第32話 フィフス・スクール・ホワイトクリスマス1
ひどく冷えこんだ空気にもすっかり慣れた。
北海道の冬は、本州育ちの私にはとても厳しいものだった。
一年に雪が降るのは片手で数えるほど。積もるのは、数年に一度くらい。
そんな土地で生まれ育った私が何をどう血迷えば北海道の大学に進学を決めるのか――それはきっと、この土地が、私にとっての幸福を象徴する場所になっていたから。
地元での進学は考えられなかった。
少しでも遠く、お父さんから離れた土地にいたかった。
高校時代に頑張りすぎたアルバイトのおかげで手元はそれなりにあって。寮生活に慣れたこともあり、遠く離れた土地での一人暮らしは、さほど苦痛なものではなかった。
12月24日、クリスマスイブ。
部活動最終日。大学の陸上部の納会の一席で、私はウーロン茶を片手に、料理に舌鼓を打っていた。
「由利ぃ、飲まないのぉ?」
すでに出来上がった友人が私の肩を抱いて、アルコール臭い息を吹き付けてくる。
それに眉を顰めることこそないものの、心の中で少しだけうっとうしいな、と思う。
走るのは好きだ。だから、部活動勧誘の際、真っ先に陸上部へと歩を進めた。
問題は、冬の北海道を舐めていたこと。
雪が降り積もったような状況では、とてもではないけれど走ることなんてできない。高校から再び日課になっていたロードワークは、冬になると行えなくなる。
凍結した歩道を走るなんて、転びたいと言っているようなものだ。
冬の部活動は、マシンを使った体作りと、室内場での体力づくり。狭い中をひたすらぐるぐると回るのは気が滅入るのだということを私は知った。走るのが好きと言っても、私が好きなのは、自由を感じることができる走りで。遠くまで足を運ぶことが叶わず、景色だってろくに変わらない室内訓練は、中学や高校でグラウンドの中をぐるぐると走っているよりも苦痛だった。
それでも冬の間だってそれなりに出席して、仲間との関係も良好、なのだけれど。
「おー、夏木は飲んでないのかぁ?」
ダル絡みしてくる男子が、少しばかり面倒くさい。
ため息をつきたいのをぐっとこらえ、口の中のコールスローサラダごと飲み込む。
「明日からは実家に帰るから」
「早いな。まだ講義あるだろ?」
「数日休んだところで問題ないもの」
「かー、優等生だなぁ。俺なんてもう四つ単位落としたっての。出席がなぁ、一限とか無理なんだよなぁ」
じゃあどうして一限の講義を取ったのか、なんて言葉もやっぱりぐっと飲み込んで。
貼り付けた笑みのまま、吐き出したい言葉をウーロン茶で体の中へと押し戻す。
当たり障りのない関係を続けるには、余計な言葉は言わない方がいい。けれど、私がこれほどまでに自分を語らなくなったのは、嫌われることを恐れるのと、男性への少しの嫌悪と、そして何より、私がずっと見てきた彼が、同じように言葉をためらう人だったからだと思う。
「そうですぅー、由利は秀才なんですよぉ。あたしたちとは違ってねぇー」
しなだれかかってくる友人が重い。押しやろうとするも、部活で鍛えた体は、そう簡単に外れてくれない。しっかりと私の腕に抱き着いた彼女の豊満な胸の感触に、少し負けた気になる。
一体私はどうして戦おうとしているのか。
「ほんとになー、夏木ってば頭いいし、足はぇえし、顔もかわいいし性格もいい……ほんと、かんぺきだよなぁ」
酔っ払いに言われてもうれしくないし、あなたに言われても少しも響かない。
どこか熱を帯びた瞳を前にして軽く鳥肌が立って、私は抱き着いてくる彼女の頭頂部に手刀を落として手を離させる。
「あれぇ、由利ぃ、どこいくのさぁ……」
「お手洗いよ。失礼」
何か言いたげな顔で手を伸ばす男の腕を交わし、トイレへと逃げる。
せっかくの美味しい食事だったのに、胸がむかむかして仕方がなかった。
