第33話 フィフス・スクール・ホワイトクリスマス2
夢ちゃんを部屋に招いて、ビーズクッションに座ってもらう。簡素な部屋の中を検分する夢ちゃんから逃げるようにポットのお湯を急須に注いで緑茶を淹れる。ちなみに、緑茶は寮の部屋が隣の、静岡出身の人の趣味が移った。彼女が淹れたおいしいお茶を自分も淹れることができるようになりたくて真似を始めたけれど、まだまだその域は遠い。
そんなに簡単にたどり着かれたらたまらないわよ、なんて彼女は話していたけれど。
こんな風に遠くの土地の人とつながれるという点では、大学に入学したこと、それから、この遠い北の大地を進路に決めたことは正解だったかもしれないと思う。
「落ち着いた?」
こくりとうなずく夢ちゃんは、けれど私と口をきこうとしはしない。こたつの上に置いた湯飲みの中をじっと見つめるばかり。深緑の水面が、天井の明かりを反射してゆらゆらと揺れる。立ち上る白い湯気が消えてもなお、夢ちゃんは凍り付いたように動かない。
こたつに足を入れないのは、長居するつもりはないという証だろうか。あるいは、私への反抗。
――私は、夢ちゃんに嫌われている。
何しろ夏木由利という人間は、彼女の兄を都合よく使って捨てた、ひどい女なのだから。
「やっぱり、私の淹れたお茶なんて飲めないよね」
「……ち、がう」
「そう。それなら飲んで。体が冷えたでしょ?」
おずおずと手を伸ばした夢ちゃんが、そっと湯飲みを手に取る。
その熱が手のひらに伝わり、真っ赤になっていた手に熱をともす。
ピンと背筋を伸ばしてお茶に口をつける姿には気品が漂う。この辺りは板垣くんの指導のたまものだろう。
考えて、そして、苦しさが胸にこみあげる。
都合よく使って捨てた――それは、かつて夢ちゃんが私に告げた言葉。
それは、ある側面から見れば事実だった。
「……あったかい」
ぽつりとつぶやき、息を吹きかけて少し冷ましながら、また湯飲みに口をつける。
手だけじゃなくて体全身が冷え切っていたみたいで、とろんと、緊張の糸が解けた夢ちゃんは眠そうな顔になる。
「ほら、足も入って。板垣くんのお家でこたつのお世話になってから、すっかりファンになったの」
「……うん」
やけに素直だった。
もう二年ほどまで、別れ際に私に罵声を浴びせた彼女と同一人物だとは思えないほどにしおれていた。
何かが、あったのだ。だから、絶交だと叫んだ私のところに、彼女は訪ねてきた。遠く北の土地まで、たった一人で。
その答えは、彼女の口から語られるのを待つしかない。
私はただ、彼女がリラックスできるように、そっとCDプレイヤーの電源をつけて曲を流し始めた。
G線上のアリア。バイオリンのゆったりとした音色が部屋の中に響く。これは、板垣くんとよく足を運んでいたカフェの店主からのおさがり。高校時代に通っていたあのカフェが閉店になった際、マスターにもらったCDは、まだまだ現役で美しい音色を奏でてくれる。
同時に苦い記憶がよみがえったのは、冬の日、息せき切って飛び込んだあの喫茶店に、求める人がいなかった時の絶望。
そこには申し訳なさそうにうなだれる板垣くんの姿があった。
彼を引き留めることができなかったと、恥じ入る板垣くんに何度お礼を言っても、彼は顔を上げてはくれなかった。
何かと、葛藤していた。その葛藤の内訳を、彼は私に教えてくれることはなかった。
ずっと。私たちは、偽物の恋人関係をやめる、その日を過ぎて、今も。
外はしんしんと雪が降る中、部屋の中はぬくぬくとあたたかい。
脱いだコートをハンガーにかけて、暖房のそばに置いておく。ついでに夢ちゃんのコートも受け取って、ハンガーラックにかける。
「……」
夢ちゃんと二人きりというのは、改めて考えると初めてだった。だって、いつも夢ちゃんのそばには航大くんがいたから。仲のいい二人は離れることを知らず、いつも一緒だった。
それも、航大くんが中学に上がるまでの話だけれど。
制服姿の夢ちゃんを見て、はたと気づく。
ああ、そういえば、夢ちゃんはもう中学三年生だ。つまり、受験勉強真っただ中。
