第5話 敵前逃亡

「敵前逃亡じゃねぇか!」


 あまりの展開に、釘だけさして研究所へと戻ってきた俺は。悔しさから、目の前にあった机に両手の拳を叩き付けながら。

 開口一番、そう口にした。


「お帰り、ニコロ」

「……あぁ、戻った」


 しかも今はこいつがいること、すっかり忘れてたし。


「それで、どうしたんだい? なんだか荒れているようだけど」

「……」


 言うべきかどうか、正直迷う。

 今のところ魔術式が反応した気配もないし、家から出てはいないようだが……。

 今後のことも考えて、一応聞いておくか? こいつは数少ない、貴族令嬢と結婚した魔導士だし。


「なぁ、ベッティーノ」

「なんだい?」

「貴族令嬢ってのは、無駄に買い物をしたがったりするか?」


 俺の質問が予想外だったんだろう。珍しく目を見開いたと思ったら、無言のまま数回瞬きして。


「それは…………人によるかなぁ」


 困ったような顔で、笑った。

 その一言だけで俺は察したよ。こいつに嫁いだ令嬢は、別にそんなことしないんだろうなって。

 そうじゃなかったら、こいつは嬉々として何を贈っただのと話し始めてるだろうから。


「奥方は、何かの購入をお望みだったのかい?」

「知らん。ただ退屈らしいから、とりあえず下手に逃げられないように金だけ置いてきた」

「あぁ……うん」


 俺の回答を聞いた瞬間、なぜか遠い目をされたが。

 意味が分からん。


「君は、そうだね……。女心より先に、貴族の買い物の仕方を知っておいたほうがよさそうだ」

「あ? なんだよ?」


 余計に意味が分からなくて問いかければ、なぜか困ったような顔のままため息をつかれる。

 なんというか……。妙にイラっとするのは、なんでだろうな?


「ちなみに、先に確認なんだけどね」

「だから、なんだよ?」

「君は屋敷で、使用人を雇ったりはしているのかな?」


 は? なんだそれ。


「そんなものいるわけないだろ」


 見ず知らずの人間を家に入れるなんて、それこそ意味不明だろ。

 そもそもあの家は魔術をこれでもかと駆使して、俺がなにもしなくても常にキレイな状態を保つようにしてる。

 そんな場所に使用人? 必要ない。

 食事だって毎日提供されるんだ。それで十分だろ。


「やっぱりね」


 そういえば、前にお袋に強引に持たされた材料の余りが家にあったなと、どうでもいいことを思い出していた俺の耳に。


「そんなことだろうと思ったよ」


 再びベッティーノがため息をつく音が届く。

 いやマジで、イラっとするんだが?


「なんだよ? 結局なにが言いたい?」


 さっきのよく分からん会話内容といい、こいつのもったいぶった喋り方といい、マジで貴族ってのは理解できない。

 回りくどいことなんかせずに、ハッキリ言葉にしろよ。

 不機嫌さを隠すこともなく問いかけた俺に、今度こそ本気で困った顔をしたベッティーノが。


「いいかい、ニコロ。貴族の女性は滅多なことがない限り、店舗に足を運ぶことはないんだよ」


 そう、告げる。


「…………は?」

「君が知らないのは仕方がないことだし、婚姻自体も急に決まったことだからね。色々と事前知識を仕入れる時間がなかったことも、理解できる」


 いやいや待て待て、そうじゃない。

 懇切丁寧に説明しようとしてくれてるが、そもそもそういう問題じゃないんだ。


「でもね、大抵の貴族女性は邸に商人を呼んで、そこで気に入った物を購入するんだよ」

「はぁ!?」


 意味が分からん!!

 というか、ちょっと待て。その説明でいくと……。


「君が商人を呼んでいるわけがないし、屋敷にも使用人はいない。となると、だ」


 背筋を、嫌な汗が流れ落ちる。


「奥方は、どうやって君から渡されたお金を使うんだろうね?」

「……!!」


 あくまで冷静に、過程と結論と疑問だけを口にする目の前のこの男は、実に魔導士らしかった。

 ただし。

 こんな時にまで、そんな魔導士らしさを発揮しないで欲しかったとも思う。切実に。


「奥方が君に願い出なかったのであれば、もしかしたら何か策があるのかもしれないけど……」


 しかも仮定の話まで始めようとするから、ある意味でタチが悪い。


(いや、マジで待てよ)


 俺の脳裏によぎるのは、つい先ほど初めて会った性悪女と呼ばれている人物の行動。

 急いであの場に向かった時、一体何をしようとしていた……?


(私物を、換金って……)


 そう、確かに言っていた。

 そしてその際見せてきたものは、おそらく手持ちの中でもまだ換金できそうな、色とりどりのリボン数本。

 さらにあの時、こうも言っていた。「どなたかに道案内をしていただこうかと思っておりました」と。

 つまり……。


「歩いて向かう気か!?」


 どう考えても、そうとしか思えない。

 そもそも道案内をしてもらおうと思っているのなら、それしか今は手段がないはずだ。

 しかもドレスではないとはいえ、明らかに使われている生地が違うとひと目で分かるような、あの格好で?


「それは……どうなんだろう?」


 危険性をなんにも分かっちゃいないベッティーノは、のんきにそんなことを言ってるが。


(これ、どういう理由であれ監視対象にいなくなられたら、俺の失態だよな……?)


 血の気が引く思いっていうのは、こういうことか?

 貴族ってのは、全員がなんらかのツテを持ってるもんだと思ってた。それで馬車を呼んだり、買い物をしてるんだと。

 だから金さえ渡しておけば、勝手に買い物なんてできると思ってたんだ。


 けど、どうやら違ったらしい。

 それを今、初めて知った。


「あぁ! クソッ!」


 とにかく急いで色々と手配するべきだと、ようやく理解した。

 ただ手始めに、馬車か商人を呼ぶまで家から出ないように言い含めておかないとまずい。



 そう思った俺を、あざ笑うかのように。



「!?」

「さっきとは別の、魔術式……?」


 対象者が外出した際に、その行き先を追尾し監視するための魔術式が、発動した。





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