第13話 セカンド・スクール・ホワイトクリスマス7

 ようやく落ち着いた妹さんと弟くんが静かになり、部屋に沈黙が訪れる。

 エアコンの稼働音だけが響く家の中は、けれど寒々しいとは思えない。

 空気が温められているからではなく、家族の温かさのようなものが、家全体を包み込んでいるように感じられたから。

 安心しきったような顔で抱き着いてくる妹さんをなでながら、私は今日が何の日かを改めて思い出していた。

「そっか、クリスマスイブ……だっけ」

 まじかよ、と思わず言葉を漏らした様子の板垣くんが、ガシガシと後頭部を掻く。

 俺はそれなりに緊張していたんだが――というのは、私の空耳だったかもしれない。

「完全に忘れてた感じかよ」

「ううん、クリスマスイブだってことは覚えてたよ。でも……」

 私だって、今日が12月24日で、クリスマスイブであることくらい記憶していた。だからこそ家から逃げ出すように気力を振り絞って部活に出たのだから。

 けれど、私にとってのクリスマスイブは、パーティーの日ではない。祝祭の日でもない。

 クリスマスイブは喪に服す日であり、お父さんから目をそらす日。あるいは、周りの人との落差に落ち込む日。

 そういえば去年は、命日だけはお父さんも私に暴力を振らず、やっぱりじっと遺影を眺めていた気がする。

 だったら、家にいればよかっただろうか。この家の温かさは、私にとっては毒のように感じられた。

「でも、どうした?」

 言葉尻を拾い上げた板垣くんの問いに、体が震える。少し不思議そうに、腕の中の妹さんが私を見て、こてんと首をかしげる。子ども特有の高い体温はじわじわと体に伝わり、凍り付いていたはずの心を溶かそうとしてくる。

 ソファの反対、炬燵の前にどっしりと構えた板垣くんは、まっすぐに私を見ていた。何かを言いかけた彼の言葉は、けれど家中に響き渡りそうな振り子時計が刻む「ボーン!」という音に飲まれる。

「時間だ!」

「お昼だ!」

 わっと駆け出した二人が扉を開けば、廊下のひんやりとした空気が部屋に流れ込んでくる。

「行こうぜ」

「えっと……うん」

 再びハイテンションになった二人を追うように、板垣くんも動き出す。腕の中から消えた熱に少しだけ寂しさを感じながら、私もまたゆっくりと立ち上がり、三人の背中を追って歩き出した。

 案内されたのは、玄関を右手にまっすぐ進んだ先にある部屋。開かれたそこからはスパイシーで脂っぽい食欲の誘う匂いが漂っていた。

「「メリークリスマス!」」

 きれいに重なった弟くんと妹さんが、ぱちぱちと目いっぱいに手をたたく。

 机の上には少し冷めてしまったデリバリーの料理と、ちぎられずにびしょ濡れのレタスが、小さなザルからはみ出して盛られていた。

「夏木はそこに座ってくれ」

 言われるままに、四人掛けテーブルの一角に腰を落とす。

 素早く席についた三人のいただきますの声につられて、私も手を合わせる。

「……うまい!」

「……チーズ!」

「わかったからもう少し落ち着いて食えよ」

 そうぼやく板垣くんの手には大きな骨付き肉が握られている。なぜか遅い昼のクリスマスパーティーの中、私は居心地の悪さを感じながら対面に座る板垣くんを見る。

「お姉ちゃん、食べないの?」

 手を止めた妹さんはぴょんと椅子から飛び降り、私の腕をたたく。

「……え、っと」

 救いを求めるように見た先では、同じく手や口をべたべたに汚した弟くんが椅子から降り、二リットルのジュースのペットボトル相手に格闘していた。

 板垣くんに開けてもらったそれを、弟くんは震えながらなんとかグラスに注ぎ、板垣くんに差し出す。

 反応の無い私を前に頬を膨らませた妹さんは、タオルを手に板垣くんの方へと走り寄り、弟くんが座っていた席によじ登り、顔をさげた板垣くんの口を拭う。逆に汚れが広がったのはご愛敬、なのだろうか。

