第29話 スクール・ホワイトクリスマス・インターバル2
「ひゃっほー!」
初めての飛行機、初めての冬の大地。
飛行場から出てすぐ、電車に乗るのも後回しにして飛び出した夢は、寒空の下で両手を天へと突き出して歓声を上げた。
「見て、雪だよ、雪!」
「あー、そうだな」
夢とは対照的に、航大はひどく冷めた声で周囲を眺める。
しんしんと降り続ける雪。除雪されて路肩に積みあがった雪の上に新雪が降り積もったことで、真っ白な壁が長く歩道の両脇にそびえていた。
夢が被った赤色のニット帽は、雪がのるととても映える。舞い降りた雪は帽子の上でしばらく溶けることなくとどまり、夢の頭頂部や肩をうっすら白く染めていく。
「すごいね、すごいよ。ホワイトクリスマスだよ」
「……そっか。ホワイトクリスマス」
あまり話しをしたことのない親父がいるからか、借りてきた猫のようになっていた夏木がぽしょりと告げる。
もっと楽しんでほしいのに、もっと自由にふるまってほしいのに。そうしてくれないもどかしさがあって。
同時に、俺の父親を前にしても恐怖で身がすくむことのなくなった夏木を見ていると、まぶしくて、胸が温かくなった。
夏木は、父親の暴行を受けている。中学二年の冬に知ったその事実は、きっと今も現実のもの。時々何かに耐えるように固く目をつぶる夏木は、今も戦っていて。けれど、俺たちがその戦いに関与するのを夏木は嫌う。
いつだったか、倒れそうなほどにすり減った夏木が言っていたことを思い出した。
自分は、平凡な人間で居たいのだと。虐待されてきたかわいそうな子どもでありたくないのだと。
その気持ちは痛いほどよくわかった。
夏木と同じように母親を亡くした俺もまた、かわいそうな奴だったから。
友人や先生は、腫物に扱うように俺に関わった。その気遣いはうれしくて、けれど同時に腹立たしいもの。
確かに悲しかった。何も言わなくなった母さんを前に、人目も気にせずに泣いた。夜更け、母さんはもうどこにもいないと思い出して、一人布団の中で涙を流して。
けれど、夢と航大のためにも強くあるべきだという気持ちが、俺を立ち上がらせた。
そうして頑張っているのに、かわいそうな人だからと、お母さんが亡くなってつらくて仕方がないだろうと、勝手にレッテルを張り、自分勝手に俺の心に悲しみばかりを押し付ける人間が、嫌いだった。
きっと、その反発が、俺をいびつにした。子どもであることを放棄させた。
大人になったと言うには足りないものが多すぎて、けれど今の俺は、同級生よりは大人に近い自負がある。
雪を見上げる、夏木。その横顔からは、考えていることはうかがい知れない。
呆けたように口を小さく開いて、雪を絶えず降らせる曇天を見上げながら、彼女は何を考えているのか。
雪から連想して、あいつを思い出していると考えたのは、曲解だろうか。
俺との出会いのような日を、あのホワイトクリスマスを思い出してくれているといいなと、心の中で願う。
「……さぁて、移動しよ!」
「もういいのか?」
「うん。だってここ、雪しかないんだもん」
真顔で告げる夢に、ずっこけそうになった。
あれほど雪に歓声を上げていたというのに、もう飽きたというのか。そこには女王の片鱗が見えた気がして、末恐ろしさに体が震えた。
中学や高校でも、学校のボスのように君臨するのだろうか。いや、さすがにそれは物語にはまりすぎ……でも、夢を見ていると現実のものにしそうだと思える。
「何を百面相しているのさ」
呆れた航大の声に、俺は軽く頬を叩いて夢の後を追った。
夢のはしゃぎっぷりはとんでもなかった。
常時ハイテンション。向かった旭山動物園で、白熊を見ては歓声を上げ、ペンギンの行進を見ては可愛らしさに飛び跳ね、器用に気の上を歩くレッサーパンダに癒されてだらしのない笑みを浮かべた。
そんな夢の姿を、親父は固い表情で撮影していく。一眼レフを手に取った親父は、真剣そのもの。けれどよく見ればその顔に笑みがあって、だから俺と航大は、親父は親父なりに楽しんでいるのだと放っておく。
