第21話 サード・スクール・ホワイトクリスマス7

 走りながら、お父さんがお酒片手に、遺影に向かって話していたことを思い出していた。

 私のお母さんは、お父さんの酒癖に辟易していた。私がもうずっと幼い頃、お父さんは今みたいに酒に飲まれていた。すぐに家を出ていきますと告げたお母さんを、お父さんを必死でなだめた。そして禁酒の約束を取り付け、お父さんは律儀にそれを実行した。

 仕事先でも、お父さんはお酒を飲まなくなった。そうして、夫婦の関係は一見良好なものに戻ったかに見えた。

 けれど、一度粗が見つかれば、ほかにも無数の気に食わないところが出てくるものだ。

 例えば、お父さんが家事をすべてお母さん任せにしていたこと。片付けができない人だったこと。女性は子どもを産んだら子育てと家事をして家を守るものだとしてお母さんの仕事の復帰を拒否したこと。

 他にもいくつものことがお母さんを苦しめ、とうとうお母さんはある日、堪忍袋の緒が切れて、突発的な家出をした。その度にお父さんはお母さんと交友関係のある相手に片っ端から電話をして、お母さんをなだめて、帰ってきてもらった。

 確か最後の家での理由は、おもちゃを出しっぱなしにしていた幼い私にだらしない夫の面影を重ねて、我慢ならなくなったとのことだったか。父が父なら母も母というべきか、あるいはそれほどにお母さんが追い詰められていたということか。

 真相はもう、わからない。

 荷物を適当に手提げかばんに詰め込み、お母さんは家を飛び出した。すぐに気づいたお父さんは、慌ててお母さんの後を追った。それは冬の日、具体的には12月24日。雪が降る、ホワイトクリスマスの日だったという。

 二人は寒い冬空の下で鬼ごっこをした。お母さんが逃げ、お父さんが追う。

 それは、二人にとってはもう慣れた日常の一幕でしかなかった。

 結果はイーブン、あるいは母の逃げ切りだった。

 お父さんに追われていたお母さんは、信号無視をして道路に飛び出した。

 そして、車に引かれた。打ち所が悪くて即死だったという。

 そうして、お母さんは死に、私たちは二人になった。

 お父さんはいつも、遺影に向かって「おれのせいだ」と言っていた。けれど時には、由利がおもちゃをしまっていたらと、私に母の死の責を求めた。

 幼い子どもに何を求めているのだと思うが、今ではもうお父さんの中で、私はお母さん殺しの罪人となっている。

 酒と現実逃避の末に、お父さんはもうまっすぐ世界を見ることができなくなっていた。

 その歪みにはきっと、お父さんがお母さんと死に追いやったという、近隣住民のうわさも影響していた。

 愛した女性は自分の目の前で死に、街の人はお前が妻を殺したのだと責め、成長していく私はお母さん似に育ってますますお父さんの心を刺激した。鏡に映る私は、日増しに遺影の中のお母さんに似ていった。

 そのことが、お父さんを追い詰めていった。

 お父さんは、狂っていった。

 ショッピングモールの外は、止んでいたはずの雪が再び降り始めていた。曇天の空から降る雪の世界へと、一瞬だけ踏み出すのを躊躇した。

 けれど、今更だった。

 足はもう感覚がないほどに冷え切ってしまっていて、足先から全身へと寒気が伝わっていた。

 急速に心が摩耗していっているのを感じた。板垣家という仮宿を失った私にはもう、頼れる世界はない。自分をさらけ出さす必要が無く、それでも自分を受け入れてくれる酔狂な場所はもう、私にはない。

 一歩を踏み出し、踏み固められた雪の上を走り出す。何度も滑って転びそうになりながら、家へと急いだ。

 帰ったところで、どうにかなるわけでもないのに。今は無性に、家に帰りたかった。

 氷解しているがゆえに傷ついていく心を凍り付かせ、私はぎりぎりのところで踏みとどまって生きるのだ。

 前に、前に。ただ、前に。

 強まっていく雪が、急速に視界を不明瞭にしていく。フードをかぶり、冷たい耳を守る。

 道路を渡り、先へ、家へと急ぐ。

 その時、急ブレーキが鳴り響いた。歩行者信号は青。私と並行するように直進するはずの車が、雪のせいかスリップして、私の方へと近づいてきていた。

 真っ黒な車体を見ながら、遺影に向かってつぶやくお父さんの言葉を思い出した。

 お母さんが死んだ日も、雪が降っていたこと。前日に積もった雪は一部が溶けて再び凍り付き、路面は最悪の状況だったこと。晴れの日であれば止まれたはずの車は、けれど雪のせいで急ブレーキを踏んでもタイヤが滑って止まらず、お母さんは車に引かれたのだと。

