第18話 サード・スクール・ホワイトクリスマス4

 気づけばずいぶんと空腹になっていて、一階の食料品売り場から漂ってくる醤油の香りがすきっ腹を刺激する。そういえば朝から何も食べていないと思い出して、ちらと先を行く小さな背中へと目を向ける。

 両手を振ってずんずんと進んでいく夢ちゃんは止まってくれる気配を見せない。

「……ええと、夢ちゃん?」

「はい!何でしょうかお姉ちゃん!」

「んー……とりあえず、力強いね」

 絶対に聞くべきことはそこではなかったけれど、私は気づけばそんな質問をしていた。

 ぐ、と夢ちゃんは急所を突かれたような顔をして、空いている手で自分の胸を押さえた。役者みたいというか、わざとらしさがある。多分、兄弟で作り上げたノリツッコミの精神が顔をのぞかせている。

「気づいてしまいましたか……わたしのこの、お兄ちゃん譲りのゴリラパワーを」

 よよよ、と泣き崩れるように告げて。

「誰がゴリラだ」

 静かな怒りの声が、夢ちゃんと私の頭上から降る。

 ドゴ、とおよそ人体が鳴ってはいけない音を立てた拳骨を食らい、夢ちゃんは後頭部を押さえてしゃがみ込む。ついでに腕を組んでいた私もバランスを崩して下方へと引き寄せられて、夢ちゃんと側頭部が激しくぶつかった。

 痛みに倒れそうになっていた私の腹部に、大きな腕が支えに入る。顔を上げれば、すぐ目の前に板垣くんの顔があって、思わず私は呼吸を止めた。

「あー!兄ちゃんの変態め!」

「わー、王子様ー!ひゅー、カッコイイー!」

 弟の航大くんがここぞとばかりに囃し立てる。もちろん、夢ちゃんも便乗を忘れない。そのせいか人目が集まり、顔がひどく火照った。板垣くんが触れているお腹のあたりが、ひどく熱い。

 それから、視線が自分の頬に向いているんじゃないかと怖くなって、片手でマフラーを引き上げる。軽く触れればそこにはちゃんとマスクがあって、ほっと胸をなでおろす。

 大丈夫だ。今日は完全防御姿。顔の赤さなんてわかるはずがない。

 金縛りが解けたように動きだした板垣くんが、ロボットのようにぎこちない動きで私から手を離す。

「す、すまん」

 告げる顔は真っ赤で、私まで恥ずかしくなってうつむいてしまう。

 視線をさげた先、どこかわくわくした表情の夢ちゃんと視線がぶつかる。

「……ううん。支えてくれてありがとう」

 そっとお腹から手を離した板垣くんの顔を見上げ、私はできる限り心を落ち着け、丁寧に頭を下げた。

 それから改めて板垣くんは私――ではなく夢ちゃんへと視線を向けた。

「突然『レーダーに反応あり』とか言って走り出したと思ったら、何をしてるんだ?」

「お姉ちゃんレーダーがビビッと来たから連れてきたの」

 すごいでしょほめて!と胸を張る夢ちゃんを見て、板垣くんは顔に手を当てて盛大な溜息を吐いた。

「いや、夏木にも自分の用事があるだろうからいきなり拉致みたく連れてくるなよ」

「でもお姉ちゃん、迷子の幼児みたいに膝を抱えてうずくまってたよ」

 迷子の子ども――自分の先ほどの状態を端的に言い表している気がする表現に、私は思わずよろめいた。本当か、と尋ねる板垣くんの視線が痛かった。

「ちょっと!ここは用事と幼児を重ねてあげたわたしの素晴らしいセンスにカンメイを受けるところなの!」

「そんなすごいのか?」

「うん。これでも学校でラッパー選手権第一位だったんだよ。わたしの腕の高さが分かったでしょ」

「……なぁ航大。今の小学校って一体どうなってんだ?」

「え?昔と変わらないと思うよ。ただオレたちが学園の天下を取っただけで」

「お前が昔の何を知ってるんだよ……少なくとも俺が知っている小学校の気配が無いんだが」

 こともなげに告げて見せる航大くんの言葉を受けて、板垣くんはとうとうすべての思考を投げ出したみたいだった。私たちと同じ小学校に通っているはずの夢ちゃんと航大くんは、私たちとはずいぶん違う学校生活を送っているみたいで、それはそれで面白い。

