第33話 何度でも

 気がついたとき、イスメトは夕日に染まる砂漠を空から見下ろしていた。

 そこはタァ=リ遺跡の丘の上。

 幼馴染み三人が将来の夢を語り合った、あの場所だった。


 丘とその先に広がる広大な砂漠。

 俯瞰的ふかんてきな視界の中で、イスメトは遙か下方に人影を見つける。


(あれは……僕……?)


 果ての見えぬ砂の大地をひたすら走る少年。

 それを自分自身だと認識した瞬間、視点がその自分へと切り替わった。

 それは夜に見る夢でしばしば起きうる現象。


 ここは混沌が見せるイスメトのこころの中だった。

 もっとも、本人にその自覚はない。


【何ヲ、ソンナニ、急グ】


 知らない声が、イスメトに問う。


「追いつかなきゃ……早く!」


 イスメトは特に疑心を抱くでもなく答える。


【何ニ? 何ノタメニ?】


 潜在意識が、問いの答えを幻覚として映し出す。

 砂と空しか見えぬ視界に、誰かの後ろ姿が現れた。


 ――そうだ僕は、あの背中をずっと追いかけていた。


「決まってるだろ! 僕は英雄にならなきゃいけない。早く父さんみたいな――」

【オマエが追っているのは、本当に父親か?】


 唐突に、問いかける声が変わった。

 背中が少しずつ近付いてくる。

 彼は赤い長髪を蜃気楼しんきろうのようになびかせて、振り返る。

 凶悪な笑みで、見下ろしてくる。


【誰が、誰に、追いつくだって?】


 追いかけていたのは父の背中――ずっとそう思っていた。

 だがいつしか少年の中で、超えるべき存在はすり替わっていた。


【ハッ、こいつァ傑作だ。オマエ、神にでもなるつもりかよ】

「ち、違う! 僕はただ、お前の隣に――」


 言いかけてハッとする。


 後ろでもなく、下でもなく。

 ただ助けられるだけの存在としてではなく。

 依代として、神の隣に当たり前のように立っていたい。


 自分がそんな大それたことを――身の程知らずで傲慢で、馬鹿馬鹿しい子供じみた夢を抱いていただなんて、今の今まで思いもしなかった。


【ククク……クハハハハッ!! こいつァ傑作だ! 現実が見えてねェにもほどがある】


 男はわらう。

 意地の悪い笑みを浮かべて、


【テメェが一番よォく分かってんだろ。テメェの限界ってヤツを】

「っ……!」


 走っても走っても、男との距離は縮まらない。

 男はただ腰に手を当て、こちらを見下ろしているだけなのに。

 いくら砂を蹴っても、どう足掻いても、触れることすら叶わない。


【たかがニンゲンに、神の相棒が本気で務まるとでも? 心配すんなゴミ虫。ハナからテメェにそんなことは期待しちゃいない】

「え……」

【テメェは今まで通り、ただ俺の助言を聞いて、手足になればいいんだよ】


 神の手足になる。それは確かに、神から最初に求められた条件だ。

 願いを叶えてもらう代わりに、体を貸す。

 これはそういう単純な『契約』に過ぎない。


 ――ああ、そうか。それで良かったのか。


 自分と神との関係に、それ以上の意味も意義もない。

 腹の中にうずくまっていた黒い何かが、ようやく重い腰を上げて移動を始めたような気がした。


 僕は、頑張りすぎていたのか。


【ほォら、もう足が棒だろォ? そろそろ休めよ。砂に寝転ぶと気持ちがいいぞ?】


 イスメトは砂に足を取られる。

 いつもならばとっさにバランスを取って転倒を防ぐところだが、もうどうでもいい気がした。


 本当に疲れていた。

 詳しいことは何も思い出せないが、ずっと必死だったことだけは覚えている。

 あいつがそう言うなら、そろそろ休んだ方がいいのかもしれない――


【~~ッ! こんのっ、クソウジ虫野郎がァァァ――ッ!!】


 突如、大気を揺るがす大音声。

 イスメトはビクッと体を跳ねさせた。

 折れかけた膝は砂を踏みしめ、次の一歩を進めざるをえなくなる。


【ぜッッてェに止まるんじゃねェ! 混沌に呑まれっぞッ!!】


 声は前からではなく、上から聞こえた。

 直後、赤い天から一条の光が流星のごとく襲来する。


「――っ!?」


 赤雷と砂塵が、進行方向で爆裂した。

 舞い上がる砂煙。イスメトは咄嗟に両腕で顔を覆う。

 そうして次に顔を上げた時――前方には二柱の神が立っていた。


【ハッ! よりによって俺が相手たァなッ!】

「セ、セトが……二人……!?」


 赤い長髪を風に激しく揺らめかせながら対峙する、二人の男。

 イスメトは呆然と双方を見比べる。


【まァだ寝ぼけてんのかグズが! テメェはとにかく走り続けろ! そんでこの砂漠を抜けやがれ!】

