第5話 ファースト・スクール・ホワイトクリスマス5

「待って、由利ちゃん!」

 あまり聞きなじみのない声で名前を呼ばれ、私は足を止めて振り返った。

 朝から空を覆う灰色の雲のせいで日差しが遮られ、外はひどく寒かった。早く帰りたいけれど、バタバタと手足を動かしながら全力で走ってくる彼の哀れな姿を見て、私はその場で立ち尽くした。やっぱり、走るのは苦手みたい。けれどそれを好ましいと思う自分がいた。

 足の速さなんてどうでもいい。私を理解してくれれば、それだけで。

 バクバクと早鐘を打つ心臓を落ち着けるべく、深く深呼吸する。冷たい空気が肺の熱を奪い、ちくりと痛んだ。

 息せききってかけてきた俊介くんは、話をすることも難しそうで、ゲホゲホと荒い呼吸を繰り返すばかり。

 熱を帯びた息は真っ白で、それはしばらくそこに留まり、彼の包んでいた。

 まるで世界に愛されているみたいだ、なんて、そんなおかしなことを思った。

「……どうしたの、俊介くん」

 息を切らす彼は両ひざに手をついて呼吸を整え、それから勢いよく顔を上げた。

 何かを探すように手を動かし、彼は慌ててランドセルを開く。取り出されたのは、クリアファイルに入れられていた通知表。

 そこには、私の名前が印刷されている。

「これ、由利ちゃんのだよね」

「……うん、そう。ありがとう」

 しわを丁寧に伸ばしたのか、私が見た時よりもきれいになっているように見えるそれを受け取る。手袋ごしであってもなお、その二つ折りの厚紙は、それ以上の存在感をもって私の手の中に収まっていた。

 ほっと、俊介くんが息を吐く。その白い息が私の息と混ざって、空に昇って消えていく。

 いつまでも、消えないでと思った。曇天に覆われた空の、その向こうまで。

 ほどけることなく、昇っていけばいいと。

 もう一度吐き出した息は、強い風に飲まれて横へと過ぎ去っていく。

 流れる髪が視界をふさぐ。

 耳にかき上げれば、視界が開ける。

 そうして、私は改めてまっすぐ、俊介くんの顔を見た。

 きりりと引き締まった目鼻立ち。いつもは大人びた風貌なのに、今はなんだか、怒られるのを待つ子どもみたいにシュンとしている。目じりを下げた表情は子犬のようで。

 もう行くね、と言おうとして、けれど彼の視線が私を捉えて離さなかった。なだらかに続く下り坂。遥か向こうの海を背に、私はじっと俊介くんの言葉を待った。

「……あの、ね。大丈夫……?」

 不安げに揺れる瞳を見て、彼が私を心配していることに気づいた。無性に気恥ずかしくて、大丈夫だよ、とそっけなく返す。

 それから、激しい恐怖に襲われた。

 私はどうしてしまったのだろうか。

 どうでもいいはずだった。ただ、浮かない程度にクラスに埋没して、時間を過ごす。小学校のクラスメイトとの交流なんて、大きくなれば記憶にも上らない。だから、別に深い関係になる必要もないと、思っていたのに。

 目の前にいる彼とも浅い関係で終わるのかと、心が訴える。それは嫌だと、心が叫ぶ。

「その、ね。由利ちゃんがつらそうな顔をしていたから、心配で……嫌だったよね、成績がみんなに知られちゃって」

 まるで自分事のように、彼は辛そうに告げる。うつむきがちな彼に、そんな顔をしてほしくはないと思った。

 どうして、俊介くんがそんな顔をするの?あなたが気にすることじゃないのに。

「だから、大丈夫だよ。私はそんなの気にしないから。成績なんて、先生が勝手に子どもを評価したものだもん。私は自分で自分のことを振り返るから、通知表なんてどうでもいいの……でも、ありがとう」

 天邪鬼な自分が嫌いだ。どうしてこんなに、とげとげしい言葉しか口にできないのか。

 自分を責めながらなんとかお礼を言えば、彼は頬を上気させて、本当にうれしそうに笑った。

 その顔に、言葉に、嘘はなかった。彼は心から私を案じていた。私の思いを見抜き、私を心配していた。

 すぐ目の前、真ん丸な彼の目に映る自分がどんな顔をしているか、私はひどく気になった。おかしな顔をしていないだろうか。髪は風でぐちゃぐちゃになっていないだろうか。服は、きちんとしたものだっただろうか――

