第30話 スクール・ホワイトクリスマス・インターバル3

 ホテルの部屋の前。インターホンへと伸ばした指は、ひどく震えていた。

 何を話すべきか、どう話すべきか。

 言葉は絡まり、解こうとすれば、思考はスパゲッティのようにあっさりとちぎれ、まとまりのない思いの羅列へと転じてしまう。

 伸ばしては、ためらい、指を引っ込め。

 その繰り返しの先、ようやく覚悟を決めて、震える指先で強くボタンを押し込んで。

『ピンポーン』

 電子音が、部屋の中で響く。

 ごくりと、喉が鳴る。

 これで同室の夢が出たらどうするか。今更に別の可能性を考えて、思考はビックバンが起きたように無数の泡沫として浮かび上がり、はじけて消えた。

 頭の中から一切の言葉が消えて、放心したように立ち尽くす。

 一秒、二秒――扉の向こうには、バタバタと動く気配の一つも感じられない。

 温かな暖房の熱で、かるく汗ばむ。今すぐに逃げ出したい気持ちをぐっとこらえながら、彼女が出てくるのを待って。

「……板垣くん、何か用事だった?」

 声は、背後から聞こえた。

 心臓が止まるかと思った。

 慌てて振り向けば、そこには少し軽装になった夏木の姿があった。手元には、やや大きめのエコバック。ホテルを出てすぐのところにあるコンビニか、あるいは一階の土産物屋にでも行っていたのだろうかとあたりをつける。

「あぁ……えっと、何だったか?」

「え、もしかして用事を忘れたの?」

「突然背後から声が聞こえてきて驚いたんだよ。心臓が口から飛び出るかと思ったわ」

「ふふ、そんなに驚いたんだ。それじゃあ、足音を殺して近づいたかいがあったね」

 くすくすと笑う夏木は、確信犯だった。

 その屈託のない笑みが、俺の心を占める。視界にはもう、夏木以外の何者も映らない。真紅の絨毯が続く廊下には、事実俺と夏木の二人きり。

 少しだけしっとりとした髪を後ろで一つに結った夏木の姿は新鮮で、心臓がバクバクと鳴っていた。

「どうしたの?なんか怖い顔してるけれど」

「あー、いや。何でもない。……今から少し、時間あるか?」

「うん。実は私も、板垣くんを誘おうかと思ってきたの」

 少し、抜け出さない?

 ――言葉に、本当に心臓が止まるかと思った。

 一も二もなく激しくうなずいた俺は、引かれるかと恐れて。

 けれど夏木は、ただただおかしそうに笑っていた。

 旅先の高揚感がそうさせるのか、今の夏木は、普段身にまとっている一切の鎧をはぎ取って、ただ一人の夏木由利として俺の前に立っていた。

 着替えてくると告げた夏木が扉の向こうに消えて。

 俺は、いまだ収まらない鼓動を沈めるべく、壁に背中を預けて深呼吸を繰り返した。勝手に脳は耳を澄ませるべく指令を出して、耳には小さな衣擦れの音が響く。しゃかしゃかというこれは、厚手のガウンを着こむ音だろうか。あるいは、着替えを入れた袋を触っている音?

 自分がひどい変態に思えて、頬を全力で叩いて気持ちを静める。

 落ち着け、俺。着替えの音で興奮しているんじゃねぇよ――

「お待たせ……ぷ、はは!」

「っ!?」

 予想通りガウンを羽織った夏木は、出てきてすぐ、俺の顔を見て噴き出す。

 夏木に笑われた――羞恥に顔が火照り、今すぐに逃げ出したい気持ちに駆られる。

「ど、どうした。どこか変なところがあったか?」

 涙が出るほどに笑った夏木は、目じりを指の腹で拭いながら、心からおかしそうに告げた。

「う、うん。……だって、顔に紅葉の後がついているから」

 強くたたきすぎて頬に手を跡がついていると言われた俺は、両頬を手で押さえて揉み、少しでも跡を消そうと必死になった。

 完全防備になった夏木と、並んでホテルの廊下を歩く。頬を紅潮させた夏木は、楽しそうに夢の話をする。

「……それでね、夢ちゃん。板垣くんに何をプレゼントすればいいんだろうって、悩みに悩んで。こんな、特大のぬいぐるみを買おうか真剣に検討していたの」

「どうして一緒に来た俺へのお土産を考えているんだよ」

「んー、多分だけれど、夢ちゃんにとってこの旅行はやっぱり、お兄ちゃんへの慰労旅行なんじゃないかな」

「あぁ、そんな話もあったか」

 親父と夢のはしゃぎっぷりを見ていたから、すっかり気分は夢の卒業旅行だった。まあ、卒業と言っても夢の小学校生活はまだあと三か月近くある。小学校の卒業式は三月の、いつだったか。実質二か月くらいか?