 その違いが例えば、私の頃に会った行事が大人の事情でなくなってしまうことと関係しているのだろうか。

 状況が変われば経験できることも変わる。それでも学校は必死に児童により良い経験を積んでもらおうと悪戦苦闘して、その結果がラッパー選手権……さすがに少し違う気がする。

 ふるりと大きく首を振ってから、それで、と板垣くんは改めて私を見た。

「今日はやけに重装備だな」

「え……まあ、寒かったから」

「ここは暑いよ?」

「そうそう、コートなんていらないぜ?」

 だから脱げと引っ張ってくる航大くんと夢ちゃんをなだめながら、さてどうやってこの場から脱出しようかと考える。

 ナイーブな今日の私には、夢ちゃんたちの相手は厳しい。時折食事に誘ってもらって話もしているけれど、今日は気を抜けばつい家庭の事情をしゃべってしまいそう。

 そうでなくても頬の傷を見られれば一発でごまかせなくなる。

 それなのに。

「それじゃあお姉ちゃん、一緒におもちゃを見に行こ!」

「オレのも見るんだぞ!」

 夢ちゃんと航大くんに両手を引かれて、私はなし崩し的に板垣家の買い物に付き合うことになった。

 小学三年生の夢ちゃんと五年生の航大くんの力には、私一人ではかなわなかった。というかやっぱり、二人とも異様に筋力がある。さっき夢ちゃんが言っていたように遺伝、だろうか。

 ちらと横を見るも、板垣くんは私の視線に気づいていないようで、苦笑しながら夢ちゃんと航大くんを見ていた。その視線は、相変わらずお父さんのそれ。

 なんだかおかしくて、そんな気持ちが伝わったのか、板垣くんは心から微妙そうに顔をしかめる。表情を隠すように大きな手のひらで顔を覆った彼は、「勘弁してくれ」とぼやく。

「何が?」

「お前まで夢たちみたいな目で俺を見るなよ。最近、揶揄ってくる頻度がひどいんだ」

「それだけ安心して揶揄える相手だと思ってもらえているってことなじゃい?」

「全然嬉しくねぇ……」

「気の置けない関係になれているってことでしょ。すごいと思うよ」

 本当に、すごい。

 家庭を支えながら、二人にあたることもなく、健全な日々を過ごすことができて。それどころか私を気遣う余裕だってある。

 その器の大きさに、懐の広さに、いつだって私は甘えてしまうのだ。

 二人並んで先へ先へとかけていく夢ちゃんと航大くんを視線で追う。

 板垣くんの隣にいるというのが、まるで自分の居場所に落ち着けたような安心感をもたらして、うれしさと、悔しさと、苦しさが胸に押し寄せる。

 心落ち着けることがうれしくて。

 板垣くんに頼りっぱなしなのが申し訳なくて。

 今日だけは関わらないようにしようという決意をあっさりとダメにしてしまう自分のふがいなさに天を仰いだ。

 不審者を見るような視線が痛いので、フードを脱ぐ。

 すぐに視線が生温かいものに変わったのは、四人で仲良し兄弟姉妹だと思われているからだろうか。私は、血がつながっていないのに。それどころか、完全にただの部外者なのに。

 人の目は、評価は、こんなにも信用ならない。

 きっと彼ら彼女らは、私の頬や体のあちこちの傷を見た瞬間、私を「かわいそうな人」として扱うのだ。それが、私のこれまでの忍耐のすべてを棒に振る評価だと、考えもせずに。

「……そういえば、おもちゃって?」

 嫌な思考から逃げるように、話を変える。質問しなくてもその内容は知っていて、けれど確認と、沈黙を無くすための問いだった。

「クリスマスプレゼントだ。プレゼントの習慣もない家だったか?」

「うん、まあ」

「そうか。クリスマスとかあまり気にしないタイプだったな」

 気にしないのではなく、クリスマスイブが命日という別の意味合いを持っているだけなのだが、それは言わずともいいだろう。

 板垣くんは、私にとってクリスマスが少しも価値を持っていないことを知っている。去年、そのあたりのことは見破られてしまったから。

 そういえば、今年の板垣家はどうしたのだろうか。まだお昼前のこの時間だから、午後から去年のようにパーティーをするのだろうか。

 だとすれば、なるべく早く板垣くんたちと別れないといけない。

 そう思いつつも、流される私はおもちゃ売り場の一角にまで足を運んでいた。

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