第38話 信じる力

「カルフ!」


 地下神殿から飛び出したイスメトは、砂の山に呼びかける。

 すぐさま主人の声に反応した獣が地中から姿を現した。

 その小さな体は、神より授かった神力を用いて巨大化し、主の元へと駆けつける。


「うわわっ!? カ、魔猪カンゼルだよイスメト!?」

「大丈夫、友達だから」


 エストは最初こそ悲鳴を上げたが、躊躇ためらいなくその背に飛び乗るイスメトに手を引かれ、後に続いた。


 カルフが後ろ足で地を蹴ったその直後。

 ごうおんが大地と大気を同時に震わせる。

 疾走する神獣の背後では砂山が――地下神殿が崩落していく。


 吹き荒れるのは砂漠の風。

 いつもならばイスメトを導いてくれるはずのそれが、行く手を遮るようにカルフの体を翻弄し、砂を巻き上げてその足を絡め取ろうとうごめく。


 砂漠は今や、敵だった。


「ピギュルル……!」


 小高い砂の丘を登り切ったところで、カルフは滑り込むように突っ伏す。

 向かい風に力を消耗したのだろう。

 長い鼻をヒクヒクと動かし、神力を求めて砂を食べ始めている。


 幸い、すでに砂嵐の包囲は抜けていた。

 カルフの背から一旦降りたイスメトは、そこで初めて背後を振り返る。


「あ……あぁ……」


 言葉が出なかった。


 地下神殿を崩落させながら立ち上がった巨大な影。

 砂漠から上半身だけを出したソレは、砂嵐を衣のようにまとい、邪悪に流動する闇を周囲にまき散らしている。


 大量のふんじんにより天は隠され、辺りは日中とは思えないほどに薄暗かった。


 時折その闇を切り裂くのは、砂塵から生じた稲光。

 その赤光にはもはや混沌を払う聖なる力などなく、気ままにそこらの岩山へ落ちては破壊の限りを尽くすのみ。


「セ……ト……」


 少年の呼びかけに、応える者はない。

 嵐の化身は振り返ることもなく、ラフラのオアシスに背を向けてゆっくりと砂漠を進み始めた。


「助かった……の……?」


 エストの不安げな呟き。

 イスメトは首を横に振る。


 あの方角には大河ナイルがある。

 セトは川沿いの都市部に――ホルスの国に向かっているのだ。

 混沌に取り込まれかけた時に見た幻覚が、その予想を後押しする。


 あれは恐らくセトの記憶。その断片。

 ならば、あの時に抱いた感情も――恐らくは、セトのもの。


 混沌が理性を損なわせ、内なる願望を破壊的な方法で発露させる存在であるならば――混沌化したセトは真っ先にホルスを殺しに行く。

 あるいは、ホルスの大切なものを壊しに行く。

 それが今なすべきことであるかいなかに関わらず。


 そんな気がした。


「――くそッ!!」


 イスメトは地面に膝をついた。


「くそ……くそくそくそッ!!」


 己の不甲斐なさに目の前が真っ暗になる。

 自分が下手を打ってセトに傷を負わせるような事態を招かなければ、こんなことにはならなかった。


「何やってるんだ僕は! これじゃみすみす、あいつにセトを……っ、差し出したようなものじゃないか!」

「イスメト!!」


 ガクガクと肩を揺さぶられ、イスメトははっと我に返る。

 エストが泣きそうな顔でこちらを見ていた。


「もう、やめてよ……手が、壊れちゃうよ」


 言われて、右の拳から血がしたたり落ちていることに気付く。

 無意識に近場の岩を何度も殴りつけていたらしかった。

 その痛みすら、ほとんど感じない。


 感じる余裕がない。


「エスト……」


 だが少女の存在を思い出したことで、感情がいくらか冷却される。


 エストは目を覚ましたばかりだ。何も事情を知らない。

 僕が取り乱してどうする。説明しなければ。そして彼女を少しでも安心させて、それから――


 ――それから?