高校受験のクリスマス、私は何をしていたっけ。確か板垣くんの家で、夢ちゃんにへばりつかれながら試験勉強をしていたんだ。航大くんは確か、その頃には思春期で、私にあまり近づいてくることはなくなっていた。
夢ちゃんが語る小学校での出来事を聞きながら、ノートにペンを走らせた日々。
こたつの反対側には板垣くんがいて、視界の隅で椅子に座った航大くんは静かに本を読んでいた。
「……クリスマスは、よくこうして一緒にいたね」
「…………うん」
苦い記憶なのか、夢ちゃんは唇をかみしめながら告げる。けれど、彼女の沈黙はそこで終わった。
「やっぱりお兄ちゃんの彼女になってほしい」
どこかおびえた様子で、うつむきがちに告げる。その体は小さく震えていて、伝わる振動は手の中にある湯飲みまで広がってぽちゃん、と水音が響いた。
また、夢ちゃんの怒りの声が、耳の奥で響く。
裏切り者。絶対に許さない――
許されるとは、思っていなかった。
ひどいことをしている自覚は、あった。
だって、私は、知っていたから。
彼の、想いを。
「……ごめんね、私は、好きな人がいるの」
「その人を追って、北海道まで来たの?」
「ううん。違うよ」
「だったら、どうして」
言い逃れは許さないと、鋭い目で彼女は私を見る。吊り上がった眦は、表情は、怒っているときの板垣くんにそっくり。そういっても、板垣くんが本当の意味で怒っているところを見たことはなかった。彼は寛容で、懐が広くて、器が大きくて、怒っているふりをして相手をたしなめることはあっても、感情に振り回されて怒りを発露することはなかった。
怒りだけではない。あらゆる感情を押し込めて、彼はいつだって気遣っていた。私を、守ってくれていた。
ボブカットの髪が揺れる。さらりとした、きれいな髪。その髪に、丁寧な手つきで櫛を入れる板垣くんの姿が一瞬、見えた気がした。
「この土地はね、私の、幸福が詰まっているの」
幻視した彼の笑みに背中を押されるように、私は一歩、踏み出す決断をした。
「幸、福」
「そう。私が高校二年生のクリスマス……夢ちゃんは小学6年生だったね。あの日、一緒に北海道を旅行したでしょ?」
さっぽろ羊ヶ丘展望台に、札幌時計台を見た。羊と戯れて、ラーメンを食べて、蟹と格闘した。すべてが新鮮ではしゃぐ夢ちゃんと、どこか冷静な目を持ち合わせながらも自分のペースで楽しむ航大くん、二人を見て相貌を崩す板垣くん、一眼レフの連写を続ける板垣くんたちのお父さん。
皆が皆、心から楽しんでいた。私も、楽しんでいた。
何より、あの冬の夜、板垣くんと二人で花火をしたのは、大切な私たちだけの思い出だった。
「……幸福だった。幸せだった。あんなにも楽しくて、うれしくて、心が満たされた時間は、これまでの私の人生にはなかったの。……だって、記憶にある限り、お父さんはいつも欝々としていて、そのうちに、私に暴行を振るうようになったから」
「そ、れは……」
「前に、夢ちゃんに見られたことがあるよね。頬の青あざ。あれも、お父さんに殴られた傷跡だったんだ。当時の私には、体のあちこちに、あんな風なあざがあったの。こうして無事でいられているけれど、あの頃は、このまま殴られて死んじゃうんじゃないかって、そう思ったこともあったわ」
思い出したくもない記憶。悪夢の日々。
あの日々は、呪いだ。お母さんが死んでから転がり落ちるようにおかしくなったお父さんとの日々は、とてもではないけれど気の休まるものではなかった。
「だから、家にはあまりいたくなかった。学校だって、いられる時間は限界がある。……それを知って、あなたのお兄さんは、板垣くんは、私を家に招き入れてくれたの。私が、これ以上傷つかないように。私がこれ以上、男性を前にするとおびえて動けなくなることがないように。彼が、守ってくれた」
「お兄ちゃんが、お姉ちゃんを、守った」
「知ってるでしょ?板垣くんが強くて、優しくて、格好いいこと」
一も二もなくうなずく夢ちゃんを見て、苦笑が漏れる。
本当に、夢ちゃんも航大くんも、板垣くんが大好きなんだ。