 初めてのお祝いとしてのクリスマスを前に困惑している私の周りで、弟くんと妹さんはちょろちょろと動き回り、せっせと板垣くんの世話を続ける。

 普通逆ではないのだろうかという突っ込みは、残念ながらの私の口をついて出ることはなかった。

 そんな私の訝しげな視線に気づいたからか、弟くんがにやりと笑って見せる。

「今日は兄ちゃんのいろうび?なんだよ!」

「いろーびー!お兄ちゃんははたらいたらダメなの!」

 ビシ、と板垣くんを指さし、妹さんも告げる。よろしく頼む、と兄の顔をした板垣くんがうなずいた。

「いつもはお兄ちゃんが全部やってくれるから、今日はお兄ちゃんを甘やかす日なの!」

 妹さんは、行儀悪く立ったままピザをほおばりつつ告げる。

「父の日も母の日もあるのに、兄の日がないだろ?だから今日はクリスマスイブで、うちでは兄の日なんだ!……まあ、去年からだけど」

「お兄ちゃんへのおんがえしなの。いつもぜんぶやってくれるから!」

 口々に告げる二人の言葉に動揺しながら、私はされるがままになっている板垣くんを見る。

「……板垣くんが、全部?」

 どこか恥ずかしげに笑う彼は、一度骨付き肉をほおばってから、なんてことないように「母さんがいないから」と告げた。

 病気か事故で死んでしまったか、離婚したのか。

 踏み込んでいいところかわからず口を開いたままにしていると、「死んじゃったんだ」と弟さんが告げた。

「オレもほとんど覚えてないんだ。気づいたら家事は兄ちゃんが全部やってたんだ。だから今日くらいは買ってきたご飯で済まして、兄ちゃんを甘やかすんだ」

 どやぁ、と胸を張る弟くん。

「去年はむしろ惨状を作り出してくれたけどな」

 どこか酸っぱい顔で告げながらも、弟くんと妹さんをなでる板垣くんの顔には慈愛の笑みが浮かんでいた。

 少し、板垣家のことが分かった気がする。兄のようで、どこか親のようにも見えた板垣くんは、その実、弟と妹にとって兄であり母でもあったということだろう。

 私の顔色に気づいたり、コートを貸してくれたりしたのも、普段から鍛えられた家庭力のおかげだろうか。

 そこまで考えて、私が座っている四つ目の椅子を使っているであろう人の存在を思い出した。

「……お父さんは?」

「ああ、父さんなら仕事だ。医者なんだよ。おかげで金には困らないけど、家のことなんてほとんど何にもしないからなぁ」

「おとーさんは無精者なの」

「ジダラク男なんだぞ」

 違った。

 板垣くんは兄であり母であり父でもあるみたいだった。

 そんな私の評価を察したのかどうか。

 ポリポリと頬を掻いた板垣くんは、もう一度世話をしてくれている二人の頭をポンポンと軽く撫でる。

 破顔しながら頭を両手で抑える二人の笑みが、強く目に焼き付く。

「まあうちのことはいいから、お客様は気にせずに食べろ。こいつらが注文間違えたせいで料理が多すぎるんだよ。……一人増えてちょうどよかったな」

「えー、でも兄ちゃん――」

「ほら、お前らもそろそろ食べろ。食事中にうろちょろしてたら気が散るだろ。お客様の前だ、礼儀よく食えよ」

「肉にかぶりつきながら言われてもなぁ」

「ねー」

 そう言いながら、弟くんも妹さんも、真っ先に骨付きの鶏肉を手づかみでかじった。口の周りがべっとりと汚れ、その顔を見ながら、やれやれ、と板垣くんは肩をすくめる。

「ほら、夏木も食べろ」

「あ、うん。いただきます」

 迷って、頑張った努力の跡がうかがえるぐちゃぐちゃに崩れたローストビーフを取る。それから、テーブルの一角を水浸しにする、盛り上がったレタスを一枚とり、ちぎる。それだけで取り皿はいっぱいになってしまって、ほかのものなんて少しものらない。

「わたしがあらったレタス!」

「おう、すごいな。ただまあ、次からはちぎってくれ。あと、できれば下に皿を敷いてくれ。いつもそうしてあるだろ?」

「んー?」

「知ってるぞ!兄ちゃんはレタスに氷を入れるのがシュミだからな」

「趣味じゃねぇよ。シャキシャキになるように氷水にさらしてんだよ」

 言い合いは、けれどとても楽しそう。三人の話はやがて、自分はこれをよそった、これを並べたという話と、それをほめる言葉へとシフトしていく。

 そんな中、レタスで包んで食べたローストビーフは、ほろほろと口の中で崩れていく。ベリーソースのほどよい酸味と甘さがおいしい。

「うまいだろ!さすがは兄ちゃんの手作り!」

「……手作り?」

 ソースだけでなく、肉も?

 似合っていないというか、見た目との落差がすごいというか。

 そんな思いが透けて出てしまっていたのか、板垣くんは肩をすくめて見せる。

「さすがにそんな反応されたら傷つくぞ。毎日作ればこれくらいはできるようになるさ」

「毎日作っていても、挑戦心がなければ無理じゃない?」

 私は、無理だ。

 お父さんが晩御飯を作らなくなったのは、いつからか。

 最近では夕食を買ってくる回数の減ったお父さんの代わりに台所に立つこともあるけれど、ローストビーフなんて凝ったものを作るという発想自体が無い。

 食べられればいい。おなかが膨れればいい。私にあるのはそれだけ。最初の頃はお父さんのぶんも一緒に作っていたけれど、一切手を付けられていないそれが冷蔵庫の中に放置され、扉に着けたメモが残ったままになっているのを見るとむなしくて、一人分だけを作るようになった。

 けれど家族のための料理を毎日作ってなお凝った料理に挑戦する板垣くんは、ただすごいという言葉では表現できないほどに、私から遠い存在だった。

「すごい、ね」

 ぽろりと零れ落ちた賞賛に、板垣くんは少しだけ頬を赤くしてそっぽを向く。

 バン、とテーブルに手をついた弟くんが身を乗り出す。

「そうだよ、兄ちゃんはすげえんだよ!」

「だから美人なお姉ちゃん、ぜひお兄ちゃんとお付き合いを!」

「馬鹿か。反応に困るようなことを言ってんじゃねぇ。……あ、すまんな、夏木。軽く聞き流してくれ」

 どう反応したらいいかもわからず、私はかろうじてわかる程度にうなずくことしかできなかった。

 そんな中、骨が見える鶏肉を片手に、弟くんと妹さんはそれぞれに叫ぶ。

「兄ちゃんが横暴だ!」

「おーぼーだー!」

「お前ら国語の成績は悪い癖に、どこでそういう言葉を覚えてくるんだ?」

「兄ちゃんから」

「お兄ちゃんから」

「まじか。俺かよ……」

「まじかー」

「まじか!」

 板垣くんをまねして、けらけらと二人が笑う。

 がっくりとうなだれた板垣くんは、流れるような動きで肉をほおばる。肉を食べて精神を回復させた彼は、弟くんと妹さんとの舌戦を繰り返していた。

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