最終章

第35話 再会と瓦解

「エス、ト……? なんで……そんな、馬鹿な……」


 イスメトはおずおずと少女へ歩み寄る。

 対する少女は、あっけらかんと伸びをした。


「んー、目が覚めたらここにいたんだ。なんでだろ……あ! そうそう聞いてよ! さっきホルス様に会ったんだ! なんか思ってたより子供だったけど羽が綺麗でさ! あれ? でもどこ行っちゃったんだろ。あれれ……もしかして夢?」


 少女は腕を組んでウンウンと首を捻っている。

 イスメトはそんな彼女の柔らかなほおにそっと両の手で触れ――つまんで左右に引っ張った。


「いででででっ! な、なひすんだひょー!」


 少女の抗議を受け、慌てて手を離す。


「ま、幻じゃ、ない……?」

「なんだよー! そういうのは自分のほっぺでやるんだぞ! こうやってー!」


 指から伝わってくる感触とぬくもり。

 ねじねじとつねり返される両頬の痛み。

 どれも本物だ。


「どうだ痛いだろー! ちゃんと現実だろー! うりうり~」

「い、痛ひよ……凄く……」


 イスメトは顔を歪めた。頬の痛みのせいではない。


「あ、ご、ごめんね。つねりすぎちゃったかな……?」


 エストははっとしたように手を引っ込めた。


「ううん、違う……そうじゃないんだ……」


 本物だ。このエストは本物だ。

 きっとホルスが約束を守ってくれたのだ。そうでなきゃ説明がつかない。


「イスメト……?」


 気付けばイスメトは少女を抱きしめていた。

 単なる再会の挨拶にしては力強く、長すぎるその抱擁を、少女がどう思うかなど考える余裕もなかった。


「っ、エスト……良かった! 良かっ、た……っ!」


 少女を抱きしめたまま微かに肩を震わせる少年。

 少女は何を言うでもなく、そんな少年の背を優しくでる。

 もはや、どちらが抱きしめられているのか分からなかった。


 それはほんの数秒のこと。

 我に返ったイスメトは慌てて少女から身を離した。


「ごご、ごめん……っ!」


 腕でガシガシと目元を擦って情けない痕跡を必死に隠す。

 今さら過ぎて自分でもあきれた。


「なんだかイスメト、少し大きくなった? ちょっと前までボクより背が低かったのに」


 少女は怒るでも照れるでもなく、いつもの笑顔を返してくる。


「ちょっと前って……それ、だいぶ前だろ?」

「そうだっけ? でもなんか変わった気がするよ」


 それからイスメトは彼女に今までのことをい摘まんで話した。


 目覚めた旧神様のこと。

 オベリスクのこと。

 ホルスとの戦いや、ラフラでの騒動。


 もちろん、エストが気に病むことがないよう、彼女はずっと呪いで眠っていたことにした。


 だいぶ支離滅裂だったかもしれない。

 きっと時系列にまとまってすらいなかった。

 それでもエストは楽しげに、時に心配そうに、相づちを打ちながら話を聞いてくれた。


「僕は、ずっと……セトの足を引っ張ってる。そんなの最初から分かっていたことだけど……やっぱり今でも、自信はないんだ」

「そっか……イスメト、いま苦しいんだね」


 すべてが正確に伝わらずとも、イスメトが依代という大任に押しつぶされかけている状況だけは彼女も理解してくれた。


「そうだ! ボクが少しの間だけ依代を交代してあげるよ! どんな戦士にも休息は必要さ!」


 エストの提案にイスメトは苦笑する。

 そこには『依代をやってみたい』という彼女の願望も混ざっている気がした。


「……それもいいかもね」


 案外、名案なのかもしれない。


 イスメトは今でもふと考えることがあった。

 もし、あの日セトと契約したのが自分ではなく、エストだったら。あるいはジタやアッサイだったら――と。


「でも……何にしたってセトに聞いてみなきゃだけど」

「それなら大丈夫! ボク、やり方知ってるんだ!」


 瞬間、イスメトの中で何かがズレる音がした。


 それは本当に微かな違和感。

 だからこそ、できれば無視したかった。

 久々に訪れた彼女との穏やかな日常が崩れていく音を聞きたいわけがなかった。


「言ったでしょ? ボクは将来、になるんだって。神子の仕事はね、神様を体に降ろして、その意志を代行することなんだ。ボクの力を使えば、キミから神様をがすことくらいワケないよ!」


 少女が意気揚々に語れば語るほど、イスメトの希望とは裏腹に違和感は大きくなる。


「引き剥がす、って……」


 依代契約は、神と人間の合意のもとに行なわれる。

 肝心の神をものにしていいはずがない。


 そのくらい、エストなら心得ているはずなのに――


「大丈夫。何も心配いらないよ。ボクは子供の頃からずっと、我らが神の来たる日に備えて、その器となるためだけに育てられてきたんだ」

「え……?」

「だからね、イスメト――」


 少女は妖艶にほほんだ。

 同時に、目の前の大きな空色の瞳が、闇の色へと染まっていく。


「キミは頑張らなくていいんだよ。キミの知る神が目覚めることはもう、ないのだから――」


 直後、少女の背後から闇の触手が無数に伸び上がった。

 触手の先は蛇の頭を形作りながら、イスメトの体に幾重にも巻き付く。


「ぐっ――!」


 闇の牙が体中に食い込んでくる。

 感じるのは肉体的な痛みではなく、存在の根源を冒されるような苦痛。

 ジタの時と同じだ。


「っ、光を!」


 闇が存在の致命的な部分にまで届く前に、イスメトは呼びかける。

 瞬間、手元から琥珀色の光が広がった。

 エストの護符だ。神器のように混沌を消滅させるまでには至らないが、追い払うことには成功する。


 何が起きたのか。答えはもう明白だ。

 今の今まで話していた彼女はエストではなく、アポピスだった。

 彼女は混沌にだったのだ。


「なんで……っ、どうして!」


 イスメトは自分の推測を打ち消す材料を必死に探す。


 認めたくなかった。

 この瞬間が訪れるまで、彼女は紛れもなく記憶の中にいるエストだった。

 抱きしめたあのぬくもりも、抱きしめ返してくれたあの優しさも、本物だった。


 そう信じたかった。


「混沌の気配なんか、全然――っ!」


 いくら姿に惑わされたとしても。

 セトが眠っていたとしても。

 これだけの闇の気配を、あの至近距離で全く感じないなんてことがあるのだろうか。


「――それは、さっきボクがどうしゅを飲んだからかもしれないね」


 エストの姿をした闇は、悪戯いたずらを楽しむ悪女のように微笑する。


「知ってた? 特別な方法で作られた葡萄酒には、混沌のを消す効能があるんだよ」

「葡萄酒……? そんなもの、どうやって……」


 アポピスは昨日までは棺に閉じ込められていた。そんな小細工を用意する時間などなかったはずだ。


 そうなると疑われるのは、やはり協力者の存在。


「ふふっ……貴方あなたもお人が悪い」


 背後から近付く声と足音に、イスメトは振り返る。

 緩やかな石段を下りて来たのは、白い伝統的なローブの上から黒いフード付きのケープを被る優男だった。


「何も知らせず、気付かせぬまま、少女の腕の中で楽に眠らせてあげることもできたでしょうに」

「ザキール、さん……?」


 見知った医療神官は、日頃と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。

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