第8話 セカンド・スクール・ホワイトクリスマス2

 中学一年生の冬。

 その季節は、私にとって祝福だった。冬ならばインナーを着続けていても違和感がない。体の傷を隠すための服は、防寒という言い訳を獲得するのだ。

 一年中冬服を着ていた時に私に集まっていた訝しげな、あるいは探るような視線は鳴りを潜めていた。それでも先生の一部は何か言いたげに私を見るし、時には探るように、まるで壊れ物に触れるように話を聞いてくることもある。

 そうした時、私は決まって貼り付けた笑みを浮かべて、静かに首を横に振った。

 口を開けば、弱音がこぼれてしまいそうだったから。どこにも安息の場所がない心は、少しでも救いを求めて吐露しようとして。

 けれどそうすれば、薄氷の上にある私の日常はもろく崩れ去ってしまうことがわかっていた。

 言えるはずがなかった。一度言葉にしてしまえば大事になって、全てが崩れてしまう。

 中学からできた気の置けない友人たちと離れ離れになってしまう。何より、俊介くんと、会えなくなってしまう。

 歪み、膿み、もはや最初の頃からは考えもつかないほどに形を変えた希薄した思いは、それでもまだ、私の芯にあった。

 私は肌を隠し、顔に傷を負わないように気を付けながら、お父さんの暴行に耐え続けた。アルコールが抜ければ、無気力ながらも働く、お父さんになるから。私が日常を送っていくために必要なお金を稼いでくれる人に戻るから。

 だから、耐えるしかなかった。

 耐えて、耐えて、耐えて――心が、すり減っていっていた。

 このままじゃだめだと思うのに、このまま以外どうすればいいのか、それを考える気力さえなくなっていた。心の摩耗は、クリスマスが近づくほどに強く、大きくなっていった。

 だって、周囲はクリスマスだ、恋人だ、正月だと浮かれていて。

 私はその輪に入ることができなくて。

 自分の孤独を、寂しさを、異常性を突きつけられることとなったから。

 何より、命日が近づくほどに、お酒の入ったお父さんの言動は荒々しくなって、絶えず体を痛みが襲っていた。

 陸上部の活動にも身が入らなくなった。

 もともと意識しないと部屋で過ごすタイプだからダイエットもかねて入った部活だったけれど、陸上部は私の性に合っていた。風を切って走っている間、私は自由だった。世界はどこまでも開かれていて、私はどこまでも走っていけるような万能感を抱いた。コースの先には道が続いていて、その先には未知がある、なんて。

 そこにゴールはあって、ゴールテープを切っても、私には走り続ける権利があったから。どこまでも、走っていけたから。

 自然と専門種目には長距離走を選んでいて、体力増強のために日課として朝に走っていた。夜に降り積もった澱みのような怒りと悲しみを、朝のひんやりした空気に込めて吐き出す。肺いっぱいに吸い込んだ空気が意識を覚醒させ、一歩踏みしめるほどに自分の体が軽くなる。

 どこまでも飛んでいける翼を手に入れられたように、私は解放されていた。

 ほんの束の間の時間、私はお父さんからも痛みからも解き放たれ、ただひとりの女の子に戻るのだ。そうして、学校に行き、友人たちとたわいもないやり取りをする――友人たちに、私の抱えるものを気づかれないように吐き出すのだ。

