第4話 ファースト・スクール・ホワイトクリスマス4

 教室に帰ると、私の席の周りで友だちが騒いでいた。扉を開ける音に気付いた一人が私の方を見て目を開く。その目が、揺れる。まるで、謝るようにうつむいた彼女が、そばにいた勝気な女子の袖を引いた。

 一瞬、俊介の顔が脳裏をよぎったのは、その子が朝、彼に告白するのだと話していたから。

 今日がクリスマスイブだということを思い出した私の心は、一気に暗闇へと転がり落ちていった。

「ちょ、ちょっと……」

 か細い声に気づいて、茶色がかった髪をした志野が私を見た。

 私はその目に、暗い輝きを見た。

 いやな感じだった。獲物を見定めるような、女子特有の視線。グループのはみ出し者を取捨選択するそれは、志野だけのものではなかった。みんなが、私を見ている。責めるように、敵を見るように、不安そうに、あざけるように。

 そんな空気を把握しながら、志野はこれ見よがしに大きな声で告げる。

「由利ってばすごいね。またぜんぶよくできましただよ!」

 クラスが、ざわめく。

 大きな声で響いた賞賛の言葉には、けれどほんの少しもプラスの感情はのっていなかった。嫉妬、羨望、あるいは冷笑。先生に尻尾を振ってそんなに楽しいの、真面目ちゃん――そんな副音声が聞こえた気がした。

 クラスに響き渡った志野の声に、女子だけでなく男子もまた「何だ何だ」と私の席に近づいていく。私の前で、クラスメイトが団子のように私の席に集まる。

 私を、よそにして。

 志野の手にあった通知表の表紙が見える。私の名前が書かれた、私の通知表。

 厚めの紙に印刷された私の通知表が、女子の手を離れて男子の間を回っていく。好奇心に満ちた顔をした男子が、無遠慮に手を伸ばし、通知表をさらっていく。

 歓声が上がる。「うわ、すげぇ」というどこか気の抜ける声もあれば、「詰まんねーやつ」と私の成績を鼻で笑うような男子もいた。

 やがてみんなの間で、「私が成績を見せびらかしている」というような空気が広がっていった。私は、見せないように、話さないようにしたのに。友だちが私のランドセルを勝手にあさって、その内容をみんなに大声で聞かせて、クラス中に広めて。さらには勝手に女子だけでなく男子にも見せているだけなのに。

 私は、成績がばれることなんて望んでない。

 放っておいてよ、ねぇ。

 声は、届かない。喉に引っ掛かって出てこない。

 入り口付近に立つ私と、私の机までの距離は遠い。

 その距離を縮める手段を、私は知らなかった。

 心の中に湧き上がった恐怖を克服する方法を、私は知らなかった。

 私たちの間にある目に見えない壁を叩き壊す方法を、私は知らなかった。

 泣きそうだった。この場に、私の味方はいないと、そう思った。いるはずがなかった。

 自分が変わり者で浮いていることくらい知っていた。それを受け入れていた。それでも、完全に浮いてしまいたくないと、必死にしがみついていた。

 その努力がすべて、無に帰す音がした。心の中、必死に積み上げた砂上の楼閣が壊れていく。

 視界がにじむ。

 適当に扱われた通知表がくしゃりとゆがむ。

 もう、本当に、通知表なんてどうでもいい。全部、全部、どうだって――

 しわの入った紙が、次の男子の手に渡る。

「あ、俊介くんも見た?すごいでしょ」

 少しもすごいなんて思っていない顔で、志野が告げる。仲間を求めるように、共感を要求するように。

 俊介くんが輪に入った瞬間、クラスが静かになったような気がした。破裂しそうなほどに膨れ上がっていた空気が、熱が、急速に収束していこうとしているように思えた。

 あなたも、私のことを笑うの?

 そう、心の中で問いかけながら。

 私は胸の前で固くこぶしを握って、彼の反応を待った。

 机に座ったまま、彼はそれをさっと一瞥して。そしてほかの男子よりも幾分か目を見開き、ぽつりと告げた。

「本当に、すごいね」

 それから彼は見開きの通知表を閉じ、それを自分のテーブルの上に置いた。代わりに、彼は自分の通知表を友人の男子に見せた。

「ほら、ぼくもあと一つで全部がよくできましたになるはずだったんだ。やっぱり体育がダメなんだよね」

 通知表を渡された男子は、知ってる、と笑う。

「お前足遅いもんな」

「それに球技が苦手なんだよね」

「つまり、ほとんどぜんぶニガテだろ」

「幅跳びとか縄跳びなんかは得意だよ?」

 気負いのないやり取り。それが男子たちの間に広がっていく。私の話なんて、どこかに飛んでいく。

 彼の言葉が、次第に教室に流れていた重い空気を払っていった。教室前方の扉が開き、通知表を受け取った生徒が廊下から戻ってくる。次の生徒――志野が、わたしの番だと友人に告げ、ひらひらと手を振って去っていく。

「いい気にならないでよね」

 すれ違う際、そんな捨て台詞を残して、志野は寒い廊下へと姿を消した。

 志野の言葉は、私に届いてはいなかった。それよりも、私の目は、私の意識は、ただ一人、私を守るように自分の成績を友人に話した、クラスメイトの男子に向けられていた。

 幼稚園からの付き合いの、雪村俊介。彼を見ながら、私は不思議な胸の高鳴りを感じていた。

 この痛みは、志野の言葉を前にしたときに感じたそれと一緒だった。

 俊介に、告白――彼女の声が、とぎれとぎれに脳裏によぎる。

 心拍数が上がる。胸が苦しくなる。

 視界がにじむ。その世界は温かさに満ちていて。

 その中央に、彼がいた。

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