第25話 フォース・スクール・ホワイトクリスマス3
僕は多分、それはもう苦い顔をしていた。今すぐに逃げ出したかった。というか、逃げだした。
それなのに。
「ま、待てって」
板垣君は僕の腕をつかみ、逃げることを許さなかった。
強い力だった。そして、大きな手だった。
ひょろっとした僕とはちがう、筋肉質で角ばった固い手のひら。男の、手だった。
板垣君とは違って、僕は男っぽくない。男らしさなんてものはどこかに落としてきてしまっている。女々しくて、臆病で、こんな自分が嫌で仕方がない。板垣君を前にしていると、その劣等感が顕著になる。どうして僕は彼の前にいるのか――困惑は、僕をとどめる板垣君への怒りに転じる。
「痛いんだけど」
「ああ、悪い。でも、いきなり逃げようとするなよ」
逃げるに決まっている。劣等感を刺激してやまない君と、一緒にいたくないんだ。
そんな言葉を告げることは、もちろんできない。だって僕は、そういう人間だから。
もし僕がもっと早くに恋心を受け入れていれば、夏木に告白していれば、何か変わっただろうか。考えて、そして、そんなのできるわけがなかったと思って――心が痛んだ。
背後には、夏木の隣にいることを許された板垣君がいる。彼はまだ、僕を離さない。
恋人に、夏木に付きまとうなと、そう言うつもりだろうか。そんな忠告に意味はない。だって僕は、中学を卒業してからずっと、夏木と会っていない。それどころか、中学三年になってから、夏木と話した記憶はほとんどない。
中学三年生の12月。校内で行われた外部模試の結果が発表された日のことを思い出した。渡り廊下を偶然通りがかった夏木が、ふと僕に模試の結果の話を聞いてきた。
理由は、これまでずっと学年一位をキープしてきた夏木の友人が、一位ではなくなったから。そして夏木の情報網に、校内一位の人物が引っかからなかったから。
当然だ、だってまぐれで学年一位を取った僕は、そのことを誰にも話してなんていなかったから。けれどただ一人、僕が勉学に励んでいた理由であった夏木に聞かれて、僕は順位を答えた。
夏木が僕を見ていたのだ。僕の努力を、僕の成績を予感して、知りたいと思ってくれたのだ。
うれしくて、自慢げに、けれどどこか気恥ずかしく思いながら、僕は順位を告げた。
すごいね、とただそれだけ、夏木は告げた。そこには、それ以上の感想はなかった。
去っていく夏木の背中に手を伸ばすも、彼女は止まることはなくて。
急に、足元が崩れるような感覚に襲われた。
学年の誰よりも優秀な成績をとったとして、それは僕が、夏木の恋人にふさわしい男になったという意味ではない。夏木が好きになる対象になったというわけでもない。僕は夏木を、板垣君を模試の順位で越えて。勉強に集中する中で、僕と夏木たちの間に透明で不可侵な壁ができてしまっていたのを感じた。
そんなもの、きっとありはしないのに。
その壁は、僕の劣等感が生み出した空想の産物だった。あるいは、僕が夏木を諦めるための材料だった。
僕たちには距離があるから仕方がない――そんな方便のための虚構が、僕たちを隔てていた。
夏木が、遠かった。偶然隣に並んだ時、なんとなく隣を歩いてたわいもない話をする夏木の横顔を、僕はじっと見ていた。見ていることしか、できなかった。曖昧な返事を返しながら、どうして僕はここにいるのだろうかと思った。だって、夏木の隣にいるべきは、僕じゃない。僕ではなく、板垣君なのだから。
それでも覚悟を決めて、夏木に手を伸ばしたことがある。その手を取って、彼女に思いの丈をぶつけて、全てを清算して、自分勝手に吹っ切れようとして。
けれど、その告白さえ許されなかった。
僕の指が、彼女の手に触れた瞬間。
夏木はまるで、静電気でも感じたように飛び上がり、僕から距離と取った。
警戒していた。恐れていた。嫌っていた。
そう、見えた。
