第6話 ファースト・スクール・ホワイトクリスマス6

 相変わらず無邪気に雪の中で手を伸ばす俊介くんを見ながら、私はきしむような気持のまま口を開いた。

「……ねぇ」

「なに?」

 何度も目を瞬かせながら、俊介くんが尋ねる。好奇心に満ちた猫のような瞳が大きく見開かれ、まっすぐに私に向いている。

 その目には、混乱とか焦燥とか苦悩とは羞恥はなかった。

「……さっきの、さ」

「うん」

 言葉が、のどに引っ掛かって出てこない。

 現実の幸福感と、思い出してしまった嫌なこととの落差にめまいがした。

 このまま尋ねず、忘れてしまえばいい。

 でも、忘れられない。きっとこのまま帰れば、不安でいっぱいになって、夜も眠れない自身があった。

「さっき……志野に、声をかけられなかった?」

「えっと、通知表の時なら、かけられてたけど」

 それがどうしたの、ときょとんと首をかしげる彼を見ていると、安堵で胸がいっぱいになった。

 ――志野は、俊介くんに告白しなかったんだ。

 あれだけ背水の陣を敷くように宣言していた彼女がどうして告白をやめたのか。何となくそんな空気じゃなくなったのかもしれないし、あるいは自分の思うように動いてくれなかった俊介くんが好きじゃなくなったのかもしれない。

 そうだといいな、と思った。

 今日も、明日も、明後日も。

 俊介くんは志野にも、ほかの誰にも告白されずに、そして。

「……由利ちゃん?」

「どうしたの?」

「どうしたのは僕のセリフだよ。ぼうっとしてたけど、大丈夫?」

「うん。大丈夫。俊介くんこそ寒くないの?」

 ひらひらと私の前で振られる手はひどく赤い。それはもう痛々しいほどで。

 確かに寒いね、なんて言いながら、彼は赤くなった手を口の前で丸めて、息を吹き付ける。

 けれどここは寒空の下。吹きすさぶ風は体温を奪い続けて、俊介くんの手は少しも温まらない。

「……これ、あげる」

 気づけば私は、手袋を彼に渡していた。

 突き出された真っ赤なそれを前に、俊介くんは何度もまばたきを繰り返す。

 ひらひらと舞い降りる雪の結晶のひとかけらが、手袋の上にのって、少しだけそこに白をとどめる。その色も、数秒経てば溶けて消えてしまったけれど。

「あげる。寒いでしょ?」

「でも、由利ちゃんだって寒いでしょ?」

「いいの。だから受け取って」

 いいよ、と苦笑する彼の手に無理やり押し付ける。

「さっき助けてくれたお礼」

「助けてなんて……」

「受け取って」

 私が梃子でも動かないと理解したのか、俊介くんは諦めたように手袋をする。

 青い服に赤い手袋をした彼の姿は少しチカチカしていた。

 外気にさらされる手はすぐに冷え始め、その冷えから逃げるように片手をポケットに入れる。朝から入れていた懐炉はもうだいぶぬるくなっていて、素手で触り続けても気にならないくらいの温度になってしまっていた。