ただ、接点の少ない夏木はそうもいかなくて、マフラーに顔をうずめながら、ちらちらと親父を見ながら小声で訪ねてくる。
「……怒って、ないよね?」
「当たり前だろ。過去最高のテンションだぞ」
「あれで?」
「ああ。あの一眼レフ、今日のためだけに購入したやつだぞ。一週間くらいマニュアルを読み込んで、暇な時間があると練習で家の中でバシャバシャと撮影してうるさくて仕方なかったな」
盛大に顔をしかめれば、夏木がおかしそうに噴き出す。
「……ふふっ、お父さんも楽しみだったんだね」
「そうだ。だから気にすることはない。これは、夢の成長を支えてくれた君への感謝の旅でもある」
地獄耳らしかった親父が突然話しかけてきて、夏木がびくりと肩をはねさせる。
ちらと一瞬だけ俺を見た親父の目は、「怖がらせたか?」と語っていて。俺は、問題ないと肩をすくめて返す。
「家内が死んでから、夢は自分をさらけ出せる相談相手を失っていた。だが、君が家に来るようになってから、夢はおそらく、君という心強いサポーターを手に入れたわけだ」
「そんな、私なんて」
「夢は頼りにならない相手を姉と呼ぶほど、取り繕うのは上手くないぞ」
ありがとう、と深く頭を下げる親父を前に、夏木は慌てて顔を上げさせようと言葉を重ねる。
そんな夏木をしばらく見つめていた親父は、ふっと小さく笑みをこぼして俺たちを見る。
「いいお嬢さんだな」
「夏木はできたやつだよ」
「……そんなこと、ないですよ」
しりすぼみになった言葉には、自信のなさがにじんでいて。
少しだけ眉根を寄せた親父は、けれどそれ以上踏み込むことなく「そうか」とだけ告げて、再び夢の撮影に戻る。一体夢だけを何枚写真に収めるつもりなのだか。
その大人の背中がまぶしくて、そして何より、どこか揶揄いめいた先ほどの視線が、苦しかった。
俺と夏木は、そんな関係じゃないのに――でも、期待していいのか?傍からはそんな関係に見えるということだよな。
鎖を引きちぎって顔をのぞかせようとする気持ちに気づき、指先が震える。
「……板垣くん?」
小首をかしげる彼女の頬で、さらりと長い黒髪が揺れる。艶めいた、天使の輪のできた黒髪。
半ば無意識のうちに伸びた指先が、夏木の髪を救い上げ、頬にかけさせる。
夏木は動きを止めたまま、じっと俺を見上げていた。抵抗はしなかった。恐怖を示すこともなかった。ただ静かに、黒々としたその目に俺を映していた――何かを、期待するように。
その頬の赤さは、寒さのせいか?それとも、俺――
「何やってんだ?」
背後から投げかけられた航大の声に、はっと我に返る。
「航大くんはもういいの?」
先ほどの空気なんてまるで気にしていないように、夏木が振り返って尋ねる。
動揺と羞恥で見えない俺をよそに。
「まあ、夢のようにはしゃぐほど動物が好きってわけじゃないし……由利姉も見てきたら?」
「んー、そうだね。言ってくるよ」
じゃあね、と手を振った夏木が、ぱたぱたと小走りにレッサーパンダの檻の方にかけていく。チロチロと動く橙色の毛並みの小動物を目で追っていた夢は、けれどレーダーが反応したとでもいうようにぴしりと背筋を伸ばし、夏木に気づいて手招きする。
夏木の手を取った夢と並んで、夏木もまた興奮した様子でレッサーパンダを追う。
パシャパシャパシャ――連写の音が響く中、隣に立つ航大の吐息がやけに大きく聞こえた。
「……いつまで、そうしているつもり?」
「何のことだ?」
「わかっているくせに、まだごまかそうとするんだ」
シルバーフレームの眼鏡の先、鋭い目が俺を射貫く。責める目、少しの怒りに満ちた目。
それは、その目を見ていることができなくて、楽しげな夏木の後ろ姿に視線を戻す。
「オレも夢も、由利姉が抱えているものの大きさくらい、わかっているつもりだよ。あの人にとってオレたちはまだ子どもで、庇護する対象だからか苦しみを見せてはくれないけれどさ。それでも、時々どうしたって、漏れ出してしまっているから」