ああ、気の置けない友人だと思っていたのは僕だけだったのかと。絶望する僕に、夏木はどこか必死な様子で、違うのだと言い募っていて。けれど、その言葉は僕の心に空虚に響くだけだった。
夏木は、僕ではなく板垣君を選んだ。それが、全てだったのだ。彼女は僕のことなんて好きじゃなかった。板垣君が好きだった。ああ、こんな僕を好きになるはずがないんだから。
僕と板垣君は、間違いなく、板垣君の方が優れていた。運動神経も、人間性も、コミュニケーション能力も、男らしさも、全てが板垣君に軍配が上がっていた。
板垣君を前にすると、自分の弱さが、醜さが、無力さが付きつけられて、死にたくなる。何より、板垣君の隣には、幸せそうに笑う夏木がいるのだ。そのことを思うと、僕は胸を掻きむしりたくなる。
逃げたくて、忘れたくて、それでも忘れられなくて。
スマホで誰かに謝罪の電話をしている板垣君を見ながら、彼の腕から解放された僕は空を見上げた。今もまだ、雪はしんしんと降り続けていた。
積もった雪が、大地を覆う。ホームから見える畑は白一色で、そこが田んぼだったのか畑だったのか、あるいはただの荒地、空き地だったのかもわからない状態にしていた。
僕の初恋の傷も、そうやって雪が覆い隠してくれればいいのにと思う。全部全部白く染めて、塗り固めて見えなくする。
でも、雪だと解けて、いつか傷はさらされてしまう。そう思えば、毎年傷を再確認させられることになって、傷を受け入れるのも遅くなって、余計に気が滅入るかもしれない。
そんな余計なことを考えている間に、板垣君は電話を思えた。
スマホから耳を離して小さく息を吐いた板垣君が、僕を見る。真剣なその目が、僕に何かを求めていた気がした。凛々しい眉の下、射貫くように細められた目を前に、体が硬くなる。刺激された劣等感に心が悲鳴を上げて、逃げ出したいのに、板垣君の言葉にできない希薄に、足がホームのコンクリートに縫い付けられたように動かない。
こんな僕に、彼が何を求めることがあるだろうか。
駅のホームから移動して、改札を出て。
彼はどこか慣れた様子で僕を連れて街を歩いた。
雪一色の町は、駅近くは視界が開けていたけれど、少し歩くだけで家屋が軒を連ねるようになった。やや色あせた直売所から、民家、カラオケボックス。そこに十階建てくらいのビルやアパートが混じる。
ところどころに存在する雪だるまが子どもの存在を伝えてくるけれど、さびれた印象のある町に子どもたちの歓声は聞こえない。雪が音のすべてを吸い込んでしまったように、この町には異様な静けさがあった。
並ぶ高い建物の一角、ビルの一階テナントを使った喫茶店に板垣君は入っていく。
店内に入ればまず、むわりとした熱気が出迎える。
寒風で冷えた体は表面からほぐされていって、緊張の糸が解けるように小さな吐息が漏れる。
吸い込んだ息にはコーヒーの濃い香りがしていて、バイオリンの音色が落ち着いた木目調の店内の穏やかさを引き立てていた。
慣れた様子でテーブルの一つに勝手に座る姿から、彼がここの常連なのだと思われた。
高校一年生にして喫茶店の常連なんて、本当に、僕とは違いすぎる。こうした大人びたところを、夏木は好きになったのだろうか。
考えて、コーヒーを飲んだわけでもないのに口の中に苦いものが広がった。
勝手に考えて、勝手に打ちのめされて、勝手に傷つく。
なんて、惨めなんだろう。
「……」
無言の時間が過ぎていく。喫茶店に入ってから、板垣君と僕はコーヒーを注文し、それからじっと品が届くのを待っていた。
僕たちには、直接の接点なんてほとんどありはしない。せいぜい、何度か同じクラスになったことのある、元級友。恋敵というのもおこがましい間柄でしかない僕が、高校生になって初めて、板垣君の前に座っていた。
敗北者として。
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