第9話 セカンド・スクール・ホワイトクリスマス3
「……夏木?」
ふと、私を呼ぶ声がして、ゆっくりと顔を上げた。クラスメイトの男子、板垣くんがそこにいた。
板垣峻佑くん。
俊介くんと同じ、シュンスケという名前を持つ彼が、まっすぐ私を見ていた。
不思議そうに私を見つめていたその顔が、すぐに慌てふためいたものに変わる。けれど俊介くんとは違って、どこか落ち着きのある動きだった。運動神経のいい、きびきびとした動き。そういえば俊介くんは運動が苦手だったな、なんて、そんなことをぼんやりと考えた。
彼は羽織っていたベンチコートを脱いで、押し付けるように私に着せる。
汗のにおいはしなくて、洗剤のムスクの香りが鼻腔をくすぐる。多分、衣服のほうについていた香り。お母さんがそういう人なのだろうか。
おかげで恥ずかしさはなかった。
「これ、板垣くんの……」
「いいから。そんな死にそうな顔してる夏木が着とけよ。俺は走ればいくらでも温まるからな。……ってか、もしかしてこれから部活か?」
うなずく。
たったそれだけがしんどくて、私の動きはひどく小さかった。
体が冷えて、それ以上に心が冷えている。申し訳なさだって、まるで縮こまったように小さな感情で、大丈夫の一言だって口をついて出ることはない。
「……休んじゃ、だめなのか」
気づかわしげな声に、私は何も答えられなかった。
別に陸上部はそれほど厳しいわけではない。けれど、その誤解を解く気力もなかった。
板垣くんが、ゆっくりと歩き出す。まるで、私の歩くペースを完璧に把握しているように。
私もまた、板垣くんのベンチコートの前を軽く抱き寄せて、ゆっくりと坂を歩き出す。
「ほら、ファスナー上げとけ」
「……寒く、ない?」
「鍛え方が違うからな。陸上とは違って野球部は上半身もかなり鍛えるから、筋肉のおかげで全身あったかいぞ」
言いながら、板垣くんは力こぶを作って見せる。黒のインナーに包まれた腕がぼっこりと膨らむ。
どう反応を返したらいいかわからなくて、私はただ黙って彼の腕と顔の間で視線を行き来させることしかできなかった。
ギャグがすべったとでも思ったのか、板垣くんはどこか座りが悪そうに後頭部を掻く。
無言が、私たちの間に満ちる。歩く私たちの周りを、雪が舞う。
寒空の下。明らかにやせ我慢をしている様子で、板垣くんは無駄に大きく体を動かして熱を生もうとしていた。前後に揺れる腕は太く、動きは力強い。しっかり上がる腿も相まって、まるで行進をしているよう。
少しかさついた彼の口から、真っ白な息が吐き出される。通り過ぎた車によって、息はあっという間にかき消され、虚空へと消える。雪が風で揺れて、不規則な軌道を描く。抵抗することを知らないその在り方は、今の私に似ていた。
彼の気遣いを断ることも、ありがたく受け入れることもできず、流されるばかり。気力は何一つ湧いてこなくて、コートの分だけ重くなった体を、足を引きずるようにして前へと運ぶ。
今日の雪は粉っぽい。小学五年生のあの日、クリスマスイブに降った雪よりも幾分か軽い雪は、落ちても簡単には消えない。
道路に舞い降りた雪は数秒で消えてしまうけれど、長く寒さにさらされた民家から突き出す常緑樹の葉に乗った雪は、しばらく消えることなくそこに留まり、その上から舞い降りた雪が、さらに緑を消していく。
次第に強まる雪は、遠くの視界を白く染めるくらいに強くなってきていた。こんな日に部活動があるのを災難と思えばいいのか――考え、そして、ちらと隣を見て心が凍り付く。
童心に帰ったように目を輝かせる横顔が見えた。肺活量のせいか、あるいは体が温まっているからか。吐き出される息は真っ白で、そして大きくて。視線が引き寄せられる口元には微笑が見えた。
「いやぁ、雪だな」
軽やかな声が響く。その声にこたえるように、車道を車が走り抜けていく。
軌道が乱れた雪が風の動きを再現し、落ちていくばかりのはずだった雪の一部が、虚空で上へと軌道を変える。舞い上がり、そして、再び重力に従って落ちていく。
