第16話 サード・スクール・ホワイトクリスマス2

 駅の向こう側。ペデストリアンデッキでつながるショッピングモールの入り口にあるベンチに腰を下ろす。

 思わず零れ落ちた深いため息は、頭上から降り注ぐ街灯の光の中で白くきらめく。

 キキィ、というブレーキ音とともにまた一つ自転車がショッピングモール側の駐輪場に滑り込んでいき、高校生くらいの女子生徒がパタパタと走って階段を昇って行った。

 やがて、訪れた電車がホームに留まり、寒さに身を震わせながら待っていた人たちが、我先にと電車に入っていく。この駅で降りる人はほとんどいなくて、ぎゅう詰めになった電車が、満員だと訴えるようにどこかぎこちなく滑り出す。

 ただいま、雪のせいでダイヤに乱れが発生しております――人気のなくなったホームに、アナウンスの音がむなしく響いていた。

 遠ざかっていく電車のまばゆい光を見送りながら、私は空を見上げる。

 ショッピングモールの開店までは、まだ長い。この場所であと二時間ほど寒さに震え続けることを思うと、気持ちが折れそうだった。

 ナイーブな心は、ナイーブな考えを量産する。

 誰にも見つかることなく今日という日を乗り切れば――明日からの約一週間、部活もなければ希望もストレス解消もない年末年始がやってくる。

 明日からも街をさまようべきだろうか。駅前のショッピングモールで時間をつぶすことはできる。問題は、朝から晩まで家に帰らない私をお父さんが不審に思わないか――いや、不審に思われてもかまわない気がする。だって、私に暴力を振るうような親なのだ。その親から逃げるために街に出ることのどこに後ろめたいことがあるのだろうか。

 ただ一つの懸念は、近所の人に遅く帰る私の姿を見られるかもしれないということだ。今年の夏にとうとう仕事を辞めた――多分クビになったお父さんは、基本的に家から出ない。どれだけたくわえがあるかもわからない。おかげで月曜日の今日も、お父さんは家から出ていかない。だから、お父さんが起きるよりも早くに、私は家から逃げ出したのだから。

 生活費と今後の資金稼ぎのために、私は、お父さんはもちろん、学校にも秘密でバイトを始めた。書類作業だから人目にはつかないし、能力重視なおかげで見た目が幼げでもあまり気にされなかった。まあすでに身長が止まっているし、お母さんの形見の化粧品でちょっと外見を整えればそれっぽく見えただろう。書類仕事は、接客業よりもよほど私の性に合っていて、楽しくはないけれど、つらいということもなかった。平均年齢が五十近い女性集団の中に投げ込まれ、全く持って話の合わない愚痴に付き合わされる人間関係由来の心労はあるけれど、その程度。

 おかげで、今の私の手元にはそれなりにお金がある。けれど、できることならほぼ全額残して未来のための資金にしておきたい。

 高校進学だってどうなるかわからないし、受験にもお金がかかる。お父さんに進路を指図されないためにも、受験料と入学料、授業料がいる。特待生を目指して入学料や授業料免除を目指すとしても、お金がないから中退します、では意味がない。

 ああ、本当に、前途多難だ。

「……はぁ」

 吐き出したため息は、長くその場にとどまることも許されず、すぐに風に乗って霧散する。

 時々、無性にむなしくなる。今だって、すべてがどうでもよくなって、このまま駆け出して車道に出て死んでしまおうかと思う自分がいる。

 けれど、死ぬ気にはなれなかった。死ねば、私の死を悲しんでくれる友人たちがいるから。それから、お父さんに対する反骨精神。それらが、私をつなぎとめていた。

 あるいは、正確には走り出す気力が無いというのが正しいかもしれない。昨日までは部活で走っていたというのに、今の私にはもう、走る気力はかけらも残っていなかった。

 吹き付ける風の冷たさに、体が大きく震える。

 このままでは風を引いてしまいそうで、私は立ち上がって付近をぐるりと歩くことにした。

 ぎゅぎゅ、と雪を踏みしめて、私は景色を変えた街を歩く。周りを見れば、屋根に雪が積もったことで文字通り銀世界と呼んでいいような光景が広がっていた。続く白の世界を切り裂くように、駅前から続く大通りの道がなだらかに上っていく。その先には丘があり、丘の向こうには海がある。白と青のコントラストが美しいのだろうけれど、ここからでは丘が邪魔でみることはできない。空が晴れていれば、きっとさらに美しい景色がそこにあるのだろうな、と思う。