 どうするというのだ。

 セトはもう、いないのに。


「僕は、ただ……最初は君を……助けたかっただけ、で……」


 思いとは裏腹に、まとまらない思考。

 神に許しを請うように、イスメトは砂の大地にうずくまった。


「なんで、こんな……っ、違う! 僕はこんなこと、願ってなんか――ッ!!」


 エストを救いたい。

 その願いは確かに、セトに体を貸す条件だった。

 エストを早く救い出していつもの日常に戻りたい――そう考えたことだって一度や二度じゃない。


 でもそれは、セトの存在と引き換えてまで叶えられるべき願いではない。

 絶対に、ない。

 他に手段があるならば、何ヶ月、何年、何十年かかろうとも、そちらを選んだ。


「僕が、弱いから……」


 努力はした。本当だ。

 これでもかというくらい自分を追い詰めて、あの背中を必死に追いかけた。


「いつも僕が、足を引っ張って……」


 それでも届くはずなどなかった。分かっていた。

 自分は最初から、何かを成し遂げられるような人間ではないと、自分が一番よく分かっていた。


 自分はセトとは、何もかもが違った。


「僕のせいなんだッ! 僕をかばってあいつは大怪我して――そのせいで力を失って、だからあんなことに……!!」


 セトがいてくれたから、変わったように見えただけで。

 本質は何も変わっていない。


 これは報いだ。

 あいつの隣に立とうだなんてうぬれた、その報いなのだ。


「もっと……ちゃんと話せば良かった! 僕なんかが依代でいいのかって!! 本当はずっと……っ、それを、聞きたかった……のに!!」


 握りしめた拳の上に、生ぬるい水滴が落ちていく。


「またあの時みたいに『お前じゃなくてもいい』って……っ、そう言われるのが、怖くて……すがって……利用した……」


 セトに王にならないかと言われたとき、彼のその野望を、期待を、利用しようとどこかで計算している自分がいた。

 王になる気なんてさらさらない。けれど、依代の座を他の誰かに譲ることも嫌で――そのくせ、ジタの前で胸を張れるほどの自信もない。


 自分という人間の矮小さは、自分が一番良く知っていた。

 セトの依代に相応しい人間は、少なくとも僕じゃない。


 その証拠に、このていたらくだ。

 セトがいなくなった途端に何もできない。

 変わっていないのだ。セトと出会う前から、何も――


「イスメト。だいじょうぶ」


 ふと、手にぬくもりを感じた。

 砂に湿った跡を残していくしずくを幾つも見送って、少しだけ頭を持ち上げる。


 乾いた砂を握りしめるだけの手に、少女の手が重ねられている。


「キミは神様に愛されてる。キミの中に、神様の温かい光を感じるもの」


 握った少年の手を胸の前まで持ち上げて、少女はほほんだ。


「少しだけ思い出したんだ、キミのぼうけんたん。たぶん……話してくれた、よね?」

「え……あ……」


 それは、地下神殿での会話を指しているのだろうか。

 アポピスに取りかれていても少女の心はどこかにあって、あの会話をぼんやりと聞いていたのかもしれない。


「セトさんも、きっと、キミのことが好きで一緒にいるんだよ。ボクにはその気持ちが分かる。だってキミは優しくて、マジメで、ちょっぴり卑屈だけど……でも、いつだって誰よりも頑張ってる、すごい人だから」


 少女の体が、かすかに震えていることに気付く。

 ああ、そうか。彼女も怖いのだ。

 真っ暗な空の下に急に放り出されて。分からないことばかりで。頼れる人間は、目の前でいじけているこんな男だけで。


「キミはキミが思ってる以上に、大した男なんだよ? ずっと近くで見てたから、分かるんだ」

「そんなこと、ない……僕は、今も……」

「人はね、みんな誰かの鏡なんだよ、イスメト」


 エストは所在なく垂れるイスメトのもう一方の手もつかみ、自分の手で包むようにして重ね合わせる。


「自分の中ばかり見ていても、キミの本当の姿は見えないんだ。だからボクを見て。ジタを、アッサイを、セトさんを――みんなの中に映るキミを、もっと見てほしいんだ」


 宝石のように透き通った空色の瞳が、まっすぐ見つめてくる。

 本当の空が真っ暗になってしまっても、その輝きはいろせない。


「ボクはこう思う。神様もきっと、キミの可能性を信じてる。だから、キミに死んで欲しくなかった。大きな意味とか、理屈とかじゃなくて……本当に、ただそれだけだったんじゃないかな」


 心臓が大きく脈打った。

 死んで欲しくない。ただそれだけ――?


「今だってそう。セトさんはきっと、キミに生き残って何かをしてほしいんだよ。それができるって、信じてるんだ」


 瞬間。視界が赤い光に包まれる。

 イスメトは驚き、光の発生源を探して目を落とした。


(これは……!)


 エストの手が、光っている。

 いや、違う。光っているのは自分の手だ。

 エストの手に包まれた、自分の手が光っているのだ。


「イスメト……信じる気持ちが、神様の力になるんだよ」


 エストはその光に驚く素振りも見せない。

 彼女が感じたという『神様の温かい光』とは、これのことだったのだ。


 左手の甲に刻まれた、神の刻印。

 失われたはずのその輝きが、確かな意志を帯びて訴えかけてくる。


 ――立ち上がれ、と。


「キミも信じなきゃ。キミの神様を。そして――キミ自身を」

「僕、自身を」


 必死に記憶を辿る。

 地下神殿に踏み入れた時、刻印は確かに消えたままだった。

 ならば、いつ刻まれたのか。


『俺には、オマエの願いが見えている』


 答えは一つしかない。セトが目覚めた時だ。

 セトはアポピスと戦いながら、その神力の一部を槍に込めた。

 その一方で、イスメトの肉体にも注ぎ込んでいたのだとしたら説明がつく。


『どうしてもかなえたいってんなら、テメェで足掻あがくことだな』


 セトはきっと、自分がアポピスにまれることを予期していた。奴に対抗できるだけの力がまだ戻っていなかったに違いない。


 だから、最後の力を――


『信じろよ。テメェの〈願いかみ〉を』


 僕に、託した。


「……っ!」


 視界がぼやける。込み上げた熱が胸を焦がして、拳を握らせた。


 ああ、そうか。

 だからお前は、当然のように僕を庇ったのか。

 だからお前は、相棒失格って言ったのか。

 僕は自分を疑うことで、お前から向けられる信頼にすら泥を塗っていたのか。


 お前は僕を、とっくに認めてくれていたっていうのに。


「あ、はは……ほんとに、ウジ虫だな僕は……」


 そうだ、僕を認めていなかったのはセトではなくて。

 僕自身だ。


「ありがとう……エスト」


 イスメトは立ち上がった。

 胸の内にいつからか宿っていた、ひとつの確かな願いのために。


「僕、行くよ。セトを――助けなきゃ!」

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