知っている。
時々、夏木が見せる苦しげな顔に、俺が気づいていないはずがない。ともすれば俺以上に距離の近かった二人が、その顔を見ていないはずがない。
「オレたちに、あの人は何も語らないんだ。ただ、静かに笑って、オレたちの話を聞いてくれる。自分の話なんて、少しもしないのに。……でも、兄さん相手には違う」
長く、鋭い吐息が空に向かってゆっくりと昇っていく。ちらつく雪を吹き飛ばすように、前方で歓声が上がる。
釣り橋を渡るレッサーパンダが、立ち止まって観客を見下ろしていた。くわ、と威嚇のようなあくびを見せてから、そのまま橋を渡っていく。
芸達者というか、魅せるということをわかっている奴だと思った。
そんな俺の逃避を悟ったのか、航大が脇腹に肘を打ってくる。
「……いい加減、覚悟を決めたら。踏み出さず、ただうじうじしているだけの兄さんなんて見たくないんだよ。たとえそれで、由利姉が来なくなっても、仕方がない。それでも踏み込んで――」
「できるかよ」
自分でも思った以上に強い言葉が出た。
ぎょっと目を見開いた航大は、その目を細めて、俺の言葉の意図を探ろうとする。
ぐじぐじと膿んで痛んだ心の中、怒りと悲しみの混じりあった感情が、俺の口を震わせる。
「あいつにとって、家は、家じゃないんだ。安息の地が、自分が自分である場所は、うちしかないんだよ。俺が踏み込めば、その場所は失われる。そうしたら、夏木が離れていくどころじゃない。夏木はまた……今度こそ、壊れてしまうかもしれないんだよ」
「それで、腫物に触るように扱い続けるって?それ、兄さんが一番嫌っていたことじゃないの?」
「……よく見てるな」
「兄さんみたいに、なろうとしていたからね」
無理だったけれど、と航大は肩をすくめ、夏木に視線を向ける。
「もし、兄さんがこれからもうじうじして、その場で足踏みをするようなら、さ」
「何、を」
「オレが、搔っ攫うよ?」
「何を、言っているんだよ」
「優しくて、包容力があって、心置きなく一緒にいられる相手なんだ。オレにとっても。……オレも……オレは、由利姉が好きだ」
吹き抜けた突風に、その声は消えてはくれなかった。
銀フレームの眼鏡のガラスの向こう、鋭く細められた目が俺に問う。これでもまた、逃げるのかと。
「俺、は……」
俺は――わかっている。
答えなんて、最初から、それこそ、中学一年の頃から出ている。
気丈に見えて、それでいて苦しみを一人で抱え込んでしまう夏木を、放っておけなかった。最初は父性のようなもので接していて、けれどその思いが転じるまで、時間なんてかからなかった。
俺をかわいそうな人として見ずに、ひとりの男として見てくれる相手。
俺を俺として評価してくれる人。
俺を見て、俺の言葉に、笑い、怒り、困り、共感してくれる人。
ああ、大切だ。夏木の居ない日常なんてもう、想像できないくらいには大切で。
けれど、俺が告白してしまえば、その時は――
「オレが告白するって言っても、兄さんは踏み出そうとしないのか。……本当に、いいの?」
「……ろ」
やめろ。やめてくれ。
かすれた声は、喉に引っ掛かったように、思うように出てくれない。
遠く、数メートル先に夏木がいる。雪がちらつく中、夢を笑いあう彼女の姿が、観衆の中にいる。
その背中が、ひどく遠い。考えれば考えるほどに、想えば想うほどに、俺たちの間に途方もない距離があることを錯覚させる。
「俺は……約束、したんだよ」
自分に言い聞かせるための言葉に、航大は何も言わない。
ただ、小さく息を吐いて、航大もまた夏木たちのところへと歩いて行った。
三人並んで、本当の姉弟のように、笑いあう背中。
それが、遠くて。
自分一人が放り出されたような孤独感に、胸が苦しくなった。
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