第14話 セカンド・スクール・ホワイトクリスマス8
結局食事が終わったのは三時近くになり、私は追い立てられるように玄関に立っていた。
「本当にごめんなさい。コートを借りて、昼食までごちそうになって」
「気にすんなって。第一、お客様だから何もしなくてもいいって言ってんのに片付けしてくれちゃってさ。おかげであいつらが拗ねてるんだよなぁ」
がりがりと後頭部を掻いてぼやきながらも、そこに込められた「仕方ない」という響きには、どこかうれしさが混じっているような気がした。
もう何度印象を塗り替えられたか知らない、弟くんと妹さんに振り回される板垣くんの「お兄ちゃん」としての姿は、少しおかしかった。
「ふふ、ごめんなさい」
目を見開いた板垣くんが、じっと私を見る。
居心地が悪くて身じろぎすれば、途端に元の板垣くんに戻った。元の、なんて、実質今日くらいしかきちんと関わったことがないのだけれど。
だから板垣くんの素がこれだという確証なんてないものの、そこにはどこかつきものが落ちたような素顔があった。
言いにくそうに視線をさまよわせた彼は、ガシガシと後頭部を掻きながら吐息を漏らすように告げる。
「あー……夏木って、そんな風に笑うんだなって」
「……え?」
もう一度口元に手を当てるも、そこにはこわばった顔があるばかり。笑顔なんてほど遠い、苦しみを何とか覆い隠した、能面のような顔。
でも、その頬には少し、いつもとは違う熱が感じられた。
「……今もだが、いつものは何つうか、作り物みたいだからな。さっきのは、思わず心から漏れ出した、みたいな笑顔だったぞ」
そう、なのだろうか。
心からの笑顔なんて、もう作ろうと思っても作れそうにない。いや、作ろうとしている時点でそれは心からの笑顔ではないのだ。
……もし、さっきの私は、本当に心から笑っていたのなら。
私は、この場所でなら、あるいは、板垣くんの前で、なら――
「その、まぁ、自然な笑顔の方はかわいいと俺は思うぞ」
別に、追加の言葉を求めていたわけではない。ただ、恥ずかしそうに頬を赤らめ、視線をそらしながら告げる彼を見ていると、胸に温かさを感じた。
それは、ドロドロに崩れ、それでもなお私の中でくすぶっている初恋とは違う、包み込むような優しい熱だった。
「…………そっか」
どう返したらいいかわからなくて、私はそっけなくつぶやくことしかできなかった。
「ああ」
答える板垣くんの声もまた、先ほどよりもどこか固い。
開かれた背後の扉から、冬の風が吹き込む。
冷たい風が玄関からまっすぐに続く廊下を吹き抜け、あるいは右にあるダイニングへと入り込む。その部屋から、弟くんと妹さんのにぎやかな「さむい」という声が聞こえてくる。
板垣くんは一度口を閉ざし、目をつむる。
それから、照れも保護者然としたあり方もかなぐり捨て、まっすぐな目で私を見た。
「なぁ、夏木。お前さ」
言葉は、続かなかった。続いて、ほしくなかった。初めてのクリスマス。楽しい、祝祭としてのクリスマス。それはここで終わり。今日で終わり。これから先には日常が待っている。それは、私の日常。赤の他人に等しい板垣くんが踏み入る場所ではない。
私の視線に乗せた思いが通じたのか、板垣くんは口ごもり、それから再びガシガシと髪を掻いた。
「それじゃあ、ご馳走様。……さようなら」
今生の別れなんていうと大げさかもしれないけれど、気分は限りなくそれに近かった。
背を向けて、歩き出す。玄関口、靴箱の上に置いてあった幸せそうな家族写真がやけに鮮明に映った。
板垣くんから、もう捨てるからともらった、あちこちに修繕の跡があるコート。それを掻き抱きながら、私は雪の止んだクリスマスの世界へと一歩を踏み出して。
「夏木!いつでもきていいぞ!あいつらもお前が来てくれることを楽しみにしてるぞ!」
背中に投げかけられた言葉で、心が波打つ。
ずるい、それはずるい。あの弟くんと妹さんのことを持ち出されたら、もう一回くらい会わないといけない気持ちになってしまう。
何よりも、気軽に来ていいという呼びかけが、私の後ろ髪を強く引っ張る。
だめだ。私の問題に、板垣くんを、板垣くんたちを巻き込むわけには行けない。
これは私の家庭の問題。私が向き合うべき、私が解決すべき問題なのだ。
だから、全てを吐露してしまいたい気持ちを押し込めて。
背を向けたまま、返事をすることなく歩き出す。
口を開けば弱音が漏れてしまった。私は別に、強い人じゃない。ただ必死に自分の中に苦しみを抑え込んで、取り繕って日々を生きている弱い人なのだ。
だから、私は板垣くんがまぶしかった。
母はいなくて。父も医者で忙しく、一人で弟と妹を含めた一家を養っている板垣くんという強烈な光の前にいると、自分がみじめでならなかった。
「……私は、大丈夫」
私だって、一家を支えている。家の仕事は、私の仕事。板垣くんのように料理上手ではないけれど、一人っ子で自分とお父さんのことを済ますだけだけれど、私だってちゃんとこれまでやってこれた。
だからこれからだって、私は同じように生きていけばいい。
顔を上げれば、そこには灰色の雲に覆われた空が見える。青空は顔をのぞかせず、けれど一部だけ薄くなったその向こうで、確かに太陽が存在を主張していた。
雪は収まり、ガードレールの上に降り積もっていた白は少しずつ熱に溶けて消えていこうとする。
今日のこの町はもう、白く染まることはない。
つぎはぎだらけのコートの隙間から入り込む冷気に、体が震える。
それでも、もう家から逃げようだとか、このままどこかへ行ってしまいたいだとか、そういう気持ちはなかった。
少し軽くなった足取りで、私は家へと向かう。
今日はお父さんの機嫌がいいようにと、そう願いながら。
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