「私も感謝しているし、友人として好きよ。でもそれは、恋じゃない。私の恋は、ドロドロと腐ったようで、形がゆがみ切った初恋で、叶うことなんてないかもしれない……でもね、その恋が、私を、これまで生かしてくれたの。まだ板垣くんと仲良くなるよりも前、一人で耐えていた私が自殺をはかったりしなかったのは、この想いがあったからなの」
胸に、そっと手を当てる。
とくん、とくんと、優しく鼓動が刻まれ、全身に強い熱が広がっていく。
恋の熱。それは今も、枯れることを知らない源泉として湧き続けていた。私に生きる力をくれていた。
「私はね、彼に見合う人になりたいの。傷だらけで、板垣くんに寄り掛かるばかりで、自分で歩けなかった自分では、いたくないの。一人の力で歩いて、そうして、彼のものにまで、歩いていきたいの……だから、時間が必要だった。心の澱を洗い流して、再び歩き出すための時間が、お父さんとの距離が、欲しかった。その時に真っ先に考え付いたのが、幸福だった日々しかない、この場所だったのよ」
短くも長い話を終えて、お茶をすする。まだ温かいお茶は、けれど息を吹きかけて冷ますほどではなかった。
それは、私の心も同じ。
かつてだったら、話をするだけでやっとだったけれど、今の私にはまだ余裕があった。気力があった。
きっと、私も成長しているのだ。あるいは、すべてが、過去になりつつあるのだ。
いつかきっと、お父さんの罪も時効になって、軽く笑い飛ばせる過去になる。その時まで私は、羽を休める。それだけ。
「私はね、この土地にきて変わったの。板垣くんに寄り掛かることをやめて、全部自分でやって、自分で抱えて、歩いているの。もうすぐ成人式で、彼に会えるって、そう思いながらね」
「……お姉ちゃんは、その人のことが、本当に好きなんだね」
「うん。大好きよ」
大好き。愛している。
そんな言葉ではもはや足りないほどに、私の中の思いは膨らみ続けていた。
無数の感情を含んだその思いはどす黒くねばついていて、けれどまぎれもなく私の初恋として、私の芯にあった。
「夢ちゃんは、お兄ちゃんと私に付き合ってほしくて、ここまで来たの?」
「…………お兄ちゃんに、幸せになってほしかったのは本当だよ。だって、お姉ちゃんがいなくなってから、お兄ちゃんは腑抜けちゃったから」
相変わらず辛辣で、けれど今の私はもう、そんな彼女の言葉を笑い飛ばす権利はない。あの輪に入っているものだけが、気の置けない言葉の応酬を笑えるのだ。
自らそれを手放した私にはもう、その団欒に入る資格はない。
何より、私と離れた板垣くんを聞くと、胸が苦しくて、とてもではないけれど笑えやしない。
「お兄ちゃんに、幸せになってほしかった。幸せになって、そうして、不可能はないって、そう思わせてほしかった。……好きな人がいるの。学年で一番、頭のいい人。でも、このままじゃ、離れ離れになっちゃう」
ポロリと、また一つ夢ちゃんの頬を涙が伝う。
離れ離れになっちゃう。距離ができちゃう。会えなくなっちゃう。
言葉を重ねる彼女は、天板に顔を伏せて、声を押し殺して泣く。
「夢ちゃんは、その人と一緒にいたいんだね?」
「う、ん。いたい、の。一緒に、いたくて、でも、全然足りないの……」
成績が、内申点が、勉強の実力が。
「離れて、行っちゃうの……届かなく、なっちゃうの」
「うん」
「どうしよう。わたしのこと、忘れちゃったら、ほかに好きな人ができちゃったら、どうしよう」
「大好きなんだね」
「う、ん。うん。だから、嫌だよ。一緒に、いたいの」
掛ける言葉は、見つからなかった。
もとより、私はまっとうな恋愛なんてしたことがない。恋愛観のゆがみ切った私が、ためになるアドバイスをできるはずがない。
きっとそんなこと、夢ちゃん自身だってわかっている。
わかっていて、それでも、私以外に相談できる相手を見つけられなかったから。
他人に弱さを見せることが苦手な夢ちゃんは、唯一頼れる同性の私に話をするために、遠く私のところまで来たのだ。
だから、私は受け止めよう。ありったけの彼女の言葉を浴びよう。
それが、夢ちゃんに、そして板垣くんに、私ができることだった。
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