 視線を動かしたその時、ふと揺れる白いものを目が捉えた。

「……雪だ」

 俊介くんが、目をキラキラさせて空を見上げながらつぶやいた。

 この街では、あまり雪は降らない。雪の日は、年に両手で数えられる程度。しっかり積もるのは、二年に一回ほど。

 だから、私たちにとって雪は心躍るもの。たとえ寒さが厳しくても、お父さんが道路の凍結を心配しても、雪が降ることがうれしくて仕方がない。

 ――私を、除いて。

 曇天の空から、はらりはらりと、真っ白な雪が舞い降りる。水気を帯びた重いボタン雪は、俊介くんの手のひらに落ちて、すぐに溶けて消えてしまった。手袋もなしに外気にさらされた手のひらは真っ赤になっていて、すごく寒そう。

 それでも、彼は何度も雪を捕まえようと手を伸ばす。かじかんだ手で、必死に雪を追う。

 その無邪気さが、まぶしかった。

「……ホワイトクリスマスだね」

 ぽつりと、そんな言葉が口を出ていた。

 なにそれ、と不思議そうな俊介くんの目が私を捉える。

 彼の目に私が映っている――そのことが、うれしくて仕方がなかった。

 もっと、私を見てほしい。私のことを考えてほしい。私だけを、その目に映してほしい。

 そう思いながら、私はふっと頭に浮かんだ、声を失ったお母さんの言葉を噛みしめる。声は思い出せず、遺影の顔しか思い出せないお母さん。

 でも、ふっと脳裏によぎった彼女の声は優しげだった。深い、愛に満ちていた。

 だから私は、俊介くんにホワイトクリスマスについて語った。

「雪が降るクリスマスは、ホワイトクリスマスっていうんだって。クリスマスの雪は、恋人たちへの神様からの祝福だってお母さんが言っていたの」

「どうして?どうして雪が恋人への祝福?なの?」

 祝福の意味すら分かっていなさそうな俊介くんの疑問が、いやではなかった。いつも、あれはどうだこれはどうだと踏み込んでくる友人たちの下世話な質問に比べれば、天と地ほどの差があった。

 少しだけ、考える。私はこれまで、雪を祝福だなんて思っていなかったから。冬の、特にクリスマスの雪なんて呪い以外の何物でもないと思っていて。

 でも今、胸に手を当てて自分の心に尋ねれば、違った答えが返ってきた。

「……雪が積もった景色って、きれいでしょ?特にイルミネーションと一緒だと、本当に、すっごくきれいなの」

 お父さんとお母さんと私の三人での外出のことを思い出した。

 あの時、光の海を、私は歩いていた。照らされる雪が光を反射して、私たちを包み込んでいた。蛍の森に迷い込んだような気分で、私はお父さんとお母さんに手を握られ、三人で並んできれいだね、と何度も繰り返し話したのだ。

 幻想的なイルミネーションが切り出した、闇の中のぬくもり。

 あれがきっと、祝福なのだ。

「だから、きれいな雪が降ったクリスマスは、ホワイトクリスマスっていう特別な日なんだよ」

 恋人たちに、とって。

 舞い散る雪の中、私は向かい合う俊介くんを見ながら思った。

 私のこの胸の中にある思いは、恋なのかもしれないと。私は、ホワイトクリスマスという特別な今日、神様からの祝福を授かったのではないだろうか。

 胸に、ぬくもりが満ちていた。希望が満ちていた。

 目の前に俊介くんがいて、彼が私だけを見ている今この時。

 私は間違いなく、人生で一番幸福だった。

「すごいんだね、ホワイトクリスマスって!いつか僕も見に行きたいな。雪の日のイルミネーション!」

 無邪気に告げる俊介くんを見ながら、私はそっと胸に手を当てた。

 それは、はかなく、けれどいつまでも忘れることのない私の初恋だった。

 何となく別れるタイミングを逃して、私たちは一緒に家の方へと歩き出した。

 急峻な下り坂。開けた視界の先には少し灰色がかった水面が見える。水平線まで途切れることを知らない海は、夏には陽光を反射してひどくまぶしいけれど、今日はすごく落ち着いていた。

 その青灰色を背景に、雪がひらり、ひらりと踊るように舞う。舞って、降りてくる。灰色の歩道に、真っ黒な車道に落ちて、溶けて消えていく。

 この雪は、きっと残らない。けれど、今この時間はきっと、私の中から消えることはない。

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