第27話 フォース・スクール・ホワイトクリスマス5

「そろそろ僕は帰るよ」

「いや、まだ、もう少しなはずだから」

 何が、もう少しなのだろうか。考えて、一つの確信に至る。彼は、僕を足止めしていたのだろうか。僕を、どこかに行かせないように。

 なぜ?多分、誰かと合わせるため。

 誰かなんて、考えるまでもなかった。

 僕と板垣君の共通の知り合いなんて、僕の記憶にある限りたった一人しかいない。クリスマスイブの今日、板垣君が会おうとしている人なんて、一人しか知らない。

 夏木、由利。

 僕の友人であり、初恋の相手。そして、板垣君の恋人。

 夏木が、ここへ来ようとしているのだろうか?先ほどの電話の相手は、夏木だったのだろうか。

 これまで僕は、板垣君が人格者だと思っていた。己の身を投げうって夏木を助ける正義の男だと思っていた。

 けれど、違うのだろうか。彼は、自分と夏木との関係を僕に突き付けるような、ひどい奴だった。

 多分、板垣君は、夏木に対する僕の想いを知っているのだ。知っていて、自分の恋人としての夏木に会わせることで、僕の初恋を今度こそ容赦なく終わらせようとしているのではないだろうか。

 ああ、そうだろう。だって、恋人に懸想する幼馴染なんて、害でしかない。

 気持ち悪いだろう。すぐに排除したいだろう。あるいは、自分たちの関係を、自分が手に入れた相手を、見せびらかしたいのではないだろうか。

 心が、冷たかった。板垣君が何か言っていたけれど、その言葉が僕の耳に入ることはなかった。

 違う、俺は――彼の言葉は、空虚に響く。

 何が、違うのだろうか。言葉を止めた板垣君が、ぐっと口ごもる。いい奴に、見えた。おかしな思考をする僕とは違う、人格者に見えた。

 僕が、おかしいのだろうか。僕が間違っているのだろうか。ここで夏木と僕を合わせる板垣君がクソ野郎だと思う僕が、おかしいのだろうか。

 わからない。わからないけれど、わかることもある。

 僕は、板垣君の隣にいる夏木を、見たくなかった。今の醜さを炸裂させる僕を、夏木に見られたくなかった。

 同時に、ここで夏木に会うことで、初恋を今度こそ終わらせて、腐った泥沼から這い上がることができるんじゃないかなんて、そんなことを考えた。

 けれど、もう一度板垣君の対面に座りなおすことはできなかった。

「お前は、夏木がどんな思いで――」

「そんなこと、知らないよ。君たちだって、僕がどんな思いか、知りもしないくせにッ」

 さすがに、怒りが止まらなかった。

 一体、僕の何をわかった気になっているのか。僕の何を理解したようにふるまっているのか。

 気持ち悪くて仕方がなかった。

 夏木の思い?そんなものわかるものか。

 僕がどれだけ夏木が好きだったか、夏木も板垣君も、気づきもしていないんだ。だから、こんなひどいことができるんだ。

 僕が夏木と板垣君が付き合ったという話を聞いたとき、どれだけ苦しみながら祝福の言葉を口にしたと思っているんだ。

 二人の仲睦まじい様子をうわさに聞いて、どれだけ胸が苦しかったと思っているんだ。

 自分が出遅れたことに、どれだけ絶望していたと思うんだ。

 こうしている今だって、僕がまだ夏木を好きなことを、理解していないくせに。わかろうとしていないくせに。

 それなのに、夏木がどんな思いで?そんなこと、知るわけないだろッ。

 ――言葉は、けれど、やっぱり口をついて出ることはない。

 劣等感のせいか、それとも落ち着いた視線のせいか。

 僕は蛇に睨まれたカエルのように、はくはくと空気を求めて口を動かすことしかできなかった。

 まるで水中の中にいるみたいだった。

