第15話 サード・スクール・ホワイトクリスマス1
中学二年生の冬。お父さんはとうとう私の顔を殴った。母と似てきた私に耐えられなくなって来たらしい。
翌朝。
青あざのできた頬を見て、とてもではないけれど学校には行けそうにないと思った。もしこのまま登校すれば、先生はかなりの確率で虐待を疑うだろう。
すでに夏に冬服を着続けてかたくななまでに素肌を見せるのを拒絶してきたために、半ば確信に至っているはず。実際、私の体には絶えず青あざがあって、一度で虐待だと言われてしまうくらいにはひどい体をしていた。
痛みのせいか、あるいは心労のせいか、肉つきも悪くなって、あばらは少し浮いて、頬がこけているように見えるのは、きっと気のせいではない。
解放されたいと、願う夜が無かったわけではない。実際、昨日は鼓動を刻む度にずきずきと痛む頬の熱を感じるたびに、全てを投げ出してしまいたいと思った。
寒い夜。暖房もない部屋の中で布団にかぶりながら、泣くこともできずに体を丸めた。
父の暴行のすべてを、つまびらかに語ってしまいたかった。痛みから逃れたかった。痛むほどにみじめさを感じる日々から抜け出したかった。どうして私はこんな目にあわないといけないのかと、神を恨んだ。
全部、全部、手放してしまいたくて。
けれど、だめだった。
私は、普通でいたかった。
虐待から保護された子どもではなく、普通の、ありふれた家の子どもでありたかった。少なくとも、そう取り繕っていたかった。
何かを察しつつも聞かないでくれるやさしい友人たちに、対等に並べる人間でありたかった。私を温かく受け入れてくれる板垣家に、普通に顔を見せられる状態でありたかった。俊介くんと、離れ離れになりたくなかった。
きっと、私の考えはおかしいのだと思う。
養護施設に入ったって、私が普通じゃなくなるわけじゃない。そんなのは差別だ。
わかっている。
むしろあの家から、お父さんから逃げた方が、私はまっとうな生活を送ることができる。暴力におびえることなく、落ち着ける場所を手に入れられる。
でも、もし保護されたら、私はきっとこの街にはいられない。この街から、出ないといけなくなる。それは嫌だ。たくさんの思い出が詰まった、たくさんの友人がいるこの街から、私は連れ出されたくなかった。逃げたくなかった。
中学卒業まで通えば、私の学力なら県外の私立学校に特待生として入ることも可能だった。そうして寮にでも入れば、逃げるわけでもなく、お父さんから離れることができる。距離が開けば、私たちの関係は収まるだろう。
私が離れるのを妨害することは、たとえお父さんであっても許さない。
私は、私の足で、誰はばかることなく、大手を振ってこの街を出ていく。そのために、私は堪えないといけなかった。
だから、中学二年生の12月25日。
今日、私は部活を休むことにした。
幸い、すでに学校は長期休業に入っている。顧問に連絡する必要はない。ただ、部活を休むだけ。
父から逃れるために、私はこっそりと家を抜け出した。時刻はまだ朝の四時。お父さんが起きるよりもずっと早い時間。
当然まだ日が昇っているはずもなくて、外はひどく暗い。
雪が二センチほど積もったかつてなく寒いホワイトクリスマスの中、街灯にぼんやりと照らし出された新雪の世界を、私は一人歩き出した。
マスクとマフラーをして、ロングコートを羽織り、フードをかぶって完全防備。顔のけがを隠すためのそれは息苦しくて、けれど自分を守るためには欠かせなかった。
誰だって、頬にできた大きなあざを見れば目を剥ける。気にする。でも、それは私の望むところじゃない。
だから、全てを覆い隠して、今日を乗り切る。
もうずいぶんと前に思える、昨年のクリスマスイブのことを思い出した。あの日、雪で白く染まっていこうとする世界を見て、思ったことがあった。
全部、雪に覆われてしまえばいいのに、と。
降りしきる雪の白さで世界が覆われ、私もまた雪で覆われて。
そうすれば、傷だらけのこの体の醜さだって、見えなくなる。傷は隠され、私が必死に取り繕う必要性もなくなって、解放される。
全部、覆われて、隠されて、一生見えなければいいのに。
どこかの店に入って時間をつぶそうと、ゆっくりと駅の方へと歩き出す。さすがにこの時間だと、どのお店もしまっていて、人気だってほとんどない。道を歩いている人の姿はもちろん、細い道だと車の走行だってない。降り積もった雪で路面が凍結しているからかもしれないけれど、走行音の一つもしないのは、逆に不気味だった。
聞こえてくるのは、風がうなるような音と、屋根や木の枝から雪が落ちる音くらい。時々家の横を通ると、室外機の機械音が聞こえてくることもある。
あとは、私が雪を踏む足音。ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏み固める感触は新鮮で、最初の頃は楽しかった。
