第31話 スクール・ホワイトクリスマス・インターバル4

 滑らないようにと少し気を付けながら氷の張った歩道を歩き、夏木を追って公園に入る。

「ここが目的地、なのか?」

「そうだよ」

 雪に覆われた公園は、降り積もった新雪を乱すものもなく、灰色の世界が広がっていた。公園に一つだけある街灯の下だけが、白色。あとは、闇に紛れて雪はくすんでいる。

 夏木は、伸縮式の手提げかばんから水入りのペットボトルと、ビニール袋、そしてその中に入っていた花火を取り出して見せる。

「ここなら、しっかり片付けをすればやっていいんだって」

 ホテルの人に聞いたのと、告げる彼女の笑みに誘われるように、俺は差し出された手持ち花火を握った。

 台の上で揺らめくロウソクを守るように、俺たちは互いの体を壁にする。冷たい風が吹く中、ライターでもなかなかロウソクに火がつかず、空気の流れをさえぎるように近づいた俺たちの距離は、ひどく近い。

 青白い炎が、ロウソクの芯に映る。ぼんやりと灯った橙色の光の温かさに、夏木がほうと息を吐く。

「よかった、点いた、よ……っ」

 顔を上げた夏木が、息をのむ。

 数センチ近づけば、お互いの唇が触れてしまいそうな距離に、互いの顔があった。目を見開く夏木の目に映る俺は、暗くてよくわからない。街灯の加減でぼんやりと浮かび上がった夏木の頬は、先ほどよりもほんのりと赤くなっている気がした。

「ん、よし!やろっか」

「あ、ああ。そうだな……」

 おかしな空気を吹き飛ばすように大きな声を上げた夏木が、地面に置いていた袋から自分の花火を取り出す。

 やっぱりお互いを風よけの壁として使いながら、俺たちはロウソクの炎に花火の先を近づける。

 風で揺れる炎はなかなか思うように花火にあたってくれなくて、もどかしい沈黙が場を満たす。

 何か言わないといけないと思いながらも、この沈黙が意外と嫌ではなくて。

 そっと、視線だけ上げて見れば、夏木も同じように俺を見ていた。

 お互いに、息をのむ。何か言おうと、俺も夏木も、唇をもにょらせて。

 シュボ、と。

 空気を読まない花火が点火する音が響いた。

「わわ!」

 慌ててロウソクから花火を遠ざけた夏木が立ち上がる。

 雪の中、花火を揺らす彼女の姿は、まるで妖精のようだった。

 金とも銀ともつかない不思議な色合いの光を帯びた瞳が、花火を、そして俺を映していた。

 鮮やかな橙色の光に照らし出される顔には、楽しげな笑みが浮かんでいる。

「……ねぇ、見て」

「ああ、見てるよ」

 自分の花火をそっちのけで、俺は夏木の花火を見ていた。

 いや、夏木を、見ていた。

 その美しい笑みを。花火に照らし出される整った顔を。楽しいと語る全身の熱を。

 花火の光を帯びた雪は、淡い茜色に染まりながら舞い散る。足元の雪も、その場所だけはまるでスポットライトが当たったように照らし出され、夏木の存在を世界に映し出す。

「綺麗だね」

 夏木が言う。花火の光に、あるいは、花火が魅せる雪に、魅了されながら。

「あぁ、綺麗だ」

 夏木、お前は、綺麗だ。

 言葉は、やっぱり、喉に引っ掛かって出てこない。あるいは俺自身が押しとどめているせいで、声にならない。

 風が吹く。鮮やかな花火はそのうちに消え、再び世界に闇が戻る。

 美しいものは一気に花開き、燃え尽きて消える。朽ちてきえる。

 夏木は、そうはならない。でも、俺の手の中にいるのは、ほんの一瞬。

 消えてしまったロウソクに火をともそうと苦戦する夏木を、俺はぼんやりと眺める。

 膝を抱え、丸まった子どものような姿。その横顔には、けれど無邪気な笑みがある。

 影はない。苦悩はない。苦しみはない。

 父から解放された夏木は、ただ幸せそうに、今という時間を過ごしている。

「板垣くん、風よけになって」

「……おう」

 これでいい。こんな使われ方でいい。

 俺は、夏木が羽ばたくための踏み台。

 風よけ。

 男性に恐怖心を抱くようになってしまった夏木が、ふつうに戻るための、仮宿の提供者。

 ロウソクの明かりがともる。はかなげに揺れるその光が夏木で、ロウソクが俺なのだろうか。

 俺は夏木を光らせ、その光を花火へとつなげる。花開くように、燃料を送り、大事に大事に育てる。

 そうして、夏木が花火になって。俺は、光を消して沈黙する。

 胸が、苦しい。

「本当に、綺麗だね」

 けれど、幸せだった。

 痛いくらいに、幸福感が胸に満ちていた。

「……よかった」

 零れ落ちた声には、悲しみが満ちていて。

 その声は、けれど強く吹き抜けた風にかき消された。

 また一つ花火が消えて、夏木の姿が闇に紛れる。ふと、顔を上げた夏木が、ロウソクの前に座ったまま動かない俺を見て首をひねる。

「寒い?」

「いいや、全然」

 寒さなんて、感じていなかった。夏木と一緒にいる今この時が楽しすぎて、そんなものを感じている余裕なんてなかった。

「……じゃあ、帰りたくなくなった?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返した夏木の問いに、息が詰まる。