 ここは僕がいるべき場所じゃない。居心地が悪くて、動きの一つさえ思うように取れない。

「……さようなら」

「あ、おい!」

 まだ引き留めようとする板垣君に、一度だけ振りむく。

 くしゃりと、顔がゆがんだ。

 どうして板垣君がそんな必死そうな顔をするのか、やっぱり、僕には全く理解できない。

「……僕の気持ちも、解らないくせに」

 捨て台詞を残して背中を向けるのは、やっぱり惨め。

 お金を払い、店を飛び出す。逃げるように、板垣君の近くから走り去ろうとして。

 雪がちらつく世界の中。視線の先に、夏木を見つけた。信号を渡る夏木はまだ、僕の存在には気づいていない。

 思わず背を向けて、隠れるように路地に飛び込んだ。埃とカビの匂いが鼻につき、むせそうになるのを口元を両手で被ってこらえる。

 背後を、誰かが駆けていく。息が詰まる。

 振り向くな――そう心が命じるのに、体は勝手に動いてしまう。

 ちら、と。僕の顔が見えないように少しだけ、背後を見る。その視界、ビルとビルで切り取られた場所を、誰かが走り抜けていく。

 一瞬視界に映ったのは、成長した夏木だった。一目で、彼女だとわかった。

 ここまで走って来たのか、息は弾んでいて、頬が真っ赤になっていた。

 視界から夏木が消えても、僕はしばらくそこから動けなかった。

 隠れるように生きる僕と、ますますきれいになった夏木。その距離は、中学から開く一方だった。

 夏木は、僕に会いに来たのだろうか。

 妄執を、僕は必死になって打ち消す。気のせいだ、僕の思い違いだ。夏木は、僕ではなく板垣君に会いに来たのだ。この雪の中、遅延続きの電車に乗って、恋人に会いにここへ来たのだ。

 絶対に、僕に会いに来たわけじゃない。

 どさりと、室外機から落ちた雪の一部が、僕の首にかかった。

 雪を払い、僕はつかんだままだったコートをはおり、マフラーを巻きなおす。

 そうして逃げるように、夏木が歩き去った道に背を向ける。

 歩く先は、路地の奥。駅とは反対方向だとか、そんなことは構いはしなかった。

 もう、発表会に行く気にはならなかった。もう一度、今度は「電車の遅延のせいで会場に着けそうにありません」と部長にメールを送り、僕はゆっくりと歩き出す。

「ははっ」

 なぜだか、笑い声がこぼれた。

 見慣れない町の中。ビル群と、反対側にはイチゴ農家のビニールハウスの群れ。

 往来の激しい車道の横を、僕は一人、孤独に歩く。

 夏木と板垣君が付き合うようになったと聞いた時には流れなかった涙が一筋、頬を伝った。前から迫る車のライトがまぶしくて目を細める。

 涙でにじんだ光は千々にきらめき、網膜に刺さる。

 惨めだった。けれど、僕には何もできない。

 光が痛くて、目を閉じる。

 瞼の裏、夏木の姿が見えた気がした。

 幼い夏木が、頬を赤くして僕に何かを言っていた。それが何か、話の内容も、いつのことだったかも、思い出せなかった。

 夏木は遠くの人になった。狭い街から飛び出した夏木は、自由だった。

 冷えて冷たい足を動かし、僕は夏木から遠ざかる。

 やがて家屋は途切れて、右も左も、畑ばかりが広がるようになる。

 どこへ続くともしれない道を、がむしゃらに歩く。過去を振り切るように進んでも、後ろ髪が引かれて、立ち止まって背後を見る。

 そこには当然、夏木の姿も、板垣君の姿もありはしない。

 どれだけ遠ざかっても、心に居座る恋心が、燃え尽きることはなくて。

 僕は心底、自分が嫌いになった。


 孤独な僕は一人、今日も明日も、夏木がいない日々を過ごすのだ。

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