吐くほどではないけれど、体の中で変なものがぐるぐると渦を巻く。それを沈めるべく顔を洗った水はひどく冷たい。
化粧を確認して、居酒屋の一席に戻る。
そこには先ほど以上に出来上がった集団がいて、私と同じくお酒を飲んでいない――と言ってもまだ未成年だからだけれど――後輩の女の子が、微妙そうな顔で会釈をしてくる。
「無理やり飲まされなかったよね?」
「はい!大丈夫です。……あの、夏木さんは飲まないんですか」
成人した大学生はお酒を飲むのが当たり前だとでも思っているのだろうか。友人も、先ほどの彼も、この子も、どうして私にお酒をすすめるのか理解できない。
おいしいとも思えないものを、場の空気に抗えずに無理して飲むなんていうのは馬鹿げている。
「私はいいわ。明日の朝には飛行機だし、持ち越したくないもの」
「もう帰るんですか?」
まるで先ほどの会話の踏襲だ。少しげんなりして間が開いて、そのせいか、あるいはアルコールが入っていなかったからか。
目の前の子は何かに気づいたようにピンとひらめいた顔をして笑った。
「もしかして、彼氏ですか!地元に遠距離恋愛中の彼氏がいるんですよね!?だって明日はクリスマスですし!」
「違うわ。生まれてこのかた、彼氏がいたこともないもの」
「嘘、ですよね?だって夏木さん、こんなに美人なのに」
美人じゃないし、私の内側はドロドロした汚いものであふれている。
歪み、澱み、膿んだ恋心は、もはや原型も知れぬ怪物に変わり果て、私の中で空虚な叫びを響かせている。
その怪物の声を抑え込み、私は努めて何でもない風に笑った。
「恋人ではないけれど、会いたい人がいるのよ」
その言葉に、彼女が歓声を上げたのは言うまでもないことだった。
早めに納会から抜け出し、一人雪国を歩く。
真っ黒な空から舞い散る雪は、今日をホワイトクリスマスに変える。けれど、去年も今年も、この土地では雪が降る。というか、冬の間はかなりの頻度で雪が降るから、雪の価値は下がって、ましてやクリスマスの雪のありがたみなんてあって無いようなものだった。
クリスマスの雪にいちいち騒がないところは、この土地で大学に通う利点の一つかもしれなかった。
路肩に積みあがった雪は、もう三年前に訪れた時よりもずいぶんと高い。場所が違うというのもあるかもしれないけれど、今年の冬の積雪は多くて、去年以上に大変だった。
除雪されきっていない道には踏み固められた雪が堆積していて、それはもう氷のようにつるつると滑る。
一番滑るのは一度完全に溶けて氷になった場所。次に滑るのは、雪が踏み固められて氷のようになった場所。三つめが、表層にうっすらと雪が積もった場所。
一番滑りにくい、深く柔らかな雪がつもったあたりを踏み固めて、私は転ばないように寮へと向かった。
寮のエントランスに入れば、外気の寒さは一気に和らぐ。水道管が破裂しないように絶えず温められている室内は、むしろ外着のままだと汗をかいてしまうほど。
管理人室の前を通ろうとして。
「あ、夏木さん?来客が来ていますよ」
客をほったらかしにしていつまで出歩いているのかと、どこか責めるような口調で寮の管理人が告げる。
その言葉に首をかしげながら、私は指し示された来客の方を見て。
「……夢ちゃん?」
見違えるほどきれいになった彼女と、数年ぶりに再会した。
「由利、ちゃ……由利ちゃんっ」
ひし、と私の体に抱き着いた彼女は、声を上げて泣き出した。
彼女の温かな涙が、私のお腹のあたりに熱を持って広がる。
管理人のいぶかしげな視線が突き刺さる中、私は赤子のように泣きじゃくる夢ちゃんの背中をさすって、落ち着くまでなだめ続けた。
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