 その日課も、少し前に辞めてしまっていた。痛みと心の摩耗が、ランニングを受け付けなくなっていた。

 そうして、今年もその日がやってきた。


 12月24日。

 クリスマスイブのその日も、部活があった。

 前日のお父さんの暴行に耐え、私は逃げるように家を出た。土曜日の朝、お父さんはまだ眠っていて、起こさないように細心の注意を払いながら準備をした。

 衣擦れの音一つに鼓動を早くさせながら服を着替えて、食パンを素早く牛乳で流し込んで、水筒にそっとお茶を注ぐ。

 行ってきますの声はなく、そっと、扉を開く。その隙間から身を滑らせ、静かに、扉を閉める。

 そうしてようやく吐き出した息は真っ白で、朝日の中で少しだけそこに留まり、やがて消えていった。

 体は、家から、お父さんから解放されても重かった。足におもりでも括りつけられたようで、一歩を踏み出すのにもひどく強いエネルギーが必要だった。

 あるいはそれは、私に残るエネルギー残量の少なさを示していた。だから、一歩を踏み出すエネルギーが、相対的にこれまでのものより大きく感じられるのだ。

 そんなことを、どこかマヒした頭で考える。

 土曜日の朝八時頃の街は、平日に比べてひどく静かだった。時々走り抜ける車の走行音こそあるけれど、いつものようににぎやかな児童生徒の声は聞こえない。登校ラッシュの七時半よりはやや遅いとは言っても、この時間でも平日ならもっと人気がある。

 だからこそ視界に映る町はどこかさびれたようで。あるいは灰色にくすんで見える街を、私はぼんやりと考え事をしながら歩く。

 学校に行って、どうするというのだろうか。何も相談できず、ただ時間をつぶすだけ。家に帰れば同じ地獄が待っている。

 走ることだって、今ではあまり解放的な気分にはなれない。歩くのだって苦痛なのだから、走ることによる疲れは比ではない。

 そう考えれば、さらに足は重くなる。それでも体はカメの歩みのごとき速度で学校に進んでいくのだから、我ながら呆れるしかない。

 この歩みは、義務感からくるもなのだろうか。それとも、少しでも気持ちが和らぐことを祈って?

 このまま、どこかに行ってしまおうかと思った。

 足は動くのだ。だったら、学校以外に行って、ただぼんやりと過ごせばいい。

 そう思いながらも足が登校ルートから方向を変えようとしないのは、どこへ行ってもクリスマスムードに包まれているとわかっているから。今日の私には、クリスマスの華やかさも、浮かれる人たちの姿も、冷えたナイフのように心を痛めつける武器にしかならない。

 一歩、二歩。惰性で足が進む。近くから見ている人からすれば、まるでゾンビが歩いていると思うんじゃないかというほどにうつむき、視線はまっすぐに足元を向いている。

 灰色の歩道の上、薄汚れた靴だけが緩慢に進んでいく。

 けれど、そんな私の動きを封じるように、視界の端を白がちらつく。途端に空気が冷えた気がして、私は体を震わせた。

 顔を上げた先、曇天の空から白いものが舞い降りていた。

 雪だ――呆けたように口を開きながら、その場に立ち尽くす。

 雪、24日――連鎖的につながる思考が、一つの言葉となって口から零れ落ちる。

「ホワイトクリスマス……」

 二年前、俊介くんに語ったことを思い出した。

 恋人への祝福の雪。あの日、雪はお母さんが送ってくれた、私へのプレゼントだったはずで。

 それが今や、ただの呪いのようにしか感じられなかった。

 体が冷え、動きが悪くなって怪我が増える。今の私では、転んだら満足に受け身を取ることもできなくて、盛大にすりむくかもしれない。そうでなくても、体のあちこちの打撲の痛みが、寒さのせいで強くなった気がする。

 このままどこかへ行ってしまおうという私の計画だって、一瞬でご破算になった。

 今日の私の衣服は、体にぴったりと張り付くタイプのインナーと、その上から半袖半ズボンの運動用の服。ジャージはサイズが小さくなってから、お父さんに新しいものを頼めずにいる。せめて普段使いのコートを着てくるんだったと後悔しても遅い。

 こんな格好で遊びに出ようものなら風邪をひく。というか部活で体を動かすからって、せめてもう一枚、何でもいいから着てくるべきだった。

 走れば体は温まるだろうけれど、学校までの坂道を走る気にもならない。

 中学校は、なだらかな丘陵の上にあった小学校の向こう、下り坂の途中にある。その長い上り坂を、私は重い体を引きずるように進んだ。

 嫌だ。疲れた。もう苦しい。逃げたい。

 けれど、逃げてどうする。ここで座り込んで、何になる。

 わからなかった。わからなかったけれど、わかることが一つ。

 私はもう、どうしようもなく心がすり減り切っていた。

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