 何か不思議そうに眼をしばたたかせて俺を見ていた夏木が、くすりと笑いを漏らす。まさかまだ頬に跡が残っているのかと両手を押さえれば、「違うよ」と笑いながら言われた。

「お兄ちゃんって言っても怒らなかったな、って思っただけ」

「ああ……今日はもうエネルギー切れだ」

 いつもだったら夏木に「お兄ちゃん」呼びをされると毎回否定していたけれど、今日はもうそんな気力はなかった。

 それは夢のハイテンションにあてられたからで、そして、航大の衝撃的な告白を聞いてしまったから。

 頭は再び航大とのやり取りを、そしてここ二年ほどぐるぐると同じところを回り続けている思考に戻る。

 エレベーターに乗り込み、狭い場所に二人きり。静かな駆動音の中に、かすかな夏木の息遣いが混じる。

 コートにマフラー、帽子。ただ、手袋だけはしていなくて、寒々しいその手は、時折温めるためか握って閉じる動きを繰り返す。

「……なぁ」

「どうしたの?」

「航大に、何か言われたか?」

 何か――そんなあいまいな表現ではわからない様子で、夏木は首をひねる。

 俺はただ、そのことに安堵していた。

 少なくとも、航大に告白されてはいない。

 安堵の感情の理由を追って、気づく。

 それは、航大の告白が夏木との距離が生じる原因になりうるからで。

 そして何より、夏木が航大の告白を受け入れる可能性があると、そう思っているからだった。

 俺たちは、所詮は友人どまり。嘘の恋人関係にある、秘密の共有者であり、誓いを交わした中。

 約束が、俺を縛っている。夏木を、俺のところにとどめさせてくれている。

 その約束も、けれどもう間もなく、終わろうとしている。

 高校生になってから、夏木は変わった。

 明らかに明るくなって、笑うことが増えた。全寮制の私立高校に入って、バイトと学業で忙しくしている夏木は、父親から離れられたことで自分を取り戻しつつあった。

 明るくて、優しくて、笑顔がきれいで、人の苦しみに気づいて寄り添える人。

 この上ない人は、けれど、俺の友人でしかない。

 年末年始やお盆のタイミングで寮が閉まるときに泊まりに来るような間柄であっても、俺たちは恋人じゃない。最初は噂をうのみにしていた航大と夢も、今ではその噂が、夏木を守るための俺たちの嘘だと、知っている。

 だから、彼らはせっつくのだ。

 そのまま、本物になってしまえと。本当の、恋人になってしまえと。

 エントランスにたどり着き、夏木は迷いのない足取りで歩き出す。そのまま、ガラス張りの玄関口から外に出て、寒そうに首をすくめる。

 雪が舞うクリスマスイブの北海道は、体が凍るのではないかと思うほどに気温が低い。

 一度部屋に戻ってコートを着てくればよかったと後悔しながら、並ぶ夏木を横目で見る。

 楽しそうに膨らんだ手提げ鞄を揺らす夏木の足取りに迷いはない。その横顔に、影はない。

 街灯に照らし出された夏木の横顔は儚げで、リップのせいか、艶めいた唇に視線が引き寄せられる。その唇が、少しの吸着性を持ちながら開き、柔らかさを訴える。吐き出された息は、細く長く世界に広がり、街灯の光の下で闇夜に浮かび上がる。

 すわりが悪くて目をそらす。車道側に積みあがった雪の山は、場所によっては俺の背丈ほどもある。その雪は、暗がりの中にあると黒い壁としてそびえたっていて、こちらに闇が迫ってくるように錯覚させる。

 吹き付ける風で、耳が痛いほどに冷えている。手も、同じように冷たい。

「えいっ」

「ぷ!?」

 当然顔を冷たいものが襲い、それが口の中に入る。慌てて吐き出しながら飛来してきた方を見れば、そこにはもう一つ雪玉を構える夏木の姿があった。

「ちょ!?」

「待たないよ!」

 また一つ、投げられた雪玉をとっさにしゃがんでかわそうとして。

 胴体に迫っていた雪玉は、腰を落とすことで顔面にクリーンヒットした。

「……あれ、板垣くんって運動神経よかったよね?」

「……今のは偶然だ」

 やられたらやり返す。

 路肩の雪の山へと踏み込み、上の方の新鮮な雪をかき集める。振り返りざまに投げよう通して、そこに夏木の姿が無くて肩透かしを食らう。

「えいっ」

 声は、すぐ横から聞こえた。

 雪の塊を握った夏木が、投げるのではなく、俺の顔面に雪を押し当てる。

 顔にべっとりと雪がつき、とっさに投げた雪玉は、全く違う方向へと飛んでいき、路上に落ちて砕ける。

「ふふふふ。私の勝ち」

 笑いながら、夏木が走っていく。雪がちらつく中、一つに結った黒髪が揺れる。まるで、楽しいと尻尾を振る猫のように。

「何勝手に勝負を終わらせようとしてるんだよ」

「だってもう到着したから」

 ぴょん、と公園の敷地に足を踏み入れ、後ろ手に鞄を持って振り返る。街灯の下、満面の笑みを見れば気が抜けて、溶け始めた雪で冷たい顔を袖でごしごしと拭い、行き場のない闘争心をため息に乗せて吐き出した。

 手袋の一つもしていない指は雪を触ったせいでじぃんとしびれるようにかじかんで、慌ててポケットに手を入れる。

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