「昨日はあれだけ寒かったからな。底冷えするって感じだったよな。ただまあ、部活の日に降ってくれるなって話だが」
独り言なのか、私に聞かせているのか。
言葉は虚空に溶けて消えていくばかりで、代わりに、積もり始めた雪で、視界の白が増えていく。
民家の外壁の上も、くすんだガイドレールも、木々も、白く染まっていく。その世界の中、砂埃で薄汚れた車道と、灰色の歩道だけがどこまでも続いていた。
雪が、全てを覆い隠していく。汚れた世界を、色あせた世界を、白に染めていく。
隣を見る。板垣くんの服もまた、肩のあたりに少しばかり雪が積もって、白くなっていた。
きっと、私の服も、頭も、同じように白くなっている。
……こんな風に、簡単に傷が消えればいいのに。ついでに私という存在も消え去ってしまえばいいのに。
頬に吹き付けた雪が、肌の上でじんわりと溶ける。熱を奪い、水になって。それが寄り集まり、雫となって流れ落ちていく。
体がかじかむ。手袋をしていない手は、大きなコートの長い袖の中でも、動き方を忘れたように凍り付いていた。
関節の節々が冷え、あざになった部分が悲鳴を上げる。
少し開いた板垣くんとの距離、それが、途方もない距離のように思えて、さらに歩みが遅くなる。
ただ、疲れた。けれどそのことを、誰にも言えなかった。
親に暴力を受けているなんてこと、話せるはずがなかった。
学校が近づく。丘の上にたどり着こうとしいていた。
風は強くなって、体が小さく震える。
これから、走るのか。走れるだろうか。
走って、走り切ったその先には、家に帰るという道が残されている。何があろうと、私はあの家に帰る。それは、決定事項。
私は家に帰るまでの時間をつぶすために、これから部活で走るのだ。あの暴力が絶えない牢獄に舞い戻るためだけに、走り続けるのだ。
心は陰鬱な気持ちに囚われ、視線はどんどん下を向く。
視界から板垣くんの背中も消え、ただ雪がちらつく歩道ばかりが目について。
ふと、聞こえてきた掛け声に顔を上げ、横を見る。
少しの懐かしさと、それを上回る虚無を感じさせるのは、六年間通っていた母校。通り道にある小学校には、早くも練習をしている元気な野球部員の姿があった。アップを始めているユニフォーム姿の彼らは、コートを羽織る前の私と同じくらい寒そうな姿をしているけれど、その動きはすでに熱が入っていてきびきびしている。
ちらと、反対側を見る。
斜め前の板垣くんも、同じくらいきびきびした動き。
自分とは対照的な姿を両側に、私はゆっくりと進む。彼らの気力が、少しだけ私の背中を伸ばす。
彼の背中に追いつくころには小学校は背後に位置していて、掛け声は風の音の中に消えていた。
ふぅ、と隣で板垣くんが大きく息を吐く。それから再び、ぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き混ぜるように掻いた。
「部活、なんだよな。陸上部か……俺がぶつかったせいで足をくじいたってことにすればいいか?」
下り坂に差し掛かり、中学校まではあと少し。
ぽつりとつぶやいた板垣くんの言葉が理解できなくて、私の返事は遅れに遅れた。
「え、いや」
「俺から話しておくよ。だからゆっくり休んでろよ」
「……や、待って」
「さすがにそんな顔色したやつを放ってはおけねえよ」
言うや否や、板垣くんは私の返事なんて聞かずに、ラストスパートをかけるように走り出す。
力強い走り。背中はぐんぐんと遠ざかり、吹雪く世界に消えていこうとする。
「ちょっと、コート……」
その声は、背後から吹き付ける風に運ばれるように、しっかりと彼のもとに届く。
「後で返してくれればいいよ!」
振り返りながら、大きく手を振る。
叫んで、板垣くんはあっという間に門をくぐり、建物の陰に姿を消した。
揺れる尻尾が、彼の背後に見えた気がした。
あっけにとられた私は、大声を出すことで残る気力と体力のすべてを使い果たしてしまった気持ちで、彼が消えた先を異詰めることしかできなかった。
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