 ああ、それは、正しいのかもしれない。

「そう、かもな」

 帰りたくない。終わってほしくない。この時間を、終わらせたくない。

「そうだね。すっごく楽しい。でも、まだ明日もあるんだよ?」

 違う。そうじゃない。

 夏木が日常の中にいて、隣にいる。この愛おしい時間が、いつまでも続いてほしかった。

 終わってほしくないんだ。

 君が、俺から離れていってしまうのが悲しんだ。

「そう、だな。まだ一日、あるもんな」

「うん。それに、来たくなったら、またくればいいんだよ」

 また――言葉が、心を振るわせる。

 また、と。

 そう、約束してくれるのか?また俺と一緒に来たいと、そう言ってくれているのか?

 勘違いするなと、心を叱咤して。

 夏木と一緒に、今を楽しむ。

 花火を点け、世界を照らす。浮かび上がった夏木の笑みに、胸が高鳴る。心が躍る。

 泣きそうだった。

 ――行かないでくれと、そう告げたら、何かが変わるのだろうか。

 ――俺のもとにいてくれと、そんな自分勝手な思いを、今更吐き出そうというのか。

 自分の想いを押し付けて彼女を引き留めることができれば、どんなに良かっただろう。

 けれど、ダメなのだ。

 翼が折れて羽を休めていた鳥は、翼が治れば飛び立たずにはいられない。

 恐怖を克服した彼女は、高く空を舞おうとしている。飛び立とうとしている。

 そんな夏木を、俺がみっともなく引き留めてはいけない。

 最後の花火が灯る。

 俺と夏木、一本ずつ。

 最初に点火させた夏木が、俺から遠ざかる。同時に、花火の勢いに負けたロウソクの火が消える。

「板垣くん」

 夏木が、俺を呼ぶ。

 立ち上がり、軽く上下させて示される彼女の花火へと、自分の花火を合わせる。

 隣り合って、火を受け渡す。

 俺の視線は、花火ではなく、夏木の顔にくぎ付けだった。

「あ、ついた」

 唇が、震える。白色のまばゆい光に照らし出された笑みが、網膜に焼き付く。

「……?」

 夏木が、顔を上げる。俺を、見る。

 不思議そうに、それでいて、何かを訴えるように、俺を見ている。

 手元の花火がシュボボボ、と音を立て、急速に燃えていく。その熱と光の中、夏木が、何かを求めるように俺を見ていたのは、気のせいだったのか。

 夏木の目尻に、大きな雪が落ちる。それはすぐに溶けて、小さな雫となって。花火の光の中で、きらめく。

 熱い息が漏れる。

 お互いの白い息が、溶けて、混じって、そして。

 シュボ、ボ、と音が途切れ、花火の光が消える。

「あ……終わっちゃったね」

 声に、夢から覚めた。

 夏木の声は、いつもと変わらなかった。旅先の高揚を含みながらも、気の置けない、ただの友人としてのそれ。

 そこに、熱はない。そこに、強い思いはない。

 消し炭となった花火を、ペットボトルの口に入れる。

 ジュボ、という小さな音はきっと、俺の恋の炎を沈下する音。

 濡らしたそれをビニール袋に放り込んで。

 俺の夢の時間は、終わりを告げた。

 ひらりと、舞い落ちた雪が俺の手の上にのって、少し留まる。冷え切った手は、けれど確かなぬくもりをとどめていて、雪は儚くて溶けていく。

 けれど、降雪が止まることはない。

 しんしんと降り続ける雪は、俺たちの足跡を飲み込み、かき消し、痕跡を無くす。

 俺たちがともにいて、ここでともに、子どものようにはしゃいでいたことが、夢であったように上書きする。

 同じように、時間が、俺の心を上書きするのだろうか。

 いつかこの思いも風化して、消える?

「……行かないの?」

「いや、今行く」

 ゆっくりと、乱れた足跡の残る地面を踏みしめる。

 夏木を見るだけで高鳴るこの気持ちが、そう簡単に消えてくれるとは思えなかった。


 夏木に告白なんて、できるはずがなかった。

 だってそれは、これまでの俺たちの時間をも否定する行為だから。

 何よりも、夏木に心から笑い続けてほしいから。

 そのためには、俺は彼女を、引き留めてはいけない。俺は、彼女の足かせになってはいけない。

「どこ行ってたのさ。そんな冷え切った顔してさ」

「……」

 部屋に戻って開口一番、航大の言葉に、俺は何も答えられなかった。

 倒れるようにベッドに転がり、奥歯を強くかみしめる。

 苦しかった。つらかった。

 恋心は、そう簡単に消えてはくれない。

 でも、消さないといけない。

 それが、夏木のためだから。

 否定するほどに燃え盛ろうとする思いは、涙となってあふれ出す。

 体が、震えた。

 何かを言おうとする気配があって、けれど航大は、何も言わずに部屋を出ていった。

 一人になったホテルの部屋で、俺は声を押し殺して泣いた。


 涙を流したのはきっと、母さんが死んで以来初めてだった。

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