けれど当然、長く雪を踏みしめて歩けば足は冷える。体温で溶けた雪が少しずつ靴にしみこんできて、足は一気に冷える。
そうなればもう、雪の感触を楽しんでいる場合ではなかった。
コートの襟を立てて、フードをさげる。風から身を守るように体を縮こませ、等間隔に銀世界を照らす街灯の下をこそこそと歩く。
商店にはシャッターが下り、毎朝登校の時にお腹を刺激するパン屋からは、あの芳醇な香りは漂ってこない。さすがにこの時間では今日の販売の準備もしていないみたいだった。
坂を上り、丘の頂上まで到達して。
少しだけ荒くなった呼吸に、習慣だったはずのランニングから離れて久しいことを思い出して気落ちする。
一年生の秋まで続けていたランニングは、痛みと心労からやめて久しく、私が走るのは部活だけ。日に日に強くなるお父さんの暴行と罵声に心がすり減る日々で、けれどそんな日常を乗り越えて来られたのはきっと、大切な友人と、彼の家庭のおかげだった。
ちらと来た道を振り返ったのは、闇に沈む町の中から、その家を探すため。
いくつもの街灯が立ち並ぶ街の中、彼の家を探すけれど、そう簡単には見つからない。せいぜい、海沿いにある大きな医院の建物が、その黒々とした影を強調しているのが伺える程度だった。
いつだったか、確か春ごろにこうして、板垣くんと二人並んで町を眺めたことがあった。
あの時の彼は、確か「いつも下を向いているのはもったいないだろ」なんてどこか気取ったように告げて、私の顔を上げさせたのだ。
アスファルトから離れた視界に映ったのは、夕日が照らす世界。茜色にきらめく水平線と、いくつものさざ波の光がひどくまぶしかった。暮れなずむ光の中にある町の中から、私たちは板垣家と、それから私の自宅を探して、あれかこれかと指をやった。
ふと、吹き抜ける風が過去の思い出を押し流す。
目の前に広がるのは茜色の街ではなく、夜に沈んだ世界。白色LEDの街灯がぼんやりと照らし出す世界からは、温かな記憶の欠片さえ感じ取ることはできない。
まるで自分を拒絶しているような光景に背を向けて、私は歩行を再開する。
雪を踏みしめ、板垣家から遠ざかるように進んでいく。
今日だけは、あの家には近づかないようにしようと。今の弱り切った私の心はきっと、あの家に行ったら、全てを吐き出してしまうから。
駅前まで行けばそれなりにお店もある。それを頼みに、えっちらおっちら坂を下って、海沿いよりも明るい方に向かって、私は歩く。
途方もない道のりに思えたのはきっと、私の心の摩耗の証だった。いつもなら数分で歩ける距離を、十分、あるいはそれ以上の時間をかけて歩く。それは、人気のなさのせいで、あるいは私を引っ張っていってくれる彼が隣にいないからだった。
去年のクリスマス以来、板垣くんとはたびたび登下校をともにする仲になった。とはいっても、待ち合わせをするような関係でもなければ、ましてや恋人同士というわけでもない。
ただ、互いの姿に気づいたら、声をかけて一緒に歩くくらい……正確には、私の姿に気づいた板垣くんが声をかけてくれて、板垣くんがたわいもない話で沈黙を消してくれるだけ。
私は彼の話の半分くらいを何とか聞きながら、いつも心の中で感謝をしつつ歩いていた。
最初の頃は特に板垣くんの友人たちに揶揄いを含んだ声をかけられたけれど、板垣くんが一喝してからは、そんなことはなくなった。
大事なことなんだ――真剣な声で語る彼を思い出して、ちくりと心が痛んだ。
私は、どれだけ彼に甘えれば気が済むんだろう。全部を隠して、ただ彼を都合よく扱って。
そんな自分が、嫌で仕方がなかった。
次第に光が近づいていて、それと同時に空が白け始める。背後から追うように空が明るくなっていき、立ち止まって後ろを見る。
今日の日の出は七時頃。おそらく今の時間は六時四十分かそこらだろうかと思いながら、なだらかに続く上り坂の先を眺める。
海から顔をのぞかせるだろう太陽は見えず、何より、空は鼠色の雲で覆われていた。
すでに三時間近く歩いているのかと思うと、どっと体に疲労が押し寄せた。一体、どれだけ重い足取りだったのか。
すぐにでも倒れてしまいそうで、足は重くて。それでも私は、少しずつ人の営みが始まった朝の街を、一歩一歩、進んでいった。
やがて駅前にたどり着くころには、すでに人はせわしなく活動を始めていて、社会人らしき人達が、雪の積もった中で自転車を飛ばすように漕いで、駅前の駐輪場へと滑り込んでいった。バタバタを走る彼らのピンと張ったシャツの襟やスーツの裾、背中なんかを見て、今日は月曜日なんだ、とぼんやりと思った。
休みボケすることのない社会人の背中には、リフレッシュして生まれた活力が満ち満ちていた。
私とは、違って。
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