 けれど、固い雪を踏みしめるのと、溶けかけの雪を踏みしめるのでは、私は前者の方がありがたい。だから晴れているのはあまり好ましくない。

 そう思いながらも、もう何度も車が通っていった車道には溶けて土と混じった泥色の雪が広がっていて、明日は道路が凍って大変なことになりそうだった。ひどく雪が降ると、なだらかな坂ばかりなこの街は一つの事故のせいで大事故、大渋滞が起きてしまいやすい。車の事故に巻き込まれた歩行者が大けがをしたという話もしばしば耳にする。

 大都市に比べれば小さなものなのだろうけれど、駅前には小規模なショッピングモールと塾の建物がいくつか、それから喫茶店や自転車屋、食事処などが詰まったビルが並ぶ。芳醇な香りを漂わせる喫茶店は開業までまだ長く、深いコーヒーの匂いは香ってこない。夕方になると生徒が吸い込まれていく学習塾は明かり一つなく、入り口のガラス扉の前には灰色のシャッターが下りている。

 駅前の街はまだ、眠っていた。車通りは多くて、駅にも次々と人が吸い込まれていくけれど、この町が目を覚ますにはまだ少しばかり時間がかかる。

 周囲を大きく一周し、それでも足りなくて、一度駅の改札前へと入った。

 座る場所はなくても、そこは壁で風がさえぎられるため、ショッピングモール入り口のベンチよりも幾分か温かかった。

 改札出口突き当りの壁に背中を預けて、電光掲示板をぼんやりと眺める。緑と橙の色が中心のはずのそこには、赤い光で「10分おくれ」や「20ふんおくれ」なんていう遅延の文字が見える。時折響くアナウンスも、電車の遅れと謝罪の言葉を繰り返す。その音を聞いていらだったように眉間にしわを寄せる学生や社会人は、せかせかと改札をくぐり、ホームへと降りていく。

 スーツ姿の男性も、セーラー服の女子高生も、コート姿の女性会社員も、髪が真っ白になったお年寄りも、学ラン姿の男子高校生も、杖を突いた人も。

 皆が、同じように改札をくぐり、流れに乗ってホームに消えていく。そこには無秩序のような秩序があって、それに逆らうように立ち尽くす自分が、ひどく異物感のある存在に思えた。

 九時になり、ショッピングモールに入るころには、靴に水がしみ込んで足がひどく冷たくなっていた。

 暖房の効いた店内の一角、ベンチに腰を下ろして靴と靴下を脱ぐ。顔をのぞかせた足の指はひどく血色が悪く、その上ふやけていた。じぃんとしびれる感じが、しもやけの予感をもたらす。あのしびれるような痛みを思い出して、思わず眉間にしわが寄った。

 悩んだ末、靴下を靴に詰め込む。素足を隠すように三角座りをして、足をコートの中に埋めた。膝の間に顔を伏せて目を閉じれば、朝から歩き通しだった体は強い眠気を訴える。疲労はすでにピークを越えていて、瞼は重い。

 店内放送を聞きながら眠ろうと目を閉じるけれど、じくじくと痛む頬の熱が眠りを妨げる。

 少し身をよじるだけで、マスクが触れる頬にしびれるような痛みが走る。まるで皮膚の上を電気が流れているような、びりりとした痛み。静電気が肌の上を連続で襲うような痛みは、私が眠ることを許さない。

 それでも、顔を伏せて足の間にうずめている間は、誰にも顔を見られることはないのだという安堵が胸を満たしていた。

 明らかに不審者だろう私に、どうか誰も話しかけませんように――願いは、叶わない。

 運命のいたずらのせいで、私の些細な祈りは一瞬で吹き飛ばされることとなる。

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