耳元で風が響く。
寮の小さなベランダから見える世界は、舞い散る雪をきらめかせ、美しい夜景に変貌を遂げている。
『夢は、もう寝たのか?』
「うん。もうぐっすりと。泣いて疲れちゃったみたいね」
『そう、か。迷惑をかけたな』
「これくらい、どうってことないよ」
電話越し、久しぶりに聞く板垣くんの声に不思議な胸の温かさを感じながら、私は努めて明るく告げた。
実際に、どうってことなかった。
板垣くんが、夢ちゃんが、航大くんが私にくれたものに比べれば、私が返せたのは全体の一割にも満たないであろうもの。
何より、一人でこの場所までやってきた夢ちゃんの心細さを思えば、聞き役に徹するくらいなんてことなかった。
『恋愛、か。さすがに兄に話すようなことではないんだろうな』
「うん。だから、私も話さないよ」
『それでいいさ。ここでお前に裏切られるほうが、夢の痛みは大きいだろうからな。……夏木はまだ、夢にとっての姉なんだよ』
ああ、なるほど。
かたくなに私に「お兄ちゃん」と呼ばれるのを拒んでいた板垣くんの気持ちが、少しだけわかった。
同級生にそんな風に呼ばれるのは、こう、心臓のあたりがくすぐったくない。
嫌ではない、けれど、うれしくもない。だから苦々しい笑みを浮かべることしかできないという、そんな感じ。
『……どうした。何かあったか?』
微妙な沈黙に感づいた様子で、板垣くんが聞いてくる。
相変わらず、空気に敏感だった。
気づいてくれることがうれしくて、恥ずかしくて、申し訳ない。
「ううん、ただ、少し昔のことを思い出していただけ。……懐かしいね」
『何のことだ?』
「何のことだと思う?」
町明かりを見据えながら、質問に質問を重ねる。
電話の向こうに沈黙が広がり、しばらくして「わからん」とどこかさっぱりした声が聞こえてきた。
「何を考えていたかは、秘密」
『……そうか。まあ、いろいろあったよな』
その色々という言葉に込められた複雑な言葉を、熱を察しながら、私は口をつぐむ。そこはもう、私が触れていい場所じゃないから。
触れさせないように彼が必死に隠したそれを、私がつまびらかにするわけにはいかない。
「明日、そっちに帰るの」
『夢のせいで悪いな』
「ううん。ただ、そっちの天気が、降雪確立50%だったから」
『…………そう、か』
「うん」
はらはらと舞い落ちる雪が、私のほうへと引き寄せられるように近づいてくる。
片手でそれへと手を伸ばせば、雪はするりと手のひらの上に収まる。
引き寄せて、雪を眺めようとして。
けれど手の中にはもう雪はどこにもなくて、そこには小さな水滴があるばかり。
この場所の雪は、たいして珍しくもない。ホワイトクリスマスなんて、普通のこと。
けれど、板垣くんたちが住まい、私の故郷でもあるあの町は違う。
「明日は、雪が降るかな」
『どうだろうな。50%ってどれくらいだ?』
「さぁ?あ、成人式の後、板垣くんも同窓会に参加する?」
『おう。その予定だぞ。野球部の仲間にせっつかれたからな』
「板垣くんらしいね」
『そうだな……それじゃあ、そろそろ切るぞ。夢を頼む』
名残惜しそうに、それでいて、彼から電話の終わりを告げる。これも、いつものこと。
まるで、ここで一線を引かないといけないとでもいうように、彼は通話を断ち切る。
「うん、おやすみ、板垣くん」
『おやすみ、夏木』
どれだけ長い間一緒にいても、私たちの苗字呼びは変わらない。
だって、シュンスケという響きは、私にとって特別で。
板垣くんは、私に対して、最後の一線を踏み込まないようにあり続けたから。
平行線をたどる私たちの道が交わる未来は、きっともうない。
ただ、それでも。
この日々の先に、板垣くんの幸せがあることを、独りよがりに願わずにはいられなかった。
翌日。
私は夢ちゃんと一緒に飛行機に乗っていた。
とんぼ返りになったことに夢ちゃんは少し頬を膨らませつつも、私が「板垣くんに送っていくって告げたから」というとすんなりと受け入れた。
多分、私たちの間に、まだ交流があると知れたことが、彼女の考えを返させた。
夢ちゃんがこれまでどう認識していたかは知らないけれど、少なくとも私は、板垣くんのことを親友だと思っている。
何でも話せて相談できて、板垣くんのためにも動くことのできる、お互いを支えあう関係。
たとえ板垣くんがすべてをさらけ出せなくても、私にとっての彼は親友。それはきっと、彼がこれからどんな人と人間関係を築いて、どんな生き方をしていこうと、変わることはない。