 もう一方の手も懐炉のないポケットに入れようとして。

 けれどその手は、毛糸の感触に包まれる。

「こうしていれば由利ちゃんも寒くないでしょ?」

 にっこりと笑う彼が、私の手を引く。

 私が上げた手袋ごしに、私たちはつながっていた。

 その手袋に宿っているのは、私のぬくもりか、あるいは彼の熱か。

 顔が熱かった。それはきっと寒さで冷えたせいではない。

 手袋と同じ色のマフラーで顔を隠し、私は半歩先を行く俊介くんの横顔をこっそりと覗き見る。

 ひらひらと雪が舞い落ちる世界。枯葉が舞い散る音もしないひっそりと静まり返った雪の降る町を、彼の真っ白な吐息が染める。

 誰よりも早く学校を出てきたからか、私たちの歩く先には生徒の姿はない。背後から聞こえてくる喧噪もまた、まだまだ遠い。

 世界に、二人きり。

 私たちだけの時間が、ここにあった。

「でも、本当にいいの?」

 舞い落ちる雪と、その先に広がる灰色の海を眺めていた俊介くんがぽつりとつぶやく。

 なんのことかと聞き返せば、手袋のこと、と端的に告げる。

「明日からだって寒いよ?明日は……雪が降るかはわからないけれど」

「いいの。だって……」

 だって、こんなに温かいから。

 体も、心も。

 だから、手袋なんて問題じゃない。

 そんなロマンチックな、あるいは夢見がちな言葉を飲み込んで。

 何でもない、と首を振る。

 隣を歩く俊介くんは、そんな私の顔を何か言いたげに見つめながら、しばらくしてぱぁっと目を輝かせる。

「そうだ。それじゃあ、僕が由利ちゃんにプレゼントするよ。お金がないから来年になっちゃうけれど……あ、お正月になるかな。どんな柄がいいかなぁ」

「別に、いいよ」

「よくないよ。だってこれ、大事なものなんでしょ?」

「……どうして?」

「だって、ほら。ここにししゅうまでしてある」

 刺繍?

 言われて、彼は私とつないでいない方の手を、目の前に突き出してくる。

 手首のあたり。白いラインの上に、確かに、それはあった。

 同じ白い色で、Yuriと、そう刺繍がされていた。少し、へたくそで、それに白地に白い糸だから本当にわかりにくいけれど。

 確かにそこには、私の名前が刻まれていた。

「……由利ちゃんの大事なものなんでしょ?本当は返すべきなんだろうけれど、由利ちゃんってガンコなんだから」

「……うん。それは、俊介くんにあげるって、言ったから」

 知らなかった。そんな刺繍、これまで気づきもしなかった。

 これは、手袋が欲しいといったときに、お父さんがどこからか引っ張り出してきたもの。今ではもう少し小さくて、けれど、何となく手放せなかったもの。

 その理由が、ようやくわかった。

「由利ちゃんのお父さんがぬってくれたのかな?」

 違う。お父さんは、裁縫なんてしない。家事はダメダメで、今日だけじゃなくていつも、お父さんが作る料理は全然おいしくなくて、アイロンなんて使わないし、洗濯をしたら服はしわだらけになるし、掃除はできないし、裁縫なんてできるはずがない。

 だから、これはきっと。

「……お母さんの縫ってくれた刺繍、だと思う」

「だったらなおさら受け取れないよ」

「ううん。受け取って。それで、大事に使って」

 本当に?

 そう強い視線で聞いてくる俊介くんに、私もまた強くうなずく。

 これで、いいんだ。

 だって、私の手にあった間、この手袋に刺繍をしてあることに、私は気づけなかった。

 でも、今この時、今日というこの日、刺繍に気づけた。俊介くんのおかげで。あるいは、寒さの中で舞い落ちる雪のおかげで。

 ああ、そっか。

 胸にストンと言葉が落ちる。理解できた。

 クリスマスの雪は、祝福なんだ。

 胸が温かかった。

 それは、恋の温かさで、そして。

 お母さんの思いでが確かに今もこの世界にあると知れたことと、お母さんが私を大切にしてくれていたと理解できたことでの、うれしさだった。

 ねぇ、お母さん。

 空を見上げて、話しかける。

 危ないよ、なんて言いながら、それでも俊介くんは、そっと私の手を引いてくれる。

 語りかける私を守るように。

 ひょっとしたら、お母さんが、この雪を降らせてくれたのかな。私への祝福として、雪を送ってくれたのかな。

 声は、帰ってこない。

 ただ、そうだよ、とでも言いたげに、背中を強い風が押す。

 一歩。

 踏み出した私は俊介くんと並んで歩き出す。

 つながれた手は風に吹かれて冷たくて。

 けれどこれまでのいつよりも温かかった。

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