「で、でも……!」

【でももヘチマもねェ! ここはアポピスの見せる幻覚の中だ! ヤツの口車に乗って留まれば最後、魂を永遠の闇に囚われちまうぞ!】

【ソイツの言葉に耳を貸すな! ソイツは偽モンだ!】


 一方のセトが唾を吐きかけんばかりに叫び散らすと、もう一方のセトがすかさず口を挟んでくる。


【アァッ!? どの口でほざきやがるこのクソ野郎が――ッ!!】


 やがてセトとセトが言い争いを始めた。

 それも、もの凄い勢いで殴り合いながらである。

 あまりに人間離れした速度。イスメトはすぐにどちらがどちらか見分けが付かなくなった。


 どちらの体からも、血のように神力が飛び散り、きらめく。

 激しい肉弾戦によって時に腕や足が弾け飛び、かと思えば再生して今度は〈支配の杖ウアス〉を打ち付けあっている。


【――そら、オマエにこんな戦いができるか?】


 また、セトの声が頭に響く。

 もはや何が現実で、何が本物なのか。頭がこんがらがっていく。


【最初から無理・・なんだよ。オマエは俺と対等になどなれない】


 魂の世界では、イスメトが本物だと認識するものこそが現実。

 偽のセトが本物のセトと互角に戦い、その身を削り合っているのも、イスメトにとってはどちらも本物に見えているためだった。


 しかし――


「……お前、嫌いなんじゃなかったのか? その言葉」


 その均衡は今、崩れ去る。


 瞬間、イスメトの思考がようやく晴れる。

 恐怖を押し殺し、二柱の神が争う戦場へ――砂嵐の中へと走り出す。


 あいつは走り続けろと言った。

 ここが現実世界でないとすれば、目の前で起きていることに意味はない。


 だからこそ、あいつの言葉通りにすること。

 『前に向かって走り続ける』こと。

 きっとそれこそが、現状打破の唯一の鍵だ。


【無謀な野郎だ。この嵐の中をヒトの身で進めるとでも?】

【ちィっと黙れや、ソックリ野郎!】


 セトが、もう一方のセトを殴り飛ばす。

 殴られた方のセトの姿が一瞬、黒く歪んだ。

 その体からは無数の黒い手が飛び出し、蛇のごとく地をってイスメトの足を絡め取る。


「うあ――っ!?」


 瞬く間に全身に絡みつく無数の蛇。

 視界を闇で覆い尽くす、闇のかいな

 抗う気力すら吸い取り奪う、虚空の瞳。


 それらすべてを切り裂く、一陣の風。


「――っ、セト!?」


 神風をその身に受け、宙に投げ出されるイスメト。

 その目は、闇に組み付かれて視界の端へと消えるセトの姿を微かに捉えた。


【ッ、構うな! テメェがここを抜けりゃ俺も出られる!】


 その姿を思わず追いそうになって――思いとどまる。

 こっちは、『前』じゃない。


【そうだ、それでいい】


 神は駆け出す少年を背に、ニヤリと笑った。


 雄大で美しい砂漠の景色は、瞬く間に闇の色に浸食されていく。

 イスメトが事態を正しく認識し始めたことで、混沌の見せる幻想世界、その塗装ががれ落ち始めていた。


 やがて世界は色を失う。

 ただ一筋の希望――イスメトの前方から差し込む光を除いて。


【手を伸ばせ! 失ったとしても、何度でもだ!】


 セトの声と同時に。

 イスメトは勢いよく地を蹴った。


「だああぁぁぁぁ――ッ!!」


 精一杯に伸ばした手は、光を、確かに掴んだ。


 瞬間、闇の世界がひび割れ、砕け散る。

 闇の幻覚は弾け飛び、世界が急速に立体感を取り戻していく。


「がっ……!?」


 気付くと目の前に、見開かれた漆黒の瞳があった。

 イスメトは自分の体に刺さったジタの槍を両手で掴み、残る三つの刻印を無意識に全て解き放っていた。


 一気に放出されるセトの神力。それは、邪を引き裂く稲妻と化し、槍とその持ち主の中へと流れ込んでいく。その内に宿る混沌をことごとく焼き尽くしながら。


 呪具もまた、アポピスの力を伝導するために神鉱石ネレクトラムで作られている。ゆえに呪具は、イスメトから流し込まれたセトの神力を自ら媒介し、耐えきれずに内側から崩壊したのだった。


 呪具を取り落としたジタ。

 その膝はカクリと折れ、力無くその場に倒れ込む。

 一拍遅れて、周囲に待機していた戦士たちも崩れた。


(ジタは……無事、か……)


 魔獣に変貌する様子も、目立った怪我もない親友を見て、イスメトは心の底から安堵する。だが、ほっと息を吐き出すことはできなかった。


「がはっ……!」


 吐息の代わりに落ちたのは、血の塊だった。

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