少しずつ見えてきた就職と、その先の人生。
そこに少しの焦りを覚えながらも、どうにかなると達観する自分もいた。
焦るとき、いつだって心の中で板垣くんが、大丈夫だと太鼓判を押すのだ。
夏木ならできる、と。夏木なら、きっとその程度のハードルは軽々と乗り越えていけると。
そんな彼の言葉を聞くと、不思議と体に活力が満ちる。
それは恋とか愛とかそういうものではなくて、あえて言うのなら、絆とでも呼ぶべきものだった。
「あーあ、帰ってきちゃった」
飛行機から降りて、私たちが乗ってきた機体を眺めつつ夢ちゃんがぼやく。けれどそこには、少し吹っ切れたような思いがこもっていて。
私が少しでも力になれたのなら、うれしいと思った。
「夢!」
声がする。
顔を上げた夢ちゃんが、ぎょっと目を見開く。
「いや、過保護すぎない?」
そんな言葉は、固く抱きしめる板垣くんの安堵の声にかき消される。
しばらく黙って板垣くんに抱きしめられるままになっていた夢ちゃんは、けれどそのうちに恥ずかしくなったらしい。彼の腕を全力で振り払い、手負いの獣のようにうなりながら距離をとる。
そんな夢ちゃんをおかしそうに、あるいは少し楽しそうに見ながら、板垣くんは笑っていた。
本当に、愛されているんだよ、夢ちゃん。あなたは、板垣くんにこんなにも愛されているの。
そんな心の声が聞こえたのかどうか、板垣くんがふっと私の方を見て、もごもごと口を動かして。
その言葉を吐息に乗せて吐き出して、笑う。
「お帰り、夏木」
「……ただいま、板垣くん」
ただいま――それはいつからか、私が板垣家に入るときの挨拶になっていた言葉。
あの場所は、確かに私にとって帰る場所で。けれど、今はもう違う。
だから、板垣くん相手にただいまと口にするのは、とても新鮮で、懐かしくて、少し、鼻の奥がつんとした。
「雪は、微妙だぞ」
ガラス張りの壁の先を見ながら、板垣くんがつぶやく。私も視線の先を追って、まばゆい光を、目に沁みる色を見て同意する。
「そうね。だって、こんなに晴れているもの」
ああ、今日はダメか――落胆に、少しだけ気持ちが沈む。
何か言いたげに視線を向けてくる板垣くんに、私は苦笑を返す。
雪を求めている意味を、板垣くんは知らない。
私も、言うつもりはない。
けれどなんとなく、板垣くんが考えていることはわかる。
きっと、雪という言葉から私が、彼の苗字を連想していると思っているのだろう。
それは間違いというわけではないけれど、正しくはない。
雪と聞いて真っ先に連想するのは、それではない。
希うように空を見上げながら、思う。
そもそも、雪自体、私は好きでも嫌いでもない。
ただ、クリスマスの雪だけは。
この日だけは、私は、雪の力を信じたいのだ。
今もまだ、自分から踏み出す勇気のない私の背中を押してくれるものだと、信じているのだ。
だから、雪のクリスマス、私は彼を待ち続ける。
雪が降るかわからない今日だって、彼を待つ。
駅前。彼が通るであろう乗り換えの駅の改札の外、美しいイルミネーションを見上げながら、隣に彼が訪れる、そんな夢のような瞬間を、馬鹿みたいに待ち続ける。
去年のクリスマスは、この町に雪は降らなかった。
今年も、ダメだろう。
でも、来年なら、再来年なら。
雪が降る中、空を見上げてふと幼い私たちの会話を思い出した彼が、私を探してやってくるのだ。
いつか見に行きたいと言っていた、ホワイトクリスマスのイルミネーションを。
そして、この辺りでは最大の、駅前のイルミネーションにやってきて。
私たちは、再会を果たす。
それは、私たちが再びともに歩むために必要な、私の儀式だった。
あの日、彼が忘れた約束が、もう守られるとは思っていない。
けれどあの夢のような語りが、あの胸が熱くなった時間が、すべて無かったことにはなってほしくなくて。
私は今日も、手袋の一つもせずに、冬の空の下でイルミネーションを見上げていた。
闇に塗りつぶされた私のホワイトクリスマスは、暗礁に乗り上げることになろうとも、沈没することになろうとも、自分で舵を切って海原を進まないといけない。
飛行機の中、夢ちゃんに語った言葉を思い出しながら。
私は、あたたかな光をその眼に移しながら、進み続ける。
いつか、再び私たちの道が交わる時を信じて。
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