 雪のせい――あぁ、何だ、ホワイトクリスマスなんて、クリスマスの雪なんて、ろくなものじゃない。

 お母さんの言葉は嘘だったのだ。

 雪は、呪いだ。雪が降るクリスマスは、私たち一家から命を奪っていく。かつては母、そして今は、私――

「由利ッ」

 声が聞こえた。聞きなじみのない響きで、耳になじんだ男の人の声が響いた。

 急ブレーキの音。

 体を押す感覚。

 次いで、私は誰かに抱かれながら地面へと投げ出される。

 すれすれを車が通っていき、歩道に乗り上げる。車は工事フェンスにぶつかって、甲高い破壊音を響かせて止まった。

 滑るように数メートルを転がり、止まる。

 バクバクと心臓が嫌な鼓動を刻む中、私は呆然と、視界いっぱいに広がる灰色の空を見上げていた。はらはらと、雪を舞い散らせる空。その世界に、私はまだ、溶けていかない。

 荒い息が聞こえた。手に触れる茶色い雪が冷たかった。泥っぽくなった雪が解け、服にしみ込んでいく。そのせいか、私を抱く人の温もりをひどく強く感じた。

 頬が、冷たかった。何かに引っ掛かったらしく、マスクがどこかへ飛んで行ってしまって外気にさらされていた。傷が、再びあらわになっていた。

 でも、もう、どうでもよかった。

 ううん、それよりも心配すべきことが、気になることがあった。

「板垣、くん?」

 私を呼んだ人を、呼ぶ。私を抱きしめる彼を、私の体を抱きしめて離さないその人を、呼ぶ。

「危なかった……無事で、本当に良かった」

 ほっと安堵の息を吐く彼の顔を見た瞬間、私の心の中に無数の言葉が沸き起こった。

 どうしてここにいるのか、なんて危ないことをしたのか、どうしてこんな私を助けるために命を危機にさらそうとするのか。

 それらすべてをひっくるめて、私は「どうして?」と震える声で板垣くんに尋ねて。彼はきょとんと首を傾げた後、それからなんてことないという風に告げた。

「友人を助けるために、理由なんかいらないだろう?」

 頬に熱を感じた。右の頬がじくじくと痛んだ。こんな私を、お父さんに暴力を振るわれて、けれど色眼鏡で見られたくなくて、手の中にあるわずかな幸福を、大切な人間関係を失いたくなくて、虐待の事実を黙っている私を。体のあちこちに、顔にだってこんな傷を負っているような醜い私を、それでも彼は、板垣くんは、友人だと言ってくれるのか。

 頬が、再び傷んだ。伝う涙が、傷にしみた。

 心の奥からあふれる安堵が、全ての感情を押し流す。

 それでもひねくれた口は、まっすぐな言葉を吐き出してはくれない。

「馬鹿。死んだら、どうするの……」

「大丈夫だ。死なないって確信があった。俺一人じゃ、間に合わなかったかもしれないけどな」

 私を抱きかかえながら起き上がった彼の視線を追う。

 視線が向く先。そこには、腰を抜かして、呆けた顔で私を見る俊介くんの姿があった。

 私を支えながら立ち、板垣くんは俊介くんに親指を立てて見せる。

 俊介くんも、震えながら起き上がって親指を立てて返す。

 そこには、男の友情があった。

 方や腰を抜かして座り込み、方や危機に飛び込んで泥の中を転がる。

 対照的で、けれどどちらも格好いいと思うのは、私の目が曇っているからだろうか。

 胸が、温かかった。感動した。うれしかった。幸せだった。

 私のことを見て、心配して、危険に飛び込んでくれる人がいる。

 その実感が、私の心を、どうしようもなく溶かしていく。

「ふふっ」

 なんだかとてもおかしくて、私は思わず笑っていた。笑っていると意識しながら、心から笑えていた。

 うれしくて、心が温かくて、同時に死んでいたかもしれないという恐怖が、今更ながらに私の心を襲った。

 涙が、あふれた。ずっとこらえていたはずのそれはもう、とどまることを知らなかった。

 そっと、板垣くんがフードをかぶせてくれた。

 声を押し殺し、板垣くんのコートを握って顔を押し当て、泣き顔を隠すように私は泣き続けた。

 大きくて、勇敢で、お人好しで、熱血漢で、けれど憎めない、私の大切な友人。

 彼の背を借りて、私は心に凝っていたすべてを押し出すようにして、泣いた。

 遠くから聞こえてきたサイレンの音に我に返った。気づけば雪はやんでいて、視界は開けていた。私の頬を隠すように、板垣くんは丁寧に私のマフラーの位置を調節し、頬の傷を人目から隠してくれた。

「それくらい自分でできるよ」

「あまり顔を上げない方がいい。泣いてぐちゃぐちゃになった顔が見えるぞ?」

 デリカシーの全くないその言葉を聞いて、私が板垣くんの脇腹に肘打ちを食らわせたのは仕方のないことだった。

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