第34話 アイボウ失格

「ぅぐっ……ごはッ!!」


 イスメトは地面に両手をつき、血の塊を吐き出した。

 全身に染み入るような寒さに反して、脇腹からはすべての思考を吹き飛ばしてしまうほどの灼熱が激痛を突き上げる。


 ジタの槍は心臓を貫きはしなかった。

 きっと彼の良心が最後まで混沌に抵抗したのだろう。

 だが、この命が助かるかどうかは別の問題。


 致命傷だ。

 医療知識などなくとも、イスメトは本能で察した。

 息を吸うだけで血を吐き出してしまう体。刃は内臓にまで達している。


 ――動けない。

 ――声も出ない。

 ――誰か。


 じわじわと迫る『終わり』を実感し、えもいわれぬ孤独感に思考まで凍り付きかけていた、その時。裂かれた腹から零れ出たのは臓物ではなく、温かな赤光しゃっこうだった。


「っ、これ、は……神力……?」


 湧き出る神の力が、イスメトの全身を瞬く間に修復していく。

 砂漠の砂で養生する時とはまるで様子が違った。

 傷の治癒速度が速い。速すぎる。

 まるで肉体の『時』そのものが巻き戻っているかのようである。


 何かが、おかしい。


 イスメトは安堵よりも先に戸惑いを抱いた。

 セトによる治療行為は、あくまでも自然治癒力を高めるものだったはず。だからこそ、大怪我をした後は数日寝込む必要があった。


「セト……一体、どうなって――」


 イスメトは、こちらへ歩み寄る神の姿を見上げ――言葉を失った。

 砂のようにサラサラと流れ落ちる、赤い光の粒子。

 それはセトの左肩と脇腹から大量に流れ出ている。


 裂かれ方、位置、深さ。

 そのすべてがイスメトの負った傷と酷似していた。

 しかもその傷は、いつものように閉じることはない。


「!? セト……っ!!」


 神は何を言うでもなく、ゆっくりと倒れるようにイスメトの中へと姿を消した。


「まさか……お前……!」


 理屈は分からない。

 だが何が起きたのかだけは、なんとなく予想がついた。


【チッ……情けねェ声を出すな。ちと……力を使いすぎただけ、だ】

「嘘だ!!」


 あのヌシとの戦闘の後ですら、無傷で笑って見せたセト。

 そんな神が、多勢に無勢だったとはいえ格下相手にあんな傷を残すわけがない。今までのようにすぐに回復できるはずだ。


 そもそも、何の代償もなく依代の肉体をすぐに治せると言うのなら、セトがこれまでに一切その驚異的な回復技術を披露してこなかった理由が分からない。


「お前……僕を、かばったのか?」


 セトはフゥっと長い息の後、観念したように弱々しい声を吐き出した。


【癒やしの権能などなくとも……傷の肩代わりぐらいなら、誰でもできる】


 神は依代の傷を引き受けた。

 物理的にではなく、『致命傷を受けた』という事実をまるごと、一種の概念としてその魂に引き受けたのだ。


 致命傷を負ったのはイスメトではなく、セト。

 神の干渉により事実はそう書き換えられた。

 結果として、イスメトの体が修復されたのである。


【つっても割に合わねェから……毎度アテにされんのも困るが】


 依代と神が同じ肉体を共有するからこその、荒技。

 だがその代償はあまりに大きい。


「なんで」


 助かったとか、ありがとうだとか思う前に。

 イスメトは口走っていた。


「なんでそんなことした! 僕の代わりならいくらでもいるだろ! でも、お前が消えたらオアシスは――ッ!」

【勝手に殺すな。このくらい、休めばなんてことはない……神は、ニンゲンほど……ヤワじゃ、ねェ】


 セトにしてはやけに低く、落ち着いた声色。

 まるで痛みに耐えているかのようだ。


 イスメトは嫌でも悟る。

 これはきっと最終手段だったのだ。依代を何が何でも生かすための。


「なんで……なんで僕なんかのために! 神ならもっと、合理的に判断しろよ!!」


 まずは感謝すべきだと訴える理性を押しのけてまで口から出たのは、きっと自分への怒りだった。


 戦いの最中で神器が折れたのは、自分が意志を曲げたからだ。

 自らあの槍を手に取り、戦士の誇りだと言ったその口で――『僕は神の器には相応しくない』と。


 よって、神器も在り方を変えた。

 見た目通りの粗悪品に成り果て、砕けたのだ。


「こんなっ、ウジ虫野郎のために……っ、何やってんだよお前はぁぁッ!!」

【ハッ……そりゃごもっともなご意見、だが、よォ】


 悲痛な叫びに答えるのは、荒ぶる砂漠の神にしてはあまりにも静かな呟き。


【――アイボウ失格、だな】


 冗談っぽい笑いの混じったその言葉を最後に。

 セトの声は聞こえなくなった。




■ ■ ■




 ラフラ・オアシスから半刻ほど歩いた砂漠の中に、その地下神殿はある。


 ホルスとの攻防により半壊していたタァ=リ遺跡は、セトの力によってすぐさま修復され、現状は前よりも綺麗になったとさえ思われた。


 緩やかな階段を下り最奥の至聖所には、石を彫って作られた黒塗りの神像が佇んでいる。その顔は砕けたままだった。

 どうせ修復させるなら、顔まで直せばよかったのに――と思いかけて、そういえばアイツには作り手の権能さいのうが無かったことを思い出す。


 初めて来た時と、ほとんど同じ景色。

 だが、空っぽだ。ここに神も、棺もない。

 イスメトの大切なものは、どちらも・・・・、もうここにはない。


 そうと知りながらも踏み入ったのは、一縷の望みをかけてのことだった。


 ここは現世に残るセトの最も古い神殿。

 セトに力を与えてくれる場所のはずだ。

 依代である自分がここに滞在すれば、神の回復を少しでも早められるかもしれないとわらにもすがる思いだった。


 ラフラでは神官を含め、数人の死者が出た。負傷者は多数。

 ジタや他の戦士たちの命に別状はなかったものの、今は大神殿の病室で安静を余儀なくされている。


 大神官は事態を重く受け止め、ホルス大神殿を封鎖した。

 神殿を出入りする全ての人間は外出を禁じられ、取り調べが行なわれている。


 とはいえ。

 その大神官ですら神職の一人だ。

 呪具に関わっていない保証はない。


 誰も信じることができない。

 この町にいる人間は、もう誰も信じられない。

 そして唯一、信じられたはずの存在は――何を呼びかけても今や悪態の一つすら返してくれない。


「くそ……っ! どうすればいい……どうすれば……!」


 神像の台座に背を預け、イスメトは頭を掻きむしる。


 あの後、カルフたちを使ってオアシスを隈なく捜索したが、他に呪具と思しきものは見つからなかった。

 だが、それで危険が去ったとは思えない。


 敵は何なのか。

 何が目的なのか。

 これから何をすべきなのか。


 自分一人で、何ができるのか。


 考えれば考えるほどに、終わりなき迷路に迷い込む。

 依代一人にできることは想像以上に少なかった。


 左手の甲を見る。

 神の刻印は消滅している。

 ジタとの戦いで消費した神力は、今なお体に供給されることはない。


 背中に携える槍は、神殿兵から借り受けたものだ。見栄えは美しいがそれだけ。神の力はもちろん宿っていない。


 仮に状況に進展があったとして。

 今のイスメトには混沌を祓う手段さえない。

 もしかしたら、魔獣と戦うことすら……。


 不安に耐えろ。

 恐怖を押し殺せ。

 セトが目覚めるまでの辛抱だ。


 ――でも、もしセトがこのまま目覚めなかったら?


 イスメトは首を振る。


 考えろ。もっと考えろ。

 神の声は聞こえずとも、叩き込まれた教えは今も叫んでいる。

 何があっても絶対に、前へ進めと。


 ――でも、前ってどっちなんだよ。


 自問自答の末、イスメトはついに立てた膝へ顔をうずめた。


「イスメト……?」


 その時。

 懐かしい声が、静寂のなか一粒だけこぼちる水滴のように、イスメトの心を波立たせた。


 泣きそうな顔もそのままに立ち上がる。

 神像越しに振り返ったのは、至聖所の最奥。


 その場所には小さな穴がある。

 彼女が眠っていた、あの穴が。


「エス、ト……?」


 せいへきのボサボサな長髪に、空色の澄んだ瞳。

 壁掛け炬火たいまつに照らし出された、心配そうな少女の顔は――まぎれもなく幼馴染みのものだった。


「だいじょうぶ……? イスメト」

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