第39話 開戦の咆哮

 混沌化したセトをどうすれば元に戻せるのか。

 思いつく方法はあるが確証はない。実行できる保証もない。

 だが、完璧な作戦を思いつくまで話し合っている時間など、もっとない。


「イスメト! ありったけの護符を集めてきたよ!」

「ありがとう! 貸して!」


 イスメトはラフラ・オアシスに戻ってきていた。

 大神殿から駆け出てくるエストから護符の詰まった袋を受け取り、すぐさまカルフに縛り付ける。


「エ、エスト!? なぜここに――な、何事だ!?」


 幸いだったのは、大神官が敵ではなかったことだ。

 エストを見た時の大神官の顔は、我が子を心配する父親のそれに違いなかった。


「お父様! 外を見て! セトさんが大変なんだ!!」

「よ、依代殿……どういうことだね?」

「ザキール医療神官に、セトを奪われました。多分、今セトは彼に操られています」

「ザキール、だと……!」


 大神官は驚くというより確信したように呟いて、闇の砂嵐に包まれる東の空を見据えた。


「やはり、あやつが……先ほどジタが目を覚ましたのだ。彼に神器と称して呪具を渡したのはザキール神官だったと、証言が得られた」

「ジタが、目を……」


 イスメトはほっと頬を緩めた。

 だが、今は友を見舞っている時間がない。


「大神官様。セトを取り戻すには、今の依代を殺すしかありません。そのためにはまず、あの混沌が渦巻く砂嵐の中に入らないといけない――お力を貸していただけませんか」

「もちろんだ」


 こうして大神官の了承のもと、浄化の力がありそうなホルスの護符を片っ端から集めてきた。

 これがどれほど役立つかは不明だが、できる限りの準備はしておくべきだ。


「イスメト君! 皆に緊急配備につくよう伝えたわ!」


 カルフに護符を結び終えたところで、ラクダから飛び下りるメルカの姿が視界に入る。

 大神殿へ急ぐ途中、偶然会った彼女には戦士らへの伝令を頼んでおいた。


 セトが混沌にちた以上、オアシスもきっと無事では済まない。彼らにはセトが作った緊急時の作戦通りに動いてもらう。


「ありがとう、メルカ!」

「他にアタシにできることある?」


 イスメトは思案する。神の力は人々の信仰によって高まる。

 ならば、戦えない人々にやってもらうべきことは――


「セトは今、すごく弱ってる……だから、皆の祈りが必要だ。そのことを、できるだけたくさんの人に伝えてほしい」

「分かったわ」


 メルカは二つ返事で了承し、中庭を飛び出して行った。


「イスメト! ボクも行くよ!」


 メルカと別れたすぐ後。

 いざ死地へ向かわんとカルフにまたがるイスメトの背に、エストがしがみついてきた。


「ええっ!? だ、駄目だ! 危険すぎる!」

「でもイスメト、ホルス神の護符の使い方、分かるの? まさか魔獣に投げつけて使おうとか思ってない?」


 ジトッとめ上げてくる瞳に、イスメトは返す言葉を失う。

 図星だった。


「ボクは護符の力を引き出す呪文を全部覚えてる! ボクがいないと、こんなのぜんぶ宝の持ち腐れなんだからね!」

「で、でも! 死ぬかも知れないんだよ!?」

「それはイスメトだって同じだろー!?」


 そんな二人の押し問答を止めたのは、意外な人物だった。


「連れて行ってやってはくれぬか、依代殿」

「……! 大神官様!」


 思わぬすけに、エストすら目をしばたたかせて固まっている。


「その子には天性の才がある。としても……書記としても」


 大神官はカルフの横に歩み寄ると、静かな目を娘に向けた。


「そしてその才は、このような時のために天から貸し与えられたものなのだと……今回のことで私は思い知らされた」

「お父様……」


 男の瞳のせいひつさは、きっと覚悟から生まれるものだった。


「……すまなかったな、エスト。お前はお前の思うように、好きなことをやりなさい」

「……! はい!」


 エスト本人のみならず、その父親にまでこう言われてはに断ることもできない。


 実際、彼女が来てくれれば心強いし、手札は一つでも多い方がいい。

 しかし、問題はそこではないのだ。


「本当に、いいの? 僕じゃ君を……守り切れないかもしれないのに」


 少女はただ、いつも通りの笑顔で笑うだけだった。

 父親に対しても。少年に対しても。


「だいじょうぶ! ボクはそんなことでキミを嫌いになったりしないから!」


 この笑顔に、いつだって少年は背中を押されてきた。


 戦うことは、失うリスクを背負うこと。

 そしてそれが、願いを叶えるための唯一の手段だ。


 イスメトも、覚悟を固める時だった。


「――分かった。一緒に来てくれ!」

「うん!」


 そうして二人と一匹が大神殿を後にし、町の簡素な門を通り抜けようとした時。

 雷よりも重く激しいごうおんが、大地を揺るがせた。


【■■■■■■■■■■■――!!】


 瞬間、外に出ていた誰もが強風にあおられ地に倒れる。

 その突風は砂漠の表面をまるで生き物のようにまくれ上がらせ、大量の砂をオアシスになだれ込ませていく。


 視界一面に広がる砂煙。


 それは人々の営みをあざわらうかのように、一瞬にしてすべての景色を暗闇に塗り替えた。


「――んぐっ!?」


 姿勢を低くしたカルフの背にしがみつき、イスメトは首巻き布で口元を覆う。

 全身に刺さる砂粒の痛み。目を開くこともままならない。

 だが幸い、風は一過性のものだった。


 問題は、その風がやって来た方角である。


「! あれは、まさか――!」


 顔を上げたイスメトは、巨大な砂嵐の中で大きく揺れ動く荒神すさがみの姿を目の当たりにする。

 黒い巨体の周辺には、琥珀色に輝く光の輪がいくつも浮かんでいた。


 間違いない。あれは神力。


「ホルスだ……ホルスがセトと戦ってる!!」

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