第22話 サード・スクール・ホワイトクリスマス8
病院に行くのは固辞して、私たちは、壊れた車が消えて、破壊されたフェンスが無残な姿をさらす光景をならんで眺めていた。
夕日が世界を染め上げる中、私は視線を動かし、まっすぐに板垣くんを見る。
「お願いが、あるの」
自分でもこれはないだろうと思いながら、私は、こんな私を友人だと言ってくれる板垣くんの良心につけ込むようなことを言おうとしていた。
のどがひどく乾いていた。緊張と罪悪感で、今にも倒れてしまいそうだった。
けれど、板垣くんはじっと私の言葉を待ってくれていた。
まっすぐな目が、私を捉えていた。きれいな目。純粋な、毒に染まっていない者の目。私とは違う、正義の目。それは、彼にも共通するものだった。
私は、自分の醜さを知っている。自分の体の内が、ヘドロのように真っ黒なことを知っている。秘めた思いは、もはや直視できないような醜悪な物へと変貌を遂げていた。
まじりあった多くの感情は、一度泣いて表層を吐き出したところで、元に戻ることはない。
板垣くんを傷つける言葉かもしれない。友人、親友を裏切る発言かもしれない、けれど、これだけは私の口から言わないといけなかった。
「私は――」
風が吹く。どこかの屋根の上に積もっていた雪が舞い散り、一瞬、互いの姿が見えなくなる。
「―――が好き」
心臓が激しく脈打っていた。板垣くんは顔をそむけることなく、表情を変えることなく、ただ私の心を見透かすように、まっすぐな目をこちらへ向けていた。
「ああ、わかっている」
静かにそう告げて。それから彼は、ゆっくりとその手を伸ばした。
差し出されたその手を、恐る恐る握り返す。がっしりとしたその手のひらは、私とは違った、男の人のものだった。その手に、恐怖は感じなかった。
「……ふざけたお願いだと思うの。許せないって、怒ってくれてもいい」
「怒るわけがないだろ」
「……ほら、怒ってる」
「ああ、くそ。これはお前への怒りじゃねぇよ」
わかってる。板垣くんは、私のために、他人のために怒れる人。私を思って、私のお父さんに、怒ってくれているんだよね。
ああ、あなたは優しい。私が罪悪感で首を絞めたくなるほどに、優しすぎる。
そんな優しさに付け込んで。それでもあなたはきっと、断らない。
「お願い。……私を、助けて」
「おう!」
決意に満ちた、男らしい掛け声。野球部で鍛えたその肺活量が響かせる声は、遠く、灰色の空の先まで届くかのよう。
いつもの板垣くんを、板垣峻佑くんを見て、私は少しだけ笑った。
互いに顔を見つめる気恥ずかしさから、私たちはどちらからともなく視線を逸らす。
空はもうすっかり茜色をしていて、灰色の雲もうっすらと赤く染まり、夕暮れを告げていた。
吹き付ける風も、昼よりもずっと寒い。その風には、三度降り出した雪が乗っていた。
「……あ」
盛大なやらかしを思い出したような声音で、板垣くんがつぶやく。
何だろうと思いながら、彼を見上げる。凛々しい眉をさげる彼は、叱られるのを予感した子どものような顔をして、告げる。
「夢と航大をほったらかしだ」
「……ああ!」
すっかり忘れていた。
私たちは慌ててショッピングモールの中に戻り、おもちゃ売り場に二人の姿を探した。
果たして、そこには待ちくたびれてベンチで眠った夢ちゃんと、彼女を守るように座る航大くんの姿があった。
「遅い!」
怒りの声に、私たちは平身低頭で謝って。
腕を組んでみていた航大くんは、うむうむとうなずいて、小さく笑った。
「よかった。仲直りしたんだな」
その言葉に宿る、一言ではとてもではないが表せない感情にドキリとした。
子どもは、年上の人たちが思っているよりもずっと大人を見て、大人を知り、大人に近づいている。
幼い印象の拭えなかった航大くんが見せた笑みは、言葉は、ともすれば私たちよりもずっと大人のそれだった。
彼は、私に何も聞かなかった。泥だらけで、服の一部を破った板垣くんにだって何も問わず、ただぺしぺしと夢ちゃんをたたいて目を覚まさせる。
寝ぼけ眼をこする夢ちゃんは、私に気づいてふわりと笑う。その安心しきった笑みが、すでに溶け切った私の心に、さらなる熱を与える。
「ふふふ……お姉ちゃん、あったかい」
抱き着いた彼女をそっと抱き上げる。航大くんの方は、板垣くんに肩車をしてもらっていた。
そうして私たちは板垣家に帰り、お昼ご飯の予定だった豪華なごちそうを、少し早い晩御飯として食べた。
その時間は幸せで、頬や体のあちこちの痛みなんてほとんど思い出さなかった。
そこには、家族があった。理想の家庭があった。
ただ、その中にいる私はどうしようもなく他人で、そして板垣くんを利用するひどい女だと思うと、やるせなさで胸がいっぱいになった。
「……本当に、いいのか?」
「うん。大丈夫。それよりも板垣くんは夢ちゃんと航大くんと一緒にいてあげて」
外はもうすっかり暗くて、身が凍るような寒さをしている。玄関先で別れの挨拶をする中、板垣くんはやっぱり送っていこうかと、寒そうな格好で外に出てこようとする。
そんな彼を無理やり扉の奥に押しやって、私は努めて明るく笑う。
大丈夫だからと。もう、今日はいっぱい、大切なものをもらったからと。
何か言いたげに私を右ほおを見ていた彼は、けれどその思いを言葉にすることはなく、覚悟を決めた男の人の顔でうなずいた。
「また、いつでも来てくれ」
「うん。よろしくね」
うなずき、そして、背を向けて闇の先へと歩き出す。
コートのポケットに手を入れ、フードを目深にかぶって舞い散る雪から体を守る。
体を震わせながら、一歩一歩、凍り始めた雪を踏みしめて進んでいく。
曲がり角に差し掛かったところで振り返れば、そこにはもう板垣くんの姿はない。しまった扉は、けれど私の心持ちのせいか、いつでも歓迎するような、温かさを存在感を放っている気がして。
抱きとめられた際に伝わった熱に背中を押されるようにして、私は冷たい夜の向こうへと一人歩を進めた。
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