第26話 フォース・スクール・ホワイトクリスマス4

 落ち着いた店内に、バイオリンの優しい音色が響き渡る。聞いたことがある曲だったけれど、タイトルは思い出せなかった。どこか悲しげな音色は、感傷的な心にしみこんで、心の琴線を震わせる。

 やがて、店員がカップを二つ運んできて、それぞれ僕と板垣君の前に置いて、ごゆっくりと告げて去っていった。

 白い湯気が、温かな店内の空気に混じって消えていく。見下ろせば、黒々とした液体に、覇気のない僕の顔が映っていた。

 思い出したように体が熱を帯び、僕は慌ててコートとマフラーを外した。店内に入った時点で防寒具を外していた板垣君は、なぜかじっと僕を見ていた。

「久しぶりだな、雪村」

「うん、久しぶり」

 板垣君のことを、僕は計りかねていた。何をしたいのか、どうして僕を喫茶店に誘ったのか、何一つ見えてこなかった。

 探るような視線が痛くて、僕はコーヒーに口をつけて場を濁した。

「元気そうだな」

「そう……かな?」

 言われて、僕は考える。僕は元気なのだろうか。確かに、大きな病気はしていないし、風邪で学校を休んだことはなかった。けれど時折全てがどうでもよくなって、学校をさぼった。親は特に何も言わなかった。

 それから僕は、板垣君に聞かれるまま、学校の話をした。どこに通っているのか、部活には入っているのか、部活ではどんなことをしているのか、授業はどうだ。学校はどんな感じなのか、休日は何をしているのか――彼は、僕の全てを暴くように質問を重ねた。

 受け身の僕は、当たり障りのない平凡な僕の高校生活を話した。その間、僕が板垣君に何かをたずねることはなかった。

 僕はいつだって、受け身で、流されるように日々を生きていた。それで、十分だった。自らの意志を持って、時流に逆らうようにして生きるのは辛い。他者に身を任せる生き方は、楽だ。たとえそれが、僕が心から望むものを手に入れられない人生だとしても、平々凡々な僕は、きっとそんな人生で満足してくれる。

 そのはずで。けれど、手に入れられなかったものを手に入れた人が目の前にいるから。求めたいと思う僕の心は、いつまでたっても鎮まることを知らない。

 板垣君の言葉が止まる。視線が窓の外へと向かう。降り積もった雪は泥混じりになり、通り過ぎる車が茶色い雪をはねさせて走り去っていく。

 美しいものだって、他に染められて汚れてしまう。僕の初恋も、他の様々な感情に歪められ、けれどそのせいで消えることなく僕の心に居座っている。

 それは劣等感で、惨めさで、敗北感で、後悔で、自分への怒りで、嫉妬で、その他形容しきれないいくつもの感情が混じりあったもの。

 ちらりと、景色を眺める板垣君の横顔を観察する。中学の頃よりも大人っぽくなった板垣君は、ますます男としての存在感を主張していた。顔つきもよく、高校でも野球部に入っているのか、体はがっしりとしている。何より、こんな僕に質問を重ねて辛い時間を少しでも有意義なものにしてくれようとする、いい人だ。

 ……あれ?でも、もともと彼が僕を喫茶店に誘ったのだ。その理由が、まだ解明されていない。まさか僕を質問攻めにするためだろうか。

 視線に気づいた板垣君が、どこか恥ずかしげに髪を掻きながら僕の方を向いた。しまった、このままずっと景色を見ていてくれれば、これ以上会話なくこの時間を乗り切ることができただろうに。

「そういえば雪村は今日、電車に乗ってどこに行こうとしていたんだ?」

「ああ、部活で参加する発表会だよ」

「え?駄目だろ、こんなところに居ては!」

 勢いよくテーブルに手をついて、彼は立ち上がる。僕たちのほかに客はいなかったから、板垣君の大きな声に店主が目くじらを立てることはなかった。

 板垣君が半ば無理やりここへ連れて来たのだ――そんな言葉をぐっと飲み込んで、僕は急かす板垣君に首を振った。

「僕はあくまでも先輩の発表を見学しに行くだけの人だからね。それに、元々遅延で集合時間には間に合わなかった上、満員電車から吐き出されて乗れなかったんだ。次の電車もきっとそうだし、多分会場にたどり着く頃には発表会は終わっているよ」

 それは僕の心からの考えだった。きっと先ほど駅で電車から押し出されたように、僕はこの後も電車に乗っては流れに飲まれて吐き出され、乗りそこなうことを繰り返しただろう。そんな無意味な時間を考えれば、板垣君とここにいた方が少しはましだった。

 いや、ましなのだろうか。ただ無為に過ごすことと、傷口に塩を塗られること。明らかに前者の方がましに思えて、僕はさっさと立ち上がらなかったことを後悔した。

「そう、か。なんか悪いな。俺が無理やりサボらせたみたいになって」

 それでも謝る板垣君は、やっぱり人格者だ。問題ないと言っているのに、板垣君はテーブルに額がつきそうなほどに頭を下げた。

 謝られたからだろうか、僕は少しだけ、僕と板垣君の立場の差が縮まったような、そんな気がした。そして、その思考が僕の醜さを突き付けてきたように思って、自分で自分が嫌になった。

 頭を下げる彼を見て、自分が上に立ったなんて、そんなことはないのに。

 顔を上げた板垣君の目が、まっすぐに僕を捕らえる。何かを探るようなその視線が痛い。一体、僕の何を知ろうとしているのか。開いた口からは、けれど肝心の問いは出てきてくれない。

「あの、さ。板垣君は、その……どこの学校に通っているの?」

 言いながら、気づく。今日の板垣君は、制服だった。そして、胸元には校章が飾られていた。それは、僕の友人の一人が通っている学校のもの。県内では中間クラス。そこに、夏木も通っているのだろうか――そんな質問は、言えずに。

 今度は、板垣君は自分の高校生活を話し始めた。僕はただ相槌を打つだけでよかった。からくり時計が、二度目の曲を奏で始める。

 気づけば、とっくに昼を過ぎていた。

「腹が減ったな。……何か食べるか」

 メニューを確認する板垣君の姿勢は、まだここに居続けることを示していた。

 訳が分からない。もう、十分じゃないか。これ以上、僕を惨めにしないでくれ。

 ちらと窓の外を見れば、雪は先ほどよりも穏やかになっていた。

 雨に変わる気配もなく、寒波に襲われたこの辺りには今も雪がぱらぱらと振り続けている。

 今日は、ホワイトクリスマスなんだ――唐突に思い出した事実に、胸が痛んだ。

 今日は12月24日。恋人たちのための、クリスマスイブ。

 恋人のいない僕には全く関係のない行事で、そして、板垣君にとっては